夕町中華アイスクリーム

田中U5

夕町中華アイスクリーム

 中華料理屋ってのはさ、レプリカの水墨画とか、知らない有名人のサインとか、ビールのポスターとかが貼ってあるもんじゃねえのかね。それがなんだい。ムンクの『叫び』って。

 いや、あるにはあるんだよ。誰が描いたかもわからない、退色と油染みで、すっかり元の絵がわからなくなったような水墨画の掛け軸が。あるにはあるのよ。なんて読むのかわからない、黄ばんだサイン色紙も。あるにはあるのよ。十年前ぐらいには十代だったんだろう水着の姉ちゃんがなぜか海辺でビール瓶持ってるポスターも。あるにはある。

 そのあるにはあるの中に、なんであるのって存在感で、いるのよ。

 『叫び』が。

 ドロドロに溶けた景色をバックに、橋の上でぐねぐねした輪郭のハゲチャビンがこっち向いて目剥いて、ホームアローンのマコーレカルキンみたいに口を縦に大きく開けてさ。叫んでるんだよ。中華料理屋で。

 なんで? って思うよな。

 俺は椅子に座って壁のお品書きを眺めつつ、ジャケットを脱ごうとしてたところだったの。

 その手が止まったもん。

 だって、叫んでんだもん。

 そりゃ止まるよ。

 思わず、きょろきょろ見回しちゃったね。時間はもう六時過ぎで、客は俺の他にサラリーマンがひとりと、作業服姿のふたり組。店主の親父は、厨房で鍋ゆすってる。誰も『叫び』には目もくれない。目の前の炒飯をかきこんで、餃子をつまんで、ビールをすすって、テレビの野球中継をぼうっと見てる。誰も叫んでない。

 俺のほうが叫びそうになったもんね。

 なんでだよ! って。

 だけどさ、聞くわけにもいかないじゃん。店主は忙しそうだし。他の客はテレビ見てるし。それで聞くの? なんでムンクの『叫び』が飾ってあるんですか? って。

 いや、ただの趣味なんです、とか、そんなつまんない話だったらどうするよ。

 あ、そうですか。すいません、餃子とビールお願いしますって流すのかよ。

 まあ、それでいいか。

 聞いてみないとどうにも気がすまないもんな。

 俺は手を挙げ、すいませんと声をかけた。

 店主が手を止め、こちらを見る。はい、ご注文は? とガラガラの声で聞く。

「餃子とビール」

「はいよ」

 ざっと、こんなもんよ。

 聞けるわけない。ご注文は? って聞かれてんのに、なんでムンクの話が聞けるよ。質問に質問で返すなって怒られるよ。

 そんなわけで、餃子とビールが運ばれてきた。ここだ。ちょうど、このタイミングで聞けば不自然ではないはずだ。

「あの、すいません」

「はい、他にもなにか?」

「チャーシューとザーサイ」

「はいよ、少々お待ちを」

 こんなもんよ。

 聞けないって。だって見ちゃったもん。店主のシャツからのぞく二の腕にさあ、入れ墨が入ってたもん。タトゥーっていうの? どっちでもいいけど。

 ムンクだよムンク。ばっちり叫んでんだよ。店主のぶっとい二の腕でさ。

 もう聞く必要なくない? 答え出ちゃってるでしょ。体に紋々入れるぐらい好きってことだろ?

 で、チャーシューとザーサイだよ。来ちゃったよ。聞く? 聞くか。

「あの、すいません」

「え、どうしました?」

 さすがに店主もこっちの様子がおかしいって気づいたんだろうね。なんか言いたそうだぞって。もう、そうなったら聞くしかないよ。今しかないよ。

「餃子、美味しいっす」

「ありがとうございます」

 聞けないって。タトゥー入れてる人に聞けないって。よく見たら、おでこにも叫びがいるんだもん。うっすい眉毛の間で叫んでんだもん。見りゃわかんだろ、で終わりだよ。

 結局、俺はチャーシューとザーサイをつまみに、追加でもう一本ビールを頼んで、それをたいらげると、そそくさと店を出た。

 なんだったんだ、って首を捻りながら。

 家までの道のりがやけに長く感じられた。どことなくいつもと景色が違うような。まるで俺の常識が、溶けて崩れていくような感覚だった。たかだか中華料理屋でムンクを見ただけで、日常が一変しちまった。

 いつも渡ってるはずの、きったない川に渡されたコンクリの橋に、どことなく違和感を覚えて、ふと立ち止まる。そんな俺の様子を見て、通行人がいぶかしむ。空を見上げると、うっすらとあかね色の残る雲が、飴細工みたいにぐにゃりと潰れて、流れて行った。

 あ。

 わかった。

 これだこれだ。

 ここだよ。

 俺は頬に両手を当てると、ホームアローンのマコーレカルキンみたいに、口を縦に大きく開いた。



【了】

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夕町中華アイスクリーム 田中U5 @U5-tanaka

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