第2話 緑の糸、鶏の線

 路地は、午後の熱をまだ少し抱いていた。ビル風が角を曲がるたび、ショーウィンドウのガラスが低く鳴る。看板の矢印に従って細い通りへ入ると、白木に麦穂と橄欖の葉をあしらった小さなプレートが見えた。店の名は麦と橄欖。ラーメン屋というより、呼吸の深い喫茶店の顔をしている。


 ドアを押す。鶏の湯気が、胸の奥の柔らかいところにそっと置かれる。動物臭はなく、骨の甘さだけが一本の線になって鼻へ抜けた。

 厨房の奥で、白衣の男が鍋を覗き込み、温度計をひと撫でする。フレンチの厨房で見かける所作だ。


「いらっしゃいませ」

 男は目だけで笑った。「緑川と申します。初めてなら、うちの“鶏清湯そば”をどうぞ。まずは素で。途中から“緑の糸”を落としてみてください」


「緑の糸?」

「小さじ1杯のエクストラバージン・オイルです。香りの導線になります」


 カメラマンの天草が、卓上のコースターをそっと動かした。レンズは抜いておく。今日は取材というより、まず舌に地図を描く日だ。


 券売機で食券を買って戻ると、席の向こうから手を振る影がある。

 青だ。昨日、のれんの端の紙片を見上げていたあの少女。髪をひとつ結びにして、方眼ノートを広げている。


「小池さん」

「早いね。学校は?」

「期末の考査が終わって、放課後が自由なんです。今日のメモ、もうページが足りなくて」


 緑川が丼を置いた。底に黒い返し。とろりではなく、光が通る黒だ。寸胴から金色のスープ。表面に星屑のような鶏油。

 最後に、細くまっすぐな麺が揃って収まる。角刃で切り出した中細のストレート。低加水寄りの生地が、湯を纏って静かに艶めいた。


「スープは、大山地鶏のガラと丸鶏で6時間以上。いったん火を落として一晩寝かせ、朝に挽き肉を入れてもう一段旨味を引き出します。濁らせない方向です」

 緑川は続ける。「返しは、三つの蔵の醤油を和音に。色は深いですが、塩は角を落としてあります。前半はそのまま、半分を過ぎたら“緑の糸”を。レンゲの上にひと筋垂らすのがコツです」


 私は丼の縁をいつものようにコツンと弾いた。乾いた良い音が出る。

 一口。

 鶏の甘さは、舌の真ん中でふくらんで、そのまま背骨へ降りた。黒い返しの酸がゆるく背中を押し、鶏油が天井をひとつ高くする。穂先メンマは繊維が細く、スープの輪郭を壊さない。しっとりした鶏胸のレアチャーが淡く解ける。


「……うまい」

 青が、ノートに小さく丸をつけた。「甘み、キレ、余韻——三語、太字にしておきます」


「麺はどう?」

「音が軽いです。“パツン”って切れて、でも乾いてない。小麦の匂いが、黒い返しの奥から少し上がってきます」


 私は笑って頷く。青の舌は、初めての地形をすなおに描く。


「では、緑の糸を」

 緑川が小皿を置いた。オリーブの液面が、照明を薄く跳ね返す。

 青がレンゲを持ち、スープを半分すくって、オイルをひと筋。

 香りが立つ。柑橘に似た青いノートと、草の芯のような苦み。黒い和音の輪郭だけが、薄く光った。


「すごい……線が太くなりましたね」

「香りを足したというより、見えなかった線に蛍光ペンを引いた感じだ」私は言った。「味はそのまま、読むスピードが上がる」


 青が半熟玉子に箸を入れた。黄身が、金色の海にゆっくりと落ちる。

「これは?」

「句読点だよ。鶏の甘さと返しのキレをいったん座らせる」

 青は頷き、顔を上げた。「昨日の“赤の橋”は、文章でいう接続詞でした。今日は“緑の糸”で主語が立って、玉子で句点が打たれる」


 言葉が、いい方向に育っている。私は、編集者の真杉から届いた午前のメッセージを思い出す。《キャッチの断言を増やして。説明より見出し》

 断言は怖い。けれど、今の青を見ていると、こちらが怖がっている場合ではない気がしてくる。


 そこへ、ドアの鈴が強く鳴った。

 黒いキャップ、ジンバルに乗ったスマホ、派手なサムネ用の照明。麺ログ兄弟が入ってきた。兄の迅が手を挙げる。


「撮って大丈夫っすかー? “清湯なのに香り足す店、ほんとに必要?”ってテーマで」

 緑川は、表情を崩さない。「撮影は、他のお客さまの迷惑にならない範囲でお願いします。香りについては、必要か不要かではなく、どこでどう使うかの話です」


「いや、視聴者は“要る/要らない”の二択で見たいわけで」迅が笑う。

 弟の凪が私たちの丼を見て、小声で言った。「……でも、うまそうだ」


 青が小さく息を吸って、立ち上がった。

「必要か不要かじゃなくて、明日に続くかどうかで見てください。今日はおいしくて、明日はもう少し早くこの香りに会いたくなる。それが“緑の糸”の仕事です」


 迅が一瞬だけ言葉につまる。凪が笑う。

「なにそれ、うまい。明日に続くね。兄貴、タイトルそれにしなよ」

「……検討します」迅はレンズを下げた。「撮影は短くやります。ごめんなさい」


 空気が静かに戻った。緑川が、青の前に小さな器を置く。

「香りの測り直しをしましょう」

 器にはスープと返しが少量。青がオイルを“点”で落とし、鼻を近づける。

 私はその横で、黒い返しの和音を聴く。三つの蔵の声の高さが違い、ひとつは酸が前に出、ひとつは旨味が太く、ひとつは香りの調子。和音に“緑の糸”が加わると、黒の中に見えない縦線が立つ。音楽でいうインテンポが、一段階上がる。


「……“言い切らず、誘う香り”ですね」青が言った。緑川が小さく笑う。

「そう。香りは、言い切りを嫌う。料理は“ここだよ”と指を差すより、“こっちですよ”と視線で合図するほうが、心地いい」


 天草が、静かなシャッターを1回切った。湯気の層がきれいに重なる。

 私はノートに短く書く。緑は導線、黒は和音、黄身は句読点。そして、ページの下に走り書きする。同じ味は、いつも違う明日にいる。



 丼の底が浅く見え始めたころ、青のスマホが震えた。画面に「母」の文字が浮かぶ。青は席を外し、短く話して戻ってきた。笑ってはいるが、笑顔の筋肉がほんの少し固い。


「お祖父ちゃん?」

「うん。明日、検査で入院が延びるかも。でも大丈夫。見えない赤は、見える心で作るって。さっき、病室で言ってた」


 私は、昨日の御園生の古いレードルを思い出す。見えない赤、見える緑。線は違っても、言葉は同じ場所へ帰ってくる。


「今日はここで、断言をひとつ増やそう」私は言った。「この清湯は、“足さないから上質”じゃない。足す場所を選べるから上質だ」


 青が、うれしそうに目を細めた。「書きましょう。大見出しで」


「真杉に送る前に、もう一杯だけ確認していい?」

「もちろん」緑川が頷く。「同じ丼は、さっきとはもう違います。同じじゃない条件を揃えようと努力するのが、料理なので」


 2杯目の丼は、温度の曲線がわずかに違って、香りの立ち方が1拍早い。私は前半を素で進め、中盤でレンゲの上に緑の糸を落とし、終盤で半熟玉子を割った。

 飲み干さない。今日のスープは卒業ではなく、続きだ。残すのは、約束を延ばすみたいで、良い。



 店を出ると、夕暮れの銀座が、青と金に分かれ始めていた。

 角で風が向きを変え、看板の金具がカチンと鳴る。

 青が歩幅を少しだけ広げる。

「文化祭の展示、テーマを変えます。“好きの地図”から、“明日に続く味”に」

「いいね。展示の最後に、家でできる一手を必ず入れよう。今日なら“レンゲの上にオイル小さじ1”。昨日は“黒胡椒2粒”だった」


「明日の一手は?」

「何も足さないだ。塩の店に行く。空白が味を連れてくる場所を、ちゃんと見たい」


 そこで、またスマホが震えた。編集者の真杉。私は立ち止まり、青に向かって親指を立てる。

《第2回の見出し:緑の糸が、鶏の線を見える線にした。本文は三段構成——素→緑→句読点。キャッチは“足す場所を選べるから上質”で行きます》

 送信して、空を見上げる。雲の輪郭がオレンジに縁どられている。明日の色だ。


「小池さん」

「ん?」

「線、太くなりましたね」

 青が笑う。私はうなずく。

「うん。言葉の線も、味の線も」


 私たちは並んで歩き出した。路地の奥に、小さな灯りがひとつ、遠く見えた。

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