第2話 声なき広場
市の中心にある広場は、今も名ばかりの“自由の広場”と呼ばれている。
かつて人々が詩を詠み、演説し、笑い、議論した場所だ。
今はただ、石畳の上を風が通り過ぎていくだけだった。
ルカは、腰をかがめる老人に紛れるように、その広場を歩いた。
周囲の人々は互いに目を合わせず、ただ足元の地面か、掲示板の布告だけを見つめている。
新たな告示が貼り出されていた。
『火の法 第六条:過去に追放された者と接触した市民は、沈黙の罪を問われる』
沈黙の罪。
口を閉じても、咎められる時代。
それは、もはや皮肉ではなく、詩のようだった
かつて詩を教えた男として、ルカは微かに口元を歪めた。
−−−−−−−−
エリシャの工房は、広場の東側、薄暗い裏通りの一角にある。
ルカが戸を叩く前に、内側から静かに開いた。
「……来ると思ってました、先生」
青年はインクの染みた布で手を拭きながら、無言で椅子を差し出した。
幾度か会ってはいたが、今日のエリシャの眼差しは違っていた。
その奥で、何かが燃えていた。
「また一人、捕まりました」
「仲間か?」
「ええ。彼は、堂々と訴えたんです。布告に対して、言葉で異を唱えた」
ルカは、一瞬言葉を飲み込んだ。
それは、自分には選べなかった道だ。
逃げた者には、咎める資格などない。
「先生は、まだ“言葉”に希望を持っているんですか?」
静かな問いだった。
だが、その芯は揺るがなかった。
「……正直に言おう。私は一度、火から逃げた。
言葉が焼かれる音を耳にしながら、私は目を閉じた」
エリシャは、黙って彼を見つめていた。
「……では今は?」
「今は……その火を、誰かが受け継がねばと思っている。
私ではないかもしれない。だが、消させてはならないと思う」
「それが、先生の答えですね」
そう言って、エリシャは一冊の束を取り出した。
印刷機の上に置かれたそれには、こう記されていた。
『第二の声』
彼らが密かに刷り続ける、言葉の集成。
「燃やされても構いません。誰か一人でも、これを読んでくれたなら」
その言葉に、ルカの胸がわずかに揺れた。
−−−−−−−−
工房を出た瞬間、遠くで鐘の音が響いた。
昼の鐘ではない。
裁きの鐘——誰かが、また声を奪われようとしている音。
ルカは足を止め、振り返った。
広場の端に、煙が上がっていた。
「……文字の声までも、焼かれるのか」
彼が呟いた足元に、一枚の紙片が舞い降りた。
風が運んだのは、『第二の声』の断片だった。
インクは滲み、輪郭は崩れかけていた。
それでも、文字はまだ読めた。
“Veritas ardet, sed non consumitur.”
——真理は燃える、されど焼き尽くされぬ。
ルカは紙を拾い、胸元にそっとしまった。
そして、誰に聞かせるでもなく、微かに呟く。
「……真理は燃える。だが、焼き尽くされはしない」
それはかつて、教壇で掲げた言葉。
そして今、胸の奥に再び灯る、静かな火でもあった。
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