子供ファースト宣言
そうざ
Children First Declaration
応接室の前に立つ。軽く呼吸を整え、ドアを軽くノックする。
反応がない。が、中に人が居るのは分かっている。
私はドアにそっと手を掛け、未知の世界へ踏み込むような気分で息を吐いた。
事の始まりは、数時間前に遡る。
朝の会から戻ると、何やら職員室の空気が緊張していた。保護者を名乗る男から、三年一組の担任教師、詰まりは私と話がしたいという電話があったらしい。先方の名前を訊ねても、担任教師に名乗る、の一点張りで、用件を訊ねても、担任教師に伝える、と一歩も引かない。今は席を外しているので折り返させる旨を伝えても、こちらからまた掛け直す、と切ってしまう。そして、その言葉通り、数分置きに電話があり、担任教師は戻ったか、まさか居留守か、と言いたい放題。
私は、学期始めの保護者会を思い出した。が、該当しそうな顔は蘇らない。そもそも出席者の多くは母親だった。
何かしらのクレームかも知れない。曖昧な不安に駆られていると、果たして電話が鳴った。
相手は、電話に出たのが担任教師だと判ると、ヒガイです、娘がお世話になっております、とあっさり名乗った。直ぐにうちのクラスの
男性の先生とは知りませんでした、娘の事は妻に任せ切りなもので、などと気さくに話す火飼に拍子抜けをしながらも、私は胸を撫で下ろした。
しかし、今から学校へ行くと言い出したのには面食らった。授業があるので直ぐには対応出来ない旨を説明しても、一時間目が終わった後はどうか、二時間目の後はどうかと食い下がって来る。私は威勢に押されつつも、放課後ならばと時刻を指定し、その場を何とか収拾させた。
肝心の用件を訊き忘れた事に気付いたのは、電話を切った後だった。折り返そうにも、先方の番号は非通知になっていた。
帰りの会が終わり、職員室に戻るや否や、事務職員が神妙な面持ちで、例の方がお待ちです、と言った。約束の十五時半には、まだ一時間近くもあった。
余程せっかちな性格なのか、緊急を要する事柄なのか、私は直ぐに応接室へ向かった。面倒臭い事はさっさと片付けてしまおう――私の中のそんな感覚が背を押した事は否定出来ない。
「失礼します」
私の声に、長テーブルのパイプ椅子に腰掛けた小太りの男性が、薄毛の頭を上げた。居眠りをしていたらしい。
「初めまして、担任の
私よりも年上だろうか、頭髪でそう見えるだけなのか、意外と年下の可能性も――そんな詮索を巡らせながら、私は対座した。
「証明出来るものは?」
「はい?」
「よくあるじゃないですか、電話で本人に成り済ます詐欺が」
「……でしたら、保護者会の案内に顔写真が載ってますので、持って参りましょうか?」
「ま、そんな事はどうでも良いです。早く本題に入りましょう」
返す言葉を失う私を他所に、日飼は足元に置いたリュックサックからノートパソコンを取り出すと、対面の私にも見える角度で置いた。デスクトップ画面全体にぎっしりアイコンが整列している。全て動画ファイルのようだった。
日飼はタッチパッドに触れ、その中の一つを再生させた。その途端、応接室に歓声と音楽が広がった。眩しい陽光の下、
「運動会?」
映像の縦横比や鮮明度からして、スマートフォンではなくデジタルカメラで撮ったものだろう。つい先月、開催された我が校の運動会である事は、映り込んでいる校舎や来賓席の顔触れ等がはっきりと示している。
「徒競走、ですね?」
対話の努力を示す私に対し、日飼は口元に人差し指を立て、小さくしーっと息を吐いた。
カメラは子供達の動きを丹念に追う。男女が一緒に走っているのは、低学年の徒競走だからだ。我が校は、男女の体力差が少ない低学年に限り、性別や学級の垣根を取っ払う遣り方を採用している。
動画が終わると、続けて次の動画が再生される。まさか全てのレースを撮影し、保存しているというのか。
子供達がスタートラインに並び、ピストル音で走り出し、コーナーを曲がり、ゴールテープを切る。一位から三位までの生徒には記念のリボンが与えられる。勝った喜び、負けた悔しさ、子供心に焼き付く小さな
動画が次々に再生される。日飼は画面を凝視するだけで、相変わらず何も言わない――と思った矢先だった。
「このレース、よく見て下さい」
日飼の唐突な発語に、私はぶるっと身を震わせた。
スタートラインに五つの体操服が並ぶ。好スタートを切ったのは、
彼女は日頃から体育を独擅場にしている。瞬発力、持久力に優れ、マット運動、跳び箱、鉄棒、縄跳び、特に足の速さに懸けては他の追随を許さない。
「うちの娘、可愛いでしょ?」
「……そうですね」
「えげつない透明感でしょ?」
「……はぁ」
確かに男女の区別なく人気のある生徒だ。まさか、娘を自慢しに来たとでも言うのか。
砂埃を巻き上げながら、星を先頭に一群はコーナーを曲がり、ゴールへの直線コースに至った。声援が一段と高まる。
そうか――この後に或る展開が待っているのだ。
突然、星の足が
動画は、私の記憶通りに一部始終を記録していた。
「おかしいですよね」
そう呟くと、日飼はテーブルに両肘を突き、組んだ手の甲に顎を載せた。
私は、今日の用件が判った気がした。と同時に、厄介な予感が頭を
「まぁ……勝負は時の運と言いますか」
「競馬みたいに言わないで下さい」
「そういう意味では――」
「うちの娘は
「……」
「ま、そんな事はどうでも良いです。早く本題に入りましょう」
確かもう本題に入っていた筈なのだが、時間が巻き戻ったような錯覚が私を襲う。
「何だと思います?」
「はい?」
「僕が今日、ここに来た理由ですよぉ」
何故、勿体振るのか。
「分かりません」
「じゃ、ヒントをあげましょう」
何故、クイズ形式になるのか。
日飼は
「1位……2位……3位……これで解ったでしょ?」
それか――話が見えた。
運動会の競技に順位を付けるのは如何なものか。そんな意見が聞かれるようになって久しい。否、子供達にもちゃんと競争心を養わせるべきだ、否、不用意に劣等感を植え付けるべきではない、否、目標を持つのは大事だ、否、純粋に運動を楽しめば良い――未だに賛否両論が対立している。
「色んなご意見があるのは存じておりますが、本校と致しましては――」
「架俄井先生、楽器は?」
「⋯⋯楽器?」
「ピアノ、弾ける?」
「……全く」
「白鍵と黒鍵の間に何があるか知ってる?」
「何もない⋯⋯です」
「いやいやいや、困っちゃうなぁ、基礎教養もへったくれもないなんてさぁ」
日飼が頭皮を掻き毟る。私は抜け毛を心配する。
「例えば、ドとドのシャープの間には本来、無数の音が存在してるじゃないですかぁ」
道行く老若男女を百人集め、その内の何人がこの
「ちっ」
舌打ちを一つ、日飼が再びタッチパッドに触れる。娘の動画が頭から始まる。
「娘は二年生の時も一年生の時も一位だったんだから、実力は証明済みです。足が縺れたのは不可抗力。不可抗力とは人智の及ばない領域の事。学校の先生ならこれくらいの理屈は理解出来るでしょう?」
もう一度、当日と同じ顔触れで遣り直せ、娘が一位になるまで何度でも――そんな主張を覚悟し、私は寒気を覚えながら身構えた。
「という訳で、うちの娘が真の1位、男子生徒は偽の1位。でも、偽物呼ばわりは可哀想だから1.6位とか1.85位くらいにしてやって下さい。その他の走者は順位を一つずつ上げて、これで丸く収まりますね」
「この件は職員会議の議題に致します。なのでまた後日、改めて――」
「ま、そんな事はどうでも良いです」
「……?」
「早く本題に入りましょう」
私の記憶が壊れていなければ、これで何回目かの本題だ。まるで動画のように堂々巡りをしている。
「実は、子供達を撮影している合い間に、偶々或る教師の行動が目に留まりましてね」
日飼は再び身を屈め、心なしか声を潜めた。
「行動?」
「百聞は一見に
日飼が別のファイルをタッチする。
子供達の応援がうねりとなり、最高潮に達する中を、カメラは主賓席のテントへズームして行く。
校長、教頭、PTA会長や教育委員会の関係者等が居並ぶその背後に、その教師は影法師のように佇んでいた。
カメラは固定され、定点観測を始める。
その教師は一見、他の観覧者と変わらず子供達の奮闘を眺めているが、その視線を落ち着きなく浮遊させているのが判る。何かを注視するような、求めるような動きだった。
そして、顎を撫でながら舌舐めずりをする。カメラに撮られているとは露知らず、何度も、幾度となく、エンドレス再生のように繰り返す。
「本題はこの先です」
無骨な指が次々にファイルを再生させる。いつしか血色の増した日飼の顔に、何故か不似合いな微笑が浮かんでいる。
主賓席を離れた教師が、数々の競技に参戦する様子が映し出される。玉入れ、綱引き、障害物競走と、子供達の勝敗が決する度に、大いに讃え、または親身に慰める。頭を撫で、肩を抱き、身体を
「他の先生方や保護者の方々は、何とも思ってないようですねぇ。もし同じ事を女子生徒にしたら即刻アウトでしょうに」
日飼の泰然とした声が耳鳴りの向こうで聴こえる。唇が渇く一方で、全身が汗に
盗み撮りされている教師は――私だった。
これが来校の目的、この男の本当の本題だったのだ。
「生徒との連帯感や信頼関係を築くのも、教師の大事な役目ですから、子供達も別に嫌がってませんし――」
「架俄井先生ぇ、もしかして動揺してます?」
侮蔑と挑発――私の中で何かが弾け、決壊した。
「だったらっ、貴方は何故こんな動画を撮ってるんですかっ? 自分の娘どころか他の生徒までっ、男児も女児も一年生から六年生までっ」
日飼の微笑はまるで揺るがない。
「よく訊いてくれましたぁ。僕はね、子供達の溌剌とした姿を未来に遺したいんですよっ」
頑張れぇ、頑張れぇ――ノートパソコンから子供達の必死な声援が溢れ出る。
睨み合いにも似た時間だった。
下手に攻めれば足を掬われる。墓穴を掘らせようとすれば、自らも引き摺り込まれる。
やがて、どうした事か、対面の人物は鏡像に過ぎないのではないか――そんな錯覚が私の意識を蝕み始めた。
窓の外で、下校の音楽が流れている。運動会の軽快なBGMに慣れた耳には、全てに終わりを告げる旋律に聴こえた。
「あ⋯⋯夕飯の前までに帰らないと。家族が待ってるので、今日はこれで失礼しまぁす」
日飼がそそくさとノートパソコンを畳み、リュックサックに仕舞う。
やっと嵐が過ぎ去る。ついさっきまで、私は一も二もなくこの瞬間を待ち望んでいた筈だ。
しかし、変わってしまった。この男と会う前の私と今の私とでは、別人も同然になってしまった。
私は必死に思考を巡らせた。この男をこのまま帰らせてはならない、取り敢えず引き留めなければならない、何とか引き留め、引き留めたら、その後は――。
「そうだ……」
声を発したのは、日飼の方だった。
ドアの前でくるりと振り返り、正気を失う寸前の私にさらりと言う。
「僕は実の娘を撮影して悦に入るような変態じゃないので、その辺は誤解なきよう、お願いしますね」
ばっちり撮ってるじゃないか、と反目する隙はなかった。日飼の微笑が透かさず封じたのだ。
「星はね、妻の連れ子なんですよぉ」
一人、取り残された応接室で、私は瞳を閉じる。まだこの世界の穢れを知らない子供達が、健気に躍動を繰り返す。自然と舌舐めずりをしている自分に気付く。
私は、矢も楯も堪らず廊下へ飛び出した。来校証を返却し終え、昇降口へ向かう日飼の姿が、まだ遠くにあった。
私は後を追う。自然と足早になる。もう迷いは消えている。他に選択肢があろう筈もない。
日飼が私の気配を認める。その頭皮は夕暮れの光を鈍く反射している。
何かを言いた
「他の動画も、見せて下さい……参考までに」
日飼の歪んだ微笑が、ゆっくりと復活する。それは、思い掛けず同類を見付けた驚きと、期待通りに解り合えた歓びとを表しているに違いなかった。
「勿論ですよ」
同盟が成立した瞬間だった。
子供ファースト宣言 そうざ @so-za
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