楽園の樹

はらから

1.

 少年の髪が揺れる、美しい炎みたいだ。昔、アリスターがあの樹を好きだと言っていた。

赤い髪の彼は恋い焦がれるような瞳で遥か地平の先に佇むエアルの樹を見ていた。遠い昔、私も彼も幼かったころ、樹は遥か遠くから燦々とその姿をこの目に焼き付けていた。幼い私達にとって一番神聖なものであったそれは、緑の手を天高く伸ばし、大自然の強大さを私達に教えてくれた、あの美しく雄大なエアルの樹。

あの頃見た輝かしいそれを私達は、いや彼は、アリスターはきっと忘れることはなかっただろう。しかし、あの頃彼があんなにも熱っぽく見つめていた樹は今や私の足元でつま先をかつかつと突く悪路として立ちはだかっている。ジメジメとした道は山道によく似通っていて。ふと、私はあんなにも神聖にみえたこの樹の表面がこんなにも凡庸に地面であることに彼は耐えられたのだろうかと考えた。この樹に焦がれ村を飛び出した彼が、樹に抱く感情が失望になるとしたら、この樹にあったはずの神聖さをもし彼が感じられなかったなら、あの日、私達は何のために村を飛び出したというのだろう。

突然、つま先にがつんと衝撃が走る。ああ、この悪路を形作った木の根はついにこのふらふらと動く足を捉えることに成功したらしい。視界にうつる世界がくるんとひっくり返りそうになったとき、右手をぐいとひかれる。右手を引かれたことで転倒を避けることはできたが、勢いを上手く殺すことはできずに手が地面についた。湿った地面が嫌に気持ち悪い。ふと見上げると、疲れ果てた顔をした赤髪の少年が腕を掴んでいた。生白い少年の指先から子供特有の高い体温が腕にまとわりついてくる。ぱさりと揺れる赤い髪、もういない彼の髪と同じだった。

「…アリスター?」

いや、彼はアリスターではない。彼はもう友人のように私の腕を引いてはくれないのだ。

村の少年という言葉が頭に浮かぶ。そうだ彼は村の少年、忘れてはならない。美しい赤の髪はアリスターだけのものではない。

「アール」

少年の名を呼ぶ、この少年とは長い付き合いだというのに、私はそのとき初めてこの少年の名がアリスターと似た響きをしていることに気がついた。

少年は目を細め、荒く息を吐いている。妙に口を開閉しているがどうやら疲れ果て、声を出すのが億劫になっているらしかった。

「休むか?」

少年は私の方を見つめ、首を横に振った。疲れ果てているようだが休むつもりはないらしい。それもそうだろう、村を抜け出して数刻彼は何も教えてくれなかったが、彼の顔には常にはない焦燥がずっと浮かんでいる。ふと、アリスターと村を出たときのことを思い出す。

あの時はこんな風に抜け出すように出発したわけではなかったが、それでも大変だったのを覚えている。そういえばあの日山道で疲れ果てた私の手を彼もこうやって引いてくれた。

「…手を」

前を歩いていた少年が立ち止まり、緩慢な動作で私の方を振り向いた。

震える唇がぼろりと言葉を吐き出す。許しを得たかったのかもしれない、声はへりくだるような響きを含んでしまった気がした。

「手を離さなくていいのか」

その言葉をどう受け取ったのだろうか。少年は私の右腕を掴んでいた自身の手をじっと見つめると、ふっと力を抜いた。すとんと少年の手が滑り落ちる。離れる彼の指先が名残惜しくて、無意識に左手が彼の腕を追いかけた。ああ、彼はアリスターではないから、ずっと私の手を引いてくれるわけではない、そんな悲嘆が胸に染み込んだ。

そうして私に構わずずんずんと先に進んでいた少年が私の方を振り返る。勝手な失望に囚われ動きが鈍くなった私に何を思ったのか、彼は私の方に歩みより、手を差し出した。

「どう、して」

少年はかすれた声でぼそぼそと答えた。

「疲れてんだろ、手出せよ」

心が歓喜に染まった。彼はアリスターではないとわかっている、私より遥かに年下の子供だと。ああ、それでも、どうして君はアリスターのように在るのだろう。どうして、彼と同じように手を差し出してしまうのだろう。しかし、少年は彼じゃない。私もあの頃とは違う。

庇護者が子供に縋りつくわけには行かないのだ。歓喜に沈みそうになる心をぐっと抑え、震える手で少年の手に触れる。困惑したような彼にそっと自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「私は大丈夫だ、君の手を煩わせるわけには行かない。大人、なのだからな」

そう言うと、彼はふーんそうと言い、手を下げる。差し出された手を自ら振り払ったことに私の心が悲しみに暴れているのがわかった。

だくだくとあふれる汗が目に入る、少し目に染みて痛かった。額を服の袖で拭うと白い袖がぐっしょりと濡れ、灰色に変色していた。久々に長時間体を動かしたせいだろう、荒くなった息を誤魔化すようにふうと息をつき、視線を下ろす。

がたがたと荒い道が先程よりどうにも赤かった。ふと気づき顔をあげる、日が沈むのだ。この樹上において一番眩い瞬間が訪れようとしていた。

エアルの樹の葉は水分を多く含み、澄んだ見た目をしているが、それでも厚い。照りつける日をやわらげてくれる効果はあったが日中に差すそれは眩いほどの日とは言いがたかった。しかし、四つの刻の中の夕の刻、特に夕と夜の境目のとき樹の横からまっすぐに差し込む日はいつも鮮烈に赤い。そういえば村の人々はこの夕日を好み、夕刻の始まりから終わりまでの間よく宴を開いている。この瞬間の陽は本当に美しい。村人との数少ない気が合うと思った部分だった。

ふと見ると、前を歩く少年の髪がこれまで見てきた中でも一際美しく赤く燃えていた。目尻に涙が滲むほど眩く、美しかった。彼の姿をいつも見るのは朝方か昼頃しかなかったから、彼に夕日が似合うなど考えたこともなかった。どうして思いつかなかったのだろう、彼の赤の髪は夕日にこそキラキラと溶けて映えるというのに。

ああ、でもそうだアリスターも本当に夕日が似合う男だった。

少年の肩を掴む。

「日が沈む、どうするんだ」

手に触れる彼の炎は熱くなく、柔らかかった。

「ここの夜は暗い、進むことは困難を極めるだろう」

少年の目が道の先を見つめる。瞳に映り込んだ夕日が輝いていた。

「この先にうろがあるから、そこに行く」

「そこならきっと…」

そう言って少年は少し急いで歩き始める。この樹の夜は暗く恐ろしい。急いだ方が良いのは私でも簡単にわかることだった。


少年の背を照らす日はますます赤くなっていったが、ある瞬間、プツンと糸が切れるように闇が上からとぷとぷと落ちてきた。急速に勢いを増し辺りの光を奪っていく夜というものに私は少年の背中に半ば叫ぶように問いかけた。

「本当に、着くのかっ?」

「もう着いた!」

と道の少し先で少年は叫ぶが、少年の言う「うろ」というものがあるようには見えなかった。

道の先にいた少年に追いつくと、先程の位置からは分からなかったが森が途絶え、巨大な暗闇が道を30度ほど折れ曲がった先にあるのがわかった。

暗闇は暗く深く、その中には壁に張り付くように網目のように光る金の細い糸が張り巡らされている。ものによってその金色は大きさも太さも全く違うようで遠くからでもよく見えるほどの大きさのものもあれば、近くからでも見えないほどの細さのものもある。しかし、その太い金色のそれらも暗闇が深いところでは闇に飲まれて確認することができない。どうやら私のいる位置はその暗闇の上部であるらしく、百メートルか、二百メートル先であろうか、天井らしき場所に本当に淡く金の光が三本乱雑に並んでいるのが見えた。

「これは、なんだ」

漏れ出た声は吸い込まれるように闇の中に消えて行く。

ふと、足元にも金のそれがあることに気づく。触れると少し凹んでいて手がべたつくのがわかった。

「亀裂?いや、これは…」

少年はしゃがみこんだ私をじっと見ると、暗闇の中に入って行く。

暗闇の底に落ちたときのことを考えたくはないが、一応歩ける道はあるらしい。

「幅が狭いから気をつけろよ、できるだけ壁の方を歩いたほうが良い」

右手を壁に付け、さっさと進む少年の後を追いかける。

足元や暗闇の壁をほのかに照らす金の亀裂のようなものだけが、唯一の慰めだった。

その闇の中を二、三十歩あるいた辺りだっただろうか。少年が急に立ち止まると、右側にヒョイと消えた。

少年に何か起きたのでは、とできるだけ急いで駆けつけると、高さ三メートル、横二メートルほどの空間が存在していた。その洞穴じみた空間の中央には先程まで足元を照らしていた金色のものに似通った幅二十センチメートルほどの比較的大きな亀裂が走っており、その空間を薄暗く、それでいて割としっかりと照らしている。

「…これは」

「今日の寝床」

そう言うと少年は背負っていた小さな荷物の中にギチギチに詰められた布を取り出しさっさとくるまると、すぐにすぅすぅと寝息をたて、寝てしまった。きっと疲れていたのだろう。

眠ってしまった少年に気づかれないようにそっと手を伸ばし、薄暗い中でも確かに見える赤色に触れた。柔らかい髪は、力の入っていない手ではぱらぱらとこぼれ落ちていってしまう。

「…アリスター」

愛しい男、私の最愛の親友。あの輝かしかった日々、もう二度と戻れない日々。あの日、夕日の下で赤々と輝いていた彼を思い出す。

ふと、少年の頬に触れる。子供体温というべき温かさに思わず笑ってしまった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

楽園の樹 はらから @snowday

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る