見えない赤 — ラーメン手帖

湊 マチ

第1話 赤い酢桶の匂い

プロローグ 赤い酢桶の匂い


 祖父の台所は、音が少ない。

 包丁のまな板を打つ音も、湯が立つ気配も、まるで畳の下にしまったみたいに静かだ。

 蒸し暑い夏の夜、祖父は酢桶の蓋をそっと外した。木の輪が一度だけ鳴って、甘いような、古い蔵のような匂いが部屋に広がった。


「嗅いでみろ、青」

 うながされて顔を寄せると、鼻の奥に、見えない赤い線がすっと引かれた気がした。

「これが“赤酢”。色はうすいが、赤はここにある」

 祖父は、団扇でゆっくり扇ぎながら言った。「赤は辛さじゃない。約束の色だ。明日も、また食べたくなる約束」


 その夜、私は夏休みの自由研究を途中でやめて「味のノート」を作り始めた。ノートの最初のページには、震える字でこう書いてある。


見えない赤は、見える心で作る。


 ——それから8年。私は高校2年になって、ラーメンに夢中になった。

 あの赤い線の正体を、いつか自分の言葉で指さすために。



第1話 のれんの向こうで、線を引く


 今日の一杯は、どこに線を引く?


 カメラマンの天草に合図して、白いのれんをくぐる。路地はまだ昼の熱を抱いたままなのに、店内だけ空気の密度が違う。寸胴が低く鳴って、背脂が光をほどく。カウンター8席、壁に古いレードルが掛かっている。


「いらっしゃい」

 店主の名は御園生。年の頃は40代半ば。眉の下の影が、迷いのない人間のそれだ。

「基本のみそで。背脂は中、辛味は少し」

「はいよ。東京スタイル、いっちょ」


 骨の甘さと昆布の低音が重なり、鯖節と鰹節が鼻腔の奥で交差する。玉杓子の中で、5種類の赤味噌がほどける。江戸の甘み、信州のキレ、そして——もう3つ。香りは厚くなるのに、濁らない。

 丼の底で黒い返しが深さを作り、背脂が雪片のように散る。平打の中太ちぢれ麺が光の膜をまとって収まった。


 私はレンゲを沈める前に、丼の縁を指でコツンと弾いた。音の乾き具合で、その日のバランスを測る癖だ。

 一口。甘みが舌の手前でほどけ、信州の塩角が背筋を正す。椎茸の旨味が背脂と和解し、煮干しが最後尾で手を振る。

「……うまい。記憶が、あったまる」


 隣の席で制服の少女が券売機に迷っていた。

「どれが“正解”ですか」

「最初は基本のみそ。5つの赤を地図にするんだ」

「地図?」

「甘み、コク、香り、辛み、余韻。5つの目印。順番に踏んでいけば、帰り道で迷わない」


 少女は照れ笑いして頷いた。

 そのとき、のれんの端で紙片が揺れた。マジックの走り書き。


18:00 常連限定 “6つ目の赤”試作


 背中のどこかで、編集者・真杉の声が蘇る。「12週でKPIクリアね。フォロワー10万人、予約1万部。炎上は厳禁」

 ——厳禁、ね。炎上は怖い。でも、怖さだけで線を引くのは、いちばん安い編集だ。



 夕方。常連が5人。昼の少女も列にいた。

「今日は3案だ」御園生は黒板にA/B/Cとだけ書いた。「先入観は捨てて、舌で答えを出してくれ」


 Aは、舌の脇が意識だけ緊張する。「唐辛子麹?」

「近いが違う。香味の赤を狙った。悪くないが“辛い店”になってしまう」

Bは、背脂の丸みを保ったまま輪郭が澄む。「……酸だ。でも、酢の押し付けじゃない」

「赤酢だよ。江戸前の。返しに一滴。入れどころが難しい」

 Cは、余韻が長く、どこか懐かしい。「麦芽?」

「そう。煮詰めた赤飴を糸のように。照りの赤だ」


 少女が勢いよく手を挙げた。

「**私、Bが好きです。**帰り道に“また明日”って言いたくなる軽さ」

「正直でよろしい」御園生が笑う。私も頷いた。

「Bでいきましょう。——ただ、ひと手間」


 黒板の粉の匂いの中で、私は言葉を探した。

「赤酢は“表層”に薄い層を作る。そのままだと、レンゲの一口と麺の一口で印象が割れる。粗挽き黒胡椒を2粒分、最後に散らせますか。酸の面に、見えない橋を。」


 御園生は無言で、もう1杯を組み立てた。

 玉杓子が寸胴の底で1回転、赤味噌がやわらかくほどける。返し。背脂。赤酢を一滴。間。黒胡椒を親指と人差し指でつまみ、ひと振り。

「どうぞ」


 一口目、背脂の甘さが膨らむ前に赤酢が姿勢を正す。二口目、麺がスープを抱いて上がると胡椒がきれいな線を引く。軽いのに、薄くない。

「……これだ」私は声に出した。「江戸を残して、江戸を越える。赤は見えない。でも、澄んだ空気だけが1度、上がる」


 少女が笑ってうなずく。御園生は、店の隅の古いレードルに目をやった。

「赤酢は、父の置き土産だ。寿司屋の家で育って、俺は家業を捨てた。最後の日、父はこれを渡した。“赤は赤でも、見えない赤がある。好きに使え”って。悔しくて、長いあいだ封印してた」


「封印を解いたのは?」

「去年。東京で味噌を名乗る意味を、もう一度考えた。背脂も出汁も、明日に続く味でなきゃ嘘だ。だから“6つ目”を探した」


 私は頷き、メモ帳に短く書いた。見えない赤=赤酢+胡椒の橋。

 この文を、断言として活字にする勇気が、自分にあるかどうか。

 3年前の炎上が喉に引っかかる。私は、断言を避けて説明に逃げる癖がある。


 そのとき、少女が私の肩を指で突いた。

「小池さん。断言していいと思います」

「……どうして」

「**私、今、目の前で“橋”を見たから。**見えないけど、渡れました」


 私は笑って、うなずいた。

「じゃあ、書こう。“6つ目の赤は見えない。だが、橋は渡れる”」



 店は夜のラッシュを迎え、湯気の白が灯りを柔らかくした。

 閉店間際、少女が母親を連れて戻ってきた。

「母にも、今日の味を」

「2杯、赤返しでいいかい」御園生が言う。

 母娘は同じタイミングでレンゲを持ち上げ、一口。

「軽いのに、染みる」

「ね。明日も来たくなるでしょ」少女が笑った。


 私は会計のとき、名刺を出した。「ラーメン手帖という連載を準備しています。今日の“赤返し”、書かせてください」

「店名は伏せてくれ」御園生が目を細める。「見えない赤は、見えないまま広がるのがいい」

「了解。最後に、もうひとつだけ」

「なんだ」


「背脂は、なぜ中が似合う?」

「余白だからだよ。少ないと迷いが出る。多いと独りよがりになる。中は、“あなたと半分こ”の量だ」


 のれんが夜風に揺れた。

 路地に出ると、編集者のメッセージが来ていた。《初回原稿、明日12:00締切。KPIの言い切り、怖がるな》

私は打ち返す。《タイトル決まりました》

 “見えない赤、見える地図”。


 ポケットの中で、黒胡椒の粒が転がる音がした気がした。

 明日の口にも、また同じ澄み方を欲しくさせる——約束の色が、たしかにあった。

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