骨遊漁を肉で塗り替える

 視界の端をカラカラと鳴らしながら、宙を泳ぐ骨遊漁こつゆうぎょ。骨だけとなった魚が悠々と泳ぐ様は綺麗だが、不気味でもあった。


 おそらく、彼らは生物ではない。


 。私だけが見えている、その甘い優越感に酔いしれていた。


『君の絵は、写実的だが個性がない。個性の無い絵は写真で十分なのだよ』


 高校1年、自信と未来を期待して入った美術部。初めて絵を提出した時にそう言われて、伸びた自信がポッキリ折られた。しかし、2年生になって私はと出会い、見えてしまった。


 "実に独創性に溢れた絵だ、タッチも素晴らしい"


 私は見た物をそのまま描いただけ……誰も骨遊漁を見えないから、私が生み出したと空想上の生き物だと思い込んでいる。あぁ、なんという優越感と背徳感……! 甘美な言葉がわずかな電気を帯びて、脳を揺らした。


 今も目に映る彼らは優雅に空中を泳いでいる。見えない人からすれば、何も無い空間を見つめる私は異質に見えるだろう。妬む者は精神異常者だと揶揄やゆするが、私の作品を超えることはできない。


「魚だけではつまらない……もっと大きな骨遊漁が見たい」


 描いていた絵がつまらなく見え、無作為に色を選んではキャンバスを極彩色に染め上げていく。しかし、艶やかにみえるのは最初だけで時間が経てば陳腐なものに見えてしまう。コンクールは近い、描かないと……描かないと、私のことを誰も見てくれなくなる。


 一心不乱に筆を叩きつけていると、作業用音楽と化したテレビから鮮やかで、艶やかな、極彩色の何かが見えた。


「最優秀賞作品、"遊漁"です」


 以前、応募したコンクールの作品発表。私が浴びるべきだった称賛のスポットライトは、1つ下の女に奪われた。テレビに映った作品は私と同じ、"遊漁"を題材にしていた。明確に違うのは、その遊漁には鱗や鰭がついていた。水を反射し、光沢を帯びた鱗はまるで生きているかのようだった。


「うちで飼ってる金魚をモデルにしました。うちの子はどんな色も似合いそうなので、色んな色を付け足しました」


 私と同じ、見たままを描いているのになぜ独創性を評価される?


 私に足りないのはなんだ? 色か? 個性か? 才能か?


 "骨が嫌なら食えばいい"


 どこからともなく声がした。そう、そうよ。骨だからいけないんだ。


 画材を取り出し、長らく使っていなかった艶やかな油絵具をパレットに押し付ける。キャンバスを目が痛くなるほどの色で塗りつぶし、剥ぎ取り、私と同じサイズをした骨遊漁に無理やり貼り付ける。


 バキボキと骨が折れる音が室内に響くが気にしない。壊れようが、形が崩れようがどうでもいい。


「あいつの絵に、あいつが描いた魚になればいいのよ! あんた達も嬉しいでしょ? 空っぽな体が色に染まっていくんだから!!」



 ​──────……


 何時間経っただろうか。いや何日、何週間かもしれない。日付の感覚が狂うほどに骨遊漁達を飾り立てた。へし折れる肋骨、歪になった鰭、散らばった骨の欠片が部屋に散らばる。


 飛び散った絵の具は色彩豊かな殺害現場のようであった。


「出来た……! 私はやったんだ! あの子を越える遊漁を描き上げた!」


 1メートルほどのキャンバスに閉じ込めたのは宝石の如き輝きを放つ遊漁だった。あの子は自宅で飼っている金魚、だけど私は私にしか見えない遊漁達を描いた。


「これを出せばあの子を越えられる……!」


 骨の泣く音を無視し、キャンバスを持って無我夢中で走り出した。よれた制服、皮脂でギシギシの髪を振り乱して駆けた。久しぶりの登校に先生方は驚いただろう、母は唖然としただろう、同級生は私を忘れていただろう。


 妄想の中で生きてた私が自信作を持って走るなんて、私でも信じ難い事件だ。不安、恐怖といった感情は今はない。ただあるのは​──────


「あの子は私の作品を見てどんな絶望的な表情を浮かべるのか! 先生は私の作品をようやく褒めてくれる! だって……だもの!!」


 息切れで軽く目眩を起こしながら、たどり着いた美術室の扉。重たいキャンバスを抱え、息を整えてから期待を膨らませて扉を開ける。


「せんせ​──────」


 声は引っ込む。膨らんだ期待は一気に萎み、凪のような静寂が広がる。


 何が最高傑作?


 何があの子を越える?


 一体私は何に期待したというのだ?


「せ、先輩?」


 絵の具で汚れた作業着を着たあの子が困惑した顔で私を見つめる。その無垢な瞳に映る私は……みすぼらしい骨遊漁。


 あの子は天才だ。2メートルほどのキャンバスに描かれていたのは宝飾のような鯨。陽光を浴び、晴天の煌めきを纏い、深海の慈悲と神秘を体現させる鯨は悠々とキャンバスの中を泳いでいる。


 動いてはいない。だが、私の目には生きているように見えた。


 ガタン……


 落とした自分のキャンバス。そこから見えたのは腐肉を貼り付けた骨遊漁。肉付けしようと、色で誤魔化そうとしても隠しきれない骨ばった体が浮き出ていた。


「うわ、なにあれ。ゾンビ魚じゃん」


「個性がないって言われてた先輩だよね? なんかさ、"遊漁"に似てない?」


「パクリってこと? 最低すぎ……綺麗な金魚をあんなゾンビにするなんて」


 小声は私の耳にも届く。パクリ? 私が? あの子の?


 部員の声がフジツボのようにしつこく脳裏にへばりつく。脂汗が流れ、意識すら曖昧になってきた頃あの子が怯えた顔で私を見下ろしていた。同時に宝飾の鯨も侮蔑の瞳で骨遊漁を見下ろす。


「酷いです……私の遊漁をそんな怪物にするなんて」


 ​───────……


 埃と湿気に濡れる部屋の隅で私は今日も祈る。


「お願い、お願いよ。もう一度姿を見せて……」


 あの日以来、骨遊漁は見えない。代わりに声が聞こえる。


 "お前が自分で殺したんだ"


 "お前の敗因は自分を信じなかった"


 "お前が望んだんだ"


 "こせいを食らって虚飾になると"


 "お前の骨遊漁こせいは戻ってこない"


 "お前が自分で殺したんだから"


 四方八方から声が聞こえる。足元には作品ほねが散らばり、白い屍の上に私はただ呆然と立ち尽くす。


 鉛筆を走らせて描くも、そこには個性がない。ただ空虚な私の部屋が写実的に描かれていただけだった。


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完全で不完全な世界 星森あんこ @shiina459195

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