第29話 チンアナゴ
チュンチュンと小鳥がさえずる朝。しかし、今日は休日だ。
俺は惰眠をむさぼろうと、絶対に起きないという強い心構えで布団にくるまっていた。
昨日のデパートでのイベントも、学園での午後の睡魔との戦いも、今は遠い過去。
何も考えず、ただひたすらに布団のぬくもりを享受する。これこそが、俺の求める至高の「静かな生活」なのだ。
愛しの布団との結婚を考え始めたその時、コンコンと控えめなノックが聞こえた。
無視だ無視。トラブルの予感しかしない。だが、しだいにノックはドンドンと音が大きくなっていった。
それでも俺は布団の中で、気配を殺し嵐が過ぎ去るのを待つかのように微動だにしない。俺の「静かな生活」を脅かす者には、徹底して無言の抵抗をした。
やがて、ガチャリと鍵を回す音がした。それに続いて、室内に人が入ってくる気配。
(音々や茉央ならノックなんて回りくどい真似はしない。堂々と入ってくるか、脳内に直接語りかけてくるかだ)
寝ぼけた頭でそんなことを考えていると、突然、布団越しに重みが乗っかってきた。
油断した状態で突然の衝撃を受け、「ふぐぅっ」と情けない声が出る。
重みの正体を確かめようと楽園(布団)から顔を出すと、宝月が布団の上にまたがって、ニヤニヤと俺を見下ろしていた。
「しょっぼいチンアナゴが顔を出したわね~。こういうのご褒美なんでしょ? ほれほれ、喜びなさいよ」
小悪魔のような顔で、宝月はそう言い放った。
「ってか、あんたまだ寝てんの? こんな子供にマウント取られてなさけな~い」
「あぁ!? なんでお前がここにいんだ!? なんでこの場所を知っつるんだ!?」
呂律も回らないまま、俺は叫んだ。
「はぁ~あ。待っててあげるから、顔洗ってきなさいよ」
宝月はそう言い残して、テーブルの前にちょこんと座った。
(最悪だ……。休日の朝っぱらから、こんなガキに起こされるなんて……)
最低な目覚めと気分で顔を洗い、部屋に戻ると、変わらず宝月はテーブルの前に座って、俺を待ち構えていた。
テンションの低い俺に、宝月は小姑のように文句を言い始めた。
「エッチな本(弱味)もないし、年頃の男のくせにつまらない部屋ね~」
「ガサ入れすんな! プライバシー侵害だぞ! そもそも、何でここが分かったんだよ!?」
宝月は悪びれる様子もなく、
「音々っちに聞いたら部屋番号と鍵を渡してくれたの。それにあんた、何でも屋なんでしょ?」
茉央が俺が勇者なのを誤魔化して説明したことを真に受けたらしい。
「ちょっと相談に乗りなさいよ。それとお茶菓子出しなさい」
トラブルの予感しかしない。俺の答えは決まっている。
「断る!お茶菓子も出さん」
「うちの事務所って、お給料がやけに安いのよ」
断ると言っているのに、宝月は話し始めた。
(この世界には、こんなのしかいないのか!?)
「社長が手渡しで、ママが事務所に取りに来るんだけど、そこそこ大きい仕事も増えてきたのに、風姉ちゃんもバイトして家計を助けてるわけじゃん? これって、絶対おかしいと思うの!」
「社長が怪しいから、それを調べろってか? お断りだ」
「こ~んな可愛い少女が頼んでるのに、あんた能無し?」
(何を言われても断っていれば、諦めて帰るだろう)
「はぁ? あんたみたいな雑魚が私に逆らうの? 土下座して謝りなさいよ、ざぁ~こ!」
「あんたのチンアナゴみたいなプライドなんてゴミクズ同然。私の足元に這いつくばって、さっさと『ご主人様』って言いなさいよ!」
「プルプル震えてるじゃん。チンアナゴのくせに抵抗する気? なまいき~!」
マシンガンのように散々煽りの言葉を浴びせられ、心に致命傷を負いながらも、俺は断り続けた。
「ちょっとあんた、罵られて気持ちよくなってない? キモ。しょーがないわね~、これが何か分かる?」
宝月はそう言ってポケットから防犯ブザーを取り出し、そのヒモを掴んで見せた。
「これを引っ張れば、音々っちが飛んでくるのよ」
(ぐっ、このメスガキ! まさかそんな最終兵器を隠し持っていたとは!)
どうか信じてほしい。音々に逆らえないから、というわけでは決してない。
目の前で、こんなに懸命に家族の心配をしている健気な少女の姿に、俺の心は微かに動かされたのだ。
(まったく、俺も随分と甘くなったもんだ)
渋々ながら、俺は協力することにした。
「まったく手間かけさせて、これから近くの公園で撮影があるから、あんたもついてきなさい」
宝月はそう言い放った。
こうして、俺の静かな休日は消え去り、望まないイベントの開幕を告げられたのだった。
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