5.月明かりの下で


昼下がり──。

私は居間のソファで刺繍の針を動かしていた。

けれど、手元の花模様はほとんど進まない。


──金の瞳に、銀の耳と尻尾。

そして、あの寂しそうな微笑み。


針先が布をすくうたび、昨夜の光景が胸の奥をざわつかせる。

妻という立場でありながら、何も知らないままでいいのだろうか──そんな疑問が、静かに心の底から浮かび上がってきた。


「……でも、直接は……無理よね」


急に距離を詰めれば、きっと嫌がられる。

この世界とは異なる記憶持つ私には獣の耳や尻尾に嫌な感情はない。けれど、この世界では獣の容姿は忌み嫌われていた。


獣の耳は人の何倍も聴力に優れ、尻尾を持つ者は強靭な力を備えている。

本来なら誇るべき特徴なのに、人は少数を恐れ、遠ざける。

そのため、先祖返りと呼ばれる獣の特徴を持つ者は、長く疎まれてきたのだ。


頭の中に、蓮様の低く美しい声が蘇る。


『異様な姿を見て……恐ろしかっただろう。怖がらせて、すまなかった』


──あれは、私の反応を恐れての言葉だったのだろうか。


胸の奥が、ちくりと痛む。

「……そんなこと、ないのに」


そのとき、廊下から足音が近づいた。執事の山本だ。

通り過ぎそうなところを、思わず呼び止めていた。


「山本さんっ!」


「はい、奥様」

柔らかな笑みと共に立ち止まる。


「あの……ひとつお伺いしたいのですが」

緊張で喉がひりつく。けれど、この機を逃したくなかった。


「旦那様って……普段は、どのようにお過ごしなのですか?」


一瞬、山本の目が細くなる。探りを見抜いたような眼差し。


「お仕事と……庭を歩かれるのがお好きですよ」


無難な答え。それ以上は引き出せそうにない。


「……そうですか」


私は笑顔を作りつつ、胸の奥で小さく決意した。

──少しずつ、少しずつでいい。旦那様のことを知っていこう。


春の午後の光が刺繍布を照らし、淡く温もりを広げていく。

それは、胸の中に芽吹き始めた小さな好奇心とよく似ていた。



 ◆



夜になっても、もやは晴れなかった。

夕食を終え、「少し散歩を」と口実を作って廊下を歩く。

月明かりが磨かれた床に反射し、足音が静かに響く。


屋敷は広く、まだ行っていない場所も多い。

けれど今夜は迷わず、庭に面した離れの方へ向かっていた。


──昨夜、銀の耳と尾を見た場所。


近づくほどに、胸の鼓動が速まる。

結婚直後に言われた言葉が過ぎる。きっと、あの姿を──旦那様の秘密を守るためのものだ。


でも、私はもう知ってしまった。だったら……


「“離れには近づくな”……もう、その注意は無効よね」


そう自分に言い聞かせ、足を進めた。



 ◆



庭に出た瞬間、視線が吸い寄せられた。

月明かりに照らされた縁側に、蓮様が座っていた。


銀の耳が夜風にふわりと揺れ、尾がゆるやかに左右へ動く。

その動きは、彼の呼吸と同じリズムを刻んでいるようだった。


立ち尽くす私に気づいたのか、蓮様の耳がぴくりと動く。

そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。


──その瞬間、息が止まった。

黒かった髪は月光を帯びた銀に変わり、長く流れる。耳と尾と同じ色が、夜の風に揺れ、きらきらと輝いていた。

それは、人の姿のときよりもずっと美しく、私の目に映った。


琥珀色の瞳が、金色へと変わる。

月光を受けて深く輝き、その視線に胸が震える。


「……環」

低く落ち着いた声。たしかに私の旦那様の声が、夜気を震わせた。


名前で呼ばれたのは、たぶん初めてだった。胸が小さく跳ねる。


「……その姿……本当に……旦那様なんですよね」


私は一歩近づき、問いかける。


蓮様はしばし黙し、耳と尾がかすかに揺れた。


「……ああ、そうだ」


覚悟と、わずかなためらいを含んだ声。


その瞬間、私は口が勝手に動いていた。


「あの……私は、恐くなんてありません」


蓮様の瞳が、一瞬だけ揺らぐ。

驚き、信じられない色──そして、ごく微かな安堵。


けれど彼は答えず、銀の耳が夜風の中で小さく震えるだけだった。

沈黙が続く。風は吹いているのに、無言がやけに際立って重い。


……恐くないと言ったのに、信じてもらえていないのだろうか。


どうしたら、この人は信じてくれるのだろう──。


そのとき、ふっと一枚の記憶がよみがえった。

前の世界で何度も読み返した、一冊の漫画。


旦那様のような銀の耳を持つ獣人が、相手役に心を許すきっかけになった場面だ。

胸がきゅっと締めつけられるようで、けれど温かい──あのページ。


……もしかしたら、あのときのようにすれば。


私は小さく息を吸い、蓮様のそばへそっと身を寄せた。


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