7
走った。
どこへ向かっているのか、分からない。
ただ、あのホテルから、あの捕食者の視線から、一秒でも遠くへ逃げたかった。
路地裏に倒れ込み、胃の中身をアスファルトにぶちまけた。
思考回路(OS)は、完全に崩壊(クラッシュ)していた。
視界の端に、意味不明のエラーコードが高速でスクロールしていく。
頭の中で、全てのファイルが同時に開かれ、音声が重なり合って再生されるような、耐え難いノイズが鳴り響いていた。
ポケットの中で、何かがごわついた。
紙の束。伊藤リナが、俺に託した、呪いのような、あるいは救いのような紙。
そうだ。彼女だ。
彼女だけが、この悪夢を、現実だと知っている。
震える手でスマートフォンを取り出し、彼女に電話をかけた。
指定されたのは、新宿の路地裏にある、古い喫茶店だった。
店内には、燻んだコーヒーの匂いが染み付いている。
無機質なホテルのスイートルームとは、何もかもが対照的な、人間臭い空間。
俺は、震えを隠せないまま、彼女の向かいに座った。
そして、途切れ途切れに、全てを話した。
特別セッション。瞑想。意識だけの世界。五つの光の球体。
そして、全てを飲み込む、佐藤の漆黒の闇。
リナは、黙って聞いていた。
俺が話し終えると、彼女は、静かに自分のバッグから、一冊の古いノートを取り出した。
「弟が、遺したものです」
彼女が開いたページには、稚拙だが、しかし正確な絵が描かれていた。
中心に描かれた、黒く塗りつぶされた円。そこに向かって、いくつもの光の線が吸い込まれていく構図。
俺が、あの空間で見た光景と、完全に一致していた。
「あなたの体験は、幻覚じゃない。現実です」
リナの言葉が、俺の砕け散った世界観の破片を、一つに繋ぎ合わせた。
俺は、目の前に置かれた、湯気の立つコーヒーを一口飲んだ。
ただ、ひどく熱く、苦かった。
だが、それは久しぶりに感じる、本物の「味」だった。
「復讐したいんですか」
俺は、尋ねた。
「最初は、そうだった。でも、今は違う」
彼女は、弟が描いた絵を、そっと指でなぞった。
「もう誰も、弟と同じ目に遭わせたくない。ただ、それだけです」
その言葉に、嘘はなかった。
俺の中に、恐怖とは別の、新しい感情が芽生えていた。
怒りだった。
リナは、そんな俺の目を見て、覚悟を試すように、鋭く問いかけた。
「本当に戦えますか? 相手は、あなたの思考そのものです。昨日までのあなたを、あなた自身の力で殺せますか?」
その問いは、戦いの本質を俺に突きつけた。
俺は、顔を上げた。リナの目を、まっすぐに見る。
「俺も、同じです」
言葉は、少なかった。だが、それで十分だった。
この日、この薄暗い喫茶店の片隅で、俺たちの戦いは、静かに始まった。
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