6.影がひとつになった夜
私がそっと近づくと、蓮様の耳がぴくりと反応した。
その小さな動きが、野原で息を潜める小動物のようで──可愛い、なんて不謹慎にも思ってしまう。
「……何だ?」
低く響く声。警戒と戸惑いが混じっていた。
私は答えず、その銀の耳へと静かに手を伸ばす。
上から覆うのではなく、視線より低い位置から、ゆっくりと。
指先が触れた瞬間、柔らかく温かい毛並みがふわりと広がった。
ひと撫でするごとに、細やかな毛先がくすぐるように指へ絡みつく。
──これが、旦那様の……。
蓮様の体がわずかに固くなり、金色の瞳が驚きに見開かれる。
「……嫌、ですか?」
小さく問いかけると、短い沈黙のあと、わずかに肩の力が抜けた。
「……別に」
許しとも、諦めとも取れる声。
耳の付け根がかすかに震え、まるで触れられるのを拒んでいないと告げているようだった。
私はかつて──あちらの世界で読んだ漫画の一場面を思い出す。
獣人の彼は、こうして耳を撫でられ、初めて相手に心を開いた。ならば、私も。
毛並みをなぞると、蓮様のまぶたがわずかに降りる。
硬い表情の奥、深い水面に波紋が広がるような安らぎが垣間見えた。
「……環」
名を呼ぶ声が、先ほどよりもずっと穏やかだ。
胸の奥に熱が灯る。触れているのは耳のはずなのに、なぜか心まで繋がっていくようで──。
もう片方の耳へも手を伸ばす。毛並みを梳くたび、蓮様の吐息が夜気に混じる。
それは、積もった雪が静かに解ける音のようだった。
「……お前は、変わっているな」
「え?」
「普通は……その姿を見ただけで、目を逸らす。怖がる。触れようなんて、まずしない」
自嘲が混じった声。私は手を止めずに言う。
「言いましたよね。私は、怖くなんてありません」
耳の根元をそっと押さえる。
「それに──旦那様の耳、月の光みたいに澄んでいて……とても、綺麗です」
銀毛が月明かりを受けて、凪いだ湖面のように輝く。
ふと尻尾がゆるやかに揺れ、安心の色が全身に広がっていくのがわかった。
「……変わってる、やはり」
その呟きは、柔らかな布で包まれたように優しい。
まぶたが半分降り、金の瞳が細くなる。
「……旦那様」
「なんだ」
「私、もっと……旦那様のことを知りたいです」
耳から手を離し、顔を覗き込む。
蓮様は短く息を吐き、視線を外した。
「……知ったところで、お前が困るだけだ」
突き放すようでいて、どこか迷いのある声。
胸に強い衝動が走る──この人の孤独を放っておきたくない。
「それでも……知りたいんです」
金色の瞳と視線が交わる。私はまっすぐに告げる。
「旦那様が何を思って、何を感じているのか……全部」
夜風が銀の毛先を揺らす。
やがて蓮様は低く、静かな声で言った。
「……なら、後悔するなよ」
胸の奥まで深く届く響き。
私は答えるように、再びその耳に触れた。
そして──。
「……本当に、気持ち悪くはないのか?」
「──え?」
撫でる手が止まる。思わず聞き返してしまった。
「普通なら人間に生えているわけがない耳と尻尾だ。不気味に思うのは当たり前だ」
私はすぐに首を横に振る。
「そんなこと……一度も思ったことありません」
「……本当か?」
「はい。本当に。だって──」
銀の耳に視線を落とし、息を整える。
「旦那様の耳も尻尾も……指先に火を灯すみたいに温かくて、触れていると、不思議と落ち着くんです」
蓮様の耳が少し後ろに倒れる。
照れか、動揺か──それを見て、胸が甘く締めつけられた。
「そうか……」
低く呟いた声には、もう棘はなかった。
手を離そうとした瞬間、尻尾がするりと私に触れた。
……まるで、止めないで。とでも言うかのように。
「え……?」
顔を上げると、蓮様が目を細め、月明かりの中で静かに見つめていた。
「……もう少し、こうしていろ」
命令のようでいて、頼るような響き。
胸の奥がじんわりと温まる。
「……はい」
微笑み、再び耳へ指先を伸ばす。
柔らかな毛並みが夜の冷たさを溶かし、心の壁を静かに剥がしていく。
いつの間にか二人の距離はなくなり、足元の影は──ひとつに重なっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます