サイレント・ノイズ ~感情の音が聞こえる君と、無音の僕~【ボイスドラマ】【G’sこえけん】
☆ほしい
第1話
しん、と静まり返った空間が好きだ。
俺、結城海斗(ゆうき かいと)にとって、大学の図書館、それも一番奥まった場所にある郷土史の書架に囲まれた一角は、聖域と呼んでも差し支えない場所だった。
古い紙の匂い。時折、遠くで誰かがそっとページをめくる乾いた音。規則正しく唸る空調の低いハミング。それらすべてが、俺にとっては心地よい静寂の構成要素だった。世の中の喧騒から切り離された、完璧なシェルター。俺はここで本を読んでいる時間が、何よりも好きだった。
そんな俺の聖域に、ここ最近、もう一人の居住者が現れた。
音無静音(おとなし しずね)。
文学部に所属する彼女は、その名前が体を表しているかのように、いつも静かだった。色素の薄い、絹糸のようなストレートの黒髪。雪のように白い肌。人形めいた整った顔立ちは、近寄りがたいほどの美しさを放っている。
だが、彼女の存在を何よりも際立たせているのは、その耳を常に覆っている大きなヘッドホンだった。艶消しのシルバーで、見るからに高級そうな、最新のノイズキャンセリング機能が付いていそうなやつだ。彼女はそれを、まるで身体の一部であるかのように、片時も外そうとしなかった。
彼女もまた、この図書館の静寂を愛しているのだろう。俺と同じように、世界の騒がしさから逃れてきたのかもしれない。そう思うと、言葉を交わしたこともないのに、一方的な親近感が湧いてくるのを止められなかった。
彼女はいつも、俺から数メートル離れた席に座り、分厚い専門書を黙々と読みふける。その背筋は常にぴんと伸びていて、まるで何かに備えるように、微かな緊張感を漂わせていた。
その日も、俺たちの間には穏やかで、邪魔されることのない時間が流れていた。俺は読みかけの歴史小説に没頭し、彼女は静かに文献のページをめくっていた。
その、完璧な均衡が破られたのは、本当に突然のことだった。
ドンッ! ガラガラガッシャーン!
鼓膜を叩く、凄まじい衝撃音。
近くの書架で、一人の男子学生が抱えていた本の山を床に落としたのだ。分厚いハードカバーの本が何冊も、硬い床に叩きつけられ、耳障りな不協和音を立てて散らばった。
図書館にいた誰もが、びくりと肩を揺らす。俺も例外ではなかった。心臓が跳ね、一瞬、息が止まる。
「す、すみません!」
本を落とした学生が、慌てて謝りながら本を拾い始める。周囲の学生たちは、やれやれといった表情で彼に視線を送り、すぐに手元の本へと意識を戻していく。よくある、ちょっとしたアクシデント。それだけのはずだった。
だが、違った。
俺の視線の先にいた音無さんの様子が、明らかにおかしかった。
彼女はただ驚いただけではなかった。椅子からずり落ちそうなほど身体を縮こまらせ、両手で、ヘッドホンの上から強く耳を塞いでいる。その指は白くなるほど力が込められ、小刻みに震えていた。
「……っ!」
小さく、押し殺したような呻き声が聞こえる。それは、まるで物理的な攻撃を受けたかのような、痛みに満ちた声だった。顔は青ざめ、その美しい瞳には恐怖の色が浮かんでいる。
「大丈夫か?」
誰かがそう声をかけたが、彼女には届いていないようだった。ただひたすら、見えない何かから身を守るように、固く固く、身体を丸めている。
俺は、ただそれを見ていることしかできなかった。
なぜ、彼女がそこまで苦しんでいるのか。あのヘッドホンは、外部の音を遮断するためのものではなかったのか。
数々の疑問が頭をよぎるが、答えは見つからない。やがて、本を拾い終えた学生がそそくさと立ち去り、図書館に再び静寂が戻ると、音無さんの震えも少しずつ収まっていった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、乱れた呼吸を整えている。その額には、うっすらと汗が滲んでいた。
俺は、彼女から目が離せなかった。
彼女が求めているのは、単なる静かな場所ではない。もっと根源的で、切実な何か。
この時、俺はまだ知らなかった。彼女が生きる世界の本当の姿を。そして、俺自身の存在が、彼女にとってどれほどの意味を持つことになるのかを。
ただ、この日から、俺の聖域は、ただの本を読むための場所ではなくなった。俺は、音無静音という、静寂に包まれた謎そのものから、目が離せなくなってしまったのだ。
***
あの日以来、俺は無意識のうちに音無さんを目で追うようになっていた。彼女の纏う静けさと、時折見せる危うげな表情のギャップが、俺の心を捉えて離さなかった。
彼女は相変わらず、図書館の隅で静かに本を読んでいた。俺たちの間に言葉はない。ただ、同じ空間の空気を吸い、同じ静寂を共有するだけの日々が続いた。
変化が訪れたのは、それから一週間ほど経った、よく晴れた昼下がりのことだった。
『――館内におられる皆様に、お知らせいたします。本日午後三時より、防災訓練の一環として、火災報知器の作動テストを行います。大きな音が出ますので、ご注意ください――』
スピーカーから流れる、少しノイズの混じった無機質なアナウンス。それを聞いた瞬間、俺ははっと息を呑んだ。そして、恐る恐る音無さんの方を見る。
案の定、彼女の肩が微かに震えていた。顔色は見る見るうちに悪くなり、手にしていた本から視線が外れている。その瞳は、まるで時限爆弾のタイマーを見つめるように、一点を凝視していた。
(まずい)
直感が警鐘を鳴らす。先日の、本が落ちた時の比ではない。火災報知器の警報音は、けたたましく、暴力的で、逃げ場のない音だ。あれは、彼女にとって耐え難い苦痛になるのではないか。
俺の中で、何かがせめぎ合っていた。ただのクラスメイトでもない、話したこともない他人のことに、どこまで踏み込んでいいのか。だが、彼女の青ざめた横顔を見ていると、放っておくことなんてできそうになかった。
俺が逡巡している間にも、無情に時は過ぎていく。
午後三時、五分前。
『――まもなく、火災報知器の作動テストを開始します。繰り返します――』
二度目のアナウンスが、彼女への最後通告のように響き渡る。音無さんは、ぎゅっと目を瞑り、ヘッドホンの上からさらに強く耳を抑えた。その姿は、嵐の中で必死に何かにしがみついている小動物のようだった。
もう、迷っている時間はない。
俺は静かに席を立ち、彼女の元へ歩み寄った。
「音無さん」
俺の声に、彼女の肩がびくりと跳ねる。ゆっくりと開かれた瞳が、驚いたように俺を捉えた。
「あの、大丈夫か? もうすぐ、ベルが鳴る」
「……え……」
「もし、大きな音が苦手なら……あっちに、視聴覚室がある。あそこのドアは分厚いから、少しはマシかもしれない」
俺が指さしたのは、図書館のさらに奥にある、普段はあまり使われていないAVルームだった。防音設備が施されている、と聞いたことがある。
彼女は俺の顔とAVルームのドアを交互に見て、戸惑っているようだった。その間にも、壁の時計の秒針が、刻一刻と運命の時へと近づいていく。
そして。
ジリリリリリリリリリリリリリリッ!
突然、世界が甲高い絶叫に包まれた。
耳を劈くような、暴力的なベルの音。それは図書館の静寂を粉々に破壊し、有無を言わさず鼓膜に突き刺さってくる。
「――っ、あ……!」
音無さんの口から、悲鳴とも呻きともつかない声が漏れた。彼女は椅子から崩れ落ち、床に蹲る。ヘッドホンをしていても、全く意味がないようだった。まるで全身を針で刺されているかのように、身体を激しく震わせている。
その姿を見た瞬間、俺の身体は考えるより先に動いていた。
「しっかりしろ!」
彼女の細い腕を掴み、半ば強引に立たせる。彼女の身体は驚くほど軽く、そして冷たかった。
「こっちだ!」
俺は彼女の身体を支えながら、AVルームへと走った。鳴り響く警報音が、背後から追いかけてくる。数メートルが、永遠のように長い。
AVルームの重いドアノブに手をかけ、全体重をかけて開く。彼女を中に押し込み、自分も転がり込むように入って、力任せにドアを閉めた。
ガチャン、と重々しいロックの音がして、世界から音が消えた。
いや、完全に消えたわけではない。遠くで、くぐもったベルの音が微かに聞こえる。だが、さっきまでの暴力的な音量とは比べ物にならないほど、それは弱々しかった。
「はぁ……はぁ……」
俺はドアに背を預け、荒い息を吐く。隣では、音無さんが床に座り込み、まだ身体を震わせていた。
「大丈夫か、音無さん」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は涙で潤み、頬を伝っている。
「……なんで……」
か細い声が、静かな部屋に響いた。
「なんで、助けてくれたの……?」
「いや……すごく、苦しそうだったから」
俺がそう答えると、彼女はふっと力なく笑った。それは、諦めと悲しみが混じったような、痛々しい笑顔だった。
「……そう。苦しそうに、見えたんだ」
彼女はぽつり、と呟くと、堰を切ったように話し始めた。
「私ね、聞こえるの」
「え?」
「人の、感情が……音になって、聞こえるの」
感情が、音に? 俺は彼女の言葉の意味が理解できず、ただ聞き返すことしかできなかった。
「普通の話し声とか、物音とは別に……もう一つ、音が重なって聞こえる。誰かが不安になると、キーンっていう高い金属音がする。怒ってる人がいると、頭に響くような低い唸り声が聞こえる。楽しいっていう感情は、たくさんの鈴がめちゃくちゃに鳴り響くみたいで……うるさくて、気持ち悪くなる」
彼女は、まるで懺悔でもするかのように、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「だから、人がたくさんいる場所はダメなの。いろんな感情の音が混ざり合って、ぐちゃぐちゃのノイズになって、頭がおかしくなりそうになるから」
俺は、息を呑んだ。
彼女がいつもヘッドホンをしていた理由。人を避けるように、図書館の隅にいた理由。そのすべてが、一本の線で繋がった。
「さっきのベルも……ただの警報音だけじゃなかった。あの音に驚いた人たちの、パニックの感情……それが、何十人分も、一斉に……叫び声みたいになって……」
彼女はそこまで言うと、ぎゅっと唇を噛んだ。その小さな身体が、どれほどの苦痛に耐えてきたのか。俺には想像もつかなかった。
「だから……いつも、静かな場所にいるの。この図書館みたいに、みんなが集中してて、感情が凪いでる場所じゃないと……息も、できない」
彼女の告白は、あまりにも衝撃的で、非現実的だった。だが、目の前で涙を流す彼女の姿は、紛れもない現実だった。
俺は、かけるべき言葉が見つからなかった。安易な同情も、励ましも、きっと彼女を傷つけるだけだろう。
俺にできるのは、ただ一つ。
この、静寂が保たれる限り、彼女の隣にいることだけだった。
警報音が完全に止むまで、俺たちは狭いAVルームで、二人きりの時間を過ごした。どちらからともなく、言葉はなかった。ただ、時折聞こえる彼女の小さな嗚咽と、それを慰めるかのような空調の音だけが、部屋を満たしていた。
***
AVルームでの一件以来、俺と音無さんの間には、奇妙な関係が生まれた。
翌日、俺がいつもの席に着くと、彼女は少し離れた場所から、躊躇いがちに俺を見ていた。やがて、意を決したように立ち上がると、俺の隣の席に、そっと腰を下ろした。
「……おはよう」
「あ、ああ。おはよう」
初めて交わす、まともな挨拶。彼女の声は、相変わらず小さかったけれど、昨日よりも少しだけ、芯があるように感じられた。
彼女はヘッドホンをつけたまま、静かに本を開く。俺も自分の本に視線を落とした。
何も変わらない、いつもの図書館の風景。だが、一つだけ、決定的に違うことがあった。
俺の隣に、彼女がいる。
その事実に、心臓が少しだけ速く脈打つのを感じた。
しばらくして、彼女が小さな声で呟いた。
「……静か」
「え?」
「あなたの隣……すごく、静か」
俺は顔を上げて彼女を見た。彼女は本から目を離さず、でもその言葉が俺に向けられたものであることは明らかだった。
「ノイズが、しないの。全然。あなたの周りだけ、世界から音が消えたみたいに……完全な、静寂」
彼女は、驚きと安堵が入り混じったような、不思議な表情をしていた。
「昨日、あの部屋にいた時もそうだった。あなたの感情は……音にならない。まるで、凪いだ湖みたいに、静かで、穏やかで……だから、安心する」
俺の感情が、音にならない。
つまり、俺は彼女にとって、苦痛をもたらさない唯一の存在だということか。
その事実は、俺の胸にずしりとした重みと、同時に温かい何かをもたらした。俺が、ただここにいるだけで、彼女を救うことができる。それは、不思議な感覚だった。
「だから……」
彼女は少しだけ言い淀んで、それから、祈るような声で続けた。
「少しだけ……あなたの隣に、いさせてくれないかな」
「……もちろん」
俺は、即答していた。
「俺でよければ、いくらでも」
その言葉に、彼女はほんの少しだけ、本当に微かに、口元を綻ばせた。俺は、彼女が笑ったのを、初めて見た。
それから、俺たちは毎日、図書館の隣同士の席で過ごすようになった。
講義が終わると、どちらからともなく図書館へ向かい、閉館時間まで一緒に過ごす。会話はほとんどない。でも、沈黙が苦痛ではなかった。むしろ、その静寂が、俺たちの間の絆を深めていくような気さえした。
時々、彼女はヘッドホンを少しだけずらして、俺に話しかけてくることがあった。
「この本、面白いよ」
そう言って、彼女が読んでいた古い詩集を差し出してくる。その声は、まるで耳元で囁かれているかのように、くすぐったく響いた。
俺たちは、図書館の外でも一緒に過ごす時間が増えていった。
帰り道が同じ方向だとわかってからは、自然と一緒に帰るようになった。人通りの多い駅前を避け、わざと遠回りになる静かな住宅街の道を選ぶ。
並んで歩くと、俺たちの足音だけが、アスファルトの上で規則正しいリズムを刻んだ。
カツ、コツ、カツ、コツ。
その音が、まるで二人だけの音楽のように聞こえた。
ある雨の日。
講義が終わり、外に出ると、空は灰色に染まり、冷たい雨が降り始めていた。
「しまった、傘……」
俺が呟くと、隣を歩いていた音無さんが、自分のバッグを指さした。
「私、折りたたみ、持ってる」
「本当か? 助かる」
彼女は小さな折りたたみ傘を取り出し、器用に広げた。二人で入るには、少し小さい。俺たちは自然と肩を寄せ合う形になった。
雨粒が、傘の布地をぽつ、ぽつ、と優しく叩く音。
街の喧騒は雨音に掻き消され、世界にはその音と、俺たちの静かな呼吸音だけが存在しているようだった。
ふと、隣を見ると、音無さんがヘッドホンを外していた。雨に濡れた黒髪が、白い首筋に張り付いている。
「……いい音」
彼女が、うっとりとしたように呟いた。
「雨の音……こんなふうに、ちゃんと聞いたの、初めてかもしれない」
普段、彼女にとって「音」は苦痛の源のはずだ。だが、俺の隣にいる今、この雨音は、ただの心地よいBGMとして彼女の耳に届いているらしかった。
「人の感情が混じらない、自然の音は……本当は、綺麗なんだね」
彼女はそう言うと、こてん、と俺の肩に頭を預けてきた。
突然のことに、俺の心臓が大きく跳ねる。彼女の髪から、雨と、シャンプーの甘い香りがした。
「結城くんの隣は、世界で一番安全な場所」
吐息のような、小さな声。
その言葉が、雨音よりもずっと大きく、俺の胸に響いた。
傘の下の、狭い世界。触れ合った肩から伝わる、彼女の体温。
俺は、この時間が永遠に続けばいいと、本気で思った。
彼女が抱える秘密は、あまりにも重く、切実だ。でも、その秘密が、俺たちをこうして引き寄せたのも事実だった。
俺は彼女にとっての「静寂」。そして彼女は、俺の日常に静かに差し込んできた、美しい「音」そのものだった。
俺たちの、静かで、優しい時間は、これからもずっと続いていく。そう、信じていた。
***
穏やかな日々は、予期せぬ形で波紋を投げかけられた。
その日、俺たちはいつものように大学のカフェテリアの隅にある、比較的静かな席で昼食をとっていた。音無さんは、俺の隣にいる時はヘッドホンを首にかけていることが増えた。それは、彼女が俺に心を開いてくれている証のようで、俺の心を温かくした。
「このドリア、結構おいしいね」
「うん。ここのホワイトソース、本格的」
そんな、他愛もない会話を交わしていた時だった。
「おーい、海斗! こんなとこにいたのか!」
背後から聞こえたのは、底抜けに明るく、エネルギッシュな声。振り返るまでもなく、それが誰だかわかった。
俺の友人、田中だ。彼はサークル仲間で、良くも悪くも感情表現が豊かで、いつも周囲に人を集めている、太陽みたいな男だった。
その、太陽が、俺たちの静かな聖域に、土足で踏み込んできた。
田中が俺たちに近づいてきた瞬間、隣にいた音無さんの身体がこわばるのがわかった。彼女は咄嗟に首にかけていたヘッドホンを手に取り、耳に着けようとする。
だが、間に合わなかった。
「よぉ! 最近付き合い悪いと思ったら、彼女とデートかよ! このこのー!」
田中は悪気なく俺の肩をバンバンと叩きながら、好奇心に満ちた目で音無さんを見た。
その瞬間、俺の耳には聞こえない「ノイズ」が、彼女を襲ったのがわかった。彼女の顔からすっと血の気が引き、その表情が苦痛に歪む。
田中から放たれる、強烈な「好奇心」と「興奮」。それはきっと、今の彼女にとっては暴力的な音量の、不快なノイズとなって降り注いでいるのだろう。
「初めまして! 俺、海斗のダチの田中って言います! いつも海斗がお世話になってまーす!」
「……」
音無さんは何も答えられない。ただ、俯いて、テーブルの下で固く拳を握りしめている。
田中は、そんな彼女の様子を不思議に思ったらしい。
「あれ? どうしたの? 俺、なんか気に障ること言ったかな?」
彼の「戸惑い」と「焦り」が、さらに新たなノイズを生み出す。音無さんの呼吸が、少しずつ浅くなっていくのがわかった。
「なあ、海斗。この子、なんて名前? ちょっとクールすぎない?」
田中の言葉には、悪意はない。ただ、純粋な興味と、コミュニケーションを取ろうとする善意だけだ。だが、その善意こそが、今の音無さんを最も苦しめている。
俺は、決断しなければならなかった。
ここで田中を追い払うか。それとも、音無さんが耐えられなくなるまで、この状況を続けるか。
答えは、決まっていた。
俺は静かに立ち上がると、田中と音無さんの間に割って入った。
「田中、悪い。今、ちょっと取り込み中なんだ」
「え? なんだよ、水臭いな」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
俺は言葉を探した。彼女の秘密を話すわけにはいかない。どうすれば、田中を傷つけずに、この場を収められるか。
俺が逡巡している間にも、田中の「不満」のノイズが、音無さんを苛んでいる。彼女の肩が、小さく震え始めた。
もう、限界だ。
「田中、ごめん。静かにしてくれ」
俺は、自分でも驚くほど、低く、冷たい声で言った。
「君は、少しうるさすぎる」
「は……? うるさいって、声がでかいってことか?」
「そうじゃない。……とにかく、今はあっちへ行っててくれ。頼む」
俺の真剣な表情に、田中は何かを察したようだった。彼は不満そうな顔をしながらも、「……わかったよ。じゃあ、またな」と言い残し、その場を去っていった。
嵐が去った後、カフェテリアには再び穏やかな喧騒が戻ってきた。だが、俺たちのテーブルの上だけは、凍りついたように静まり返っていた。
俺は、ゆっくりと音無さんの方を向く。
彼女は、深く俯いたままだった。その顔色は、紙のように白い。
「……ごめん」
絞り出すような声で、彼女が言った。
「私の、せいで……」
「違う。音無さんのせいじゃない」
「でも……あなたの、友達に……嫌な思い、させた」
彼女の瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私、やっぱり……ダメなんだ。あなたと一緒にいると、あなたの世界を、壊してしまう。あなたの周りの人を、傷つけてしまう」
彼女の言葉は、鋭い刃物のように俺の胸に突き刺さった。
「私は……あなたにとって、ただの厄介者で……重荷なんだよ……」
違う、と叫びたかった。君は重荷なんかじゃない、と。
だが、言葉が出てこない。
田中との一件は、俺たちに厳しい現実を突きつけていた。
俺が彼女の「静寂」でいられるのは、二人きりの時だけだ。俺が社会的な繋がりを持つ限り、彼女をノイズから完全に守ることはできない。
彼女の涙は、止まらなかった。それは、彼女がずっと一人で抱え込んできた、孤独と絶望の涙だった。
俺は、ただ、その涙を拭ってやることもできず、無力感に打ちひしがれるしかなかった。
俺たちの聖域に、初めて不協和音が鳴り響いていた。
***
あの日以来、音無さんは少しだけ、俺と距離を置くようになった。
図書館では隣に座るけれど、以前よりも少しだけ間隔が空いている。帰り道も、一歩後ろを歩くようになった。彼女が築いた、見えない壁。それが、俺にはたまらなく寂しかった。
彼女は、俺を気遣っているのだ。俺の世界をこれ以上壊さないように。俺が、友人を失わないように。
そんな彼女の優しさが、逆に俺の胸を締め付けた。
このままじゃダメだ。
俺は、彼女ともう一度、ちゃんと向き合わなければならない。
数日後、俺は彼女を誘って、大学から少し離れた場所にある植物園に来ていた。平日の昼間、人はまばらで、鳥のさえずりと風が葉を揺らす音だけが聞こえる、静かな場所だった。
温室の中、色とりどりの花に囲まれたベンチに、俺たちは並んで座った。
「……どうして、ここに?」
音無さんが、不思議そうに尋ねる。
「君に、話がしたくて」
俺は、深呼吸を一つして、彼女の方を向いた。
「この前のこと、謝らないでほしい。君は何も悪くない」
「でも……」
「俺の方こそ、ごめん。君を守れなかった」
俺の言葉に、彼女は驚いたように目を見開く。
「君は、俺にとって重荷なんかじゃない。絶対に。むしろ逆だ。君といると、俺の世界は、もっと豊かになる」
「豊かなんて……静かになるだけでしょ」
「違うよ」
俺は、彼女の目をまっすぐに見つめて言った。
「君と出会ってから、俺は今まで気づかなかった、たくさんの『音』に気づけるようになった。風の音、雨の音、ページをめくる音……君が『綺麗だ』って言う音を、俺も好きになった。俺の世界は、君のおかげで、色鮮やかになったんだ」
「……」
「だから、君に俺の世界を壊されるなんて、思ってない。むしろ、君がいない世界なんて、もう考えられない」
俺は、震える彼女の手を、そっと握った。彼女の手は、相変わらず冷たかった。
「だから、一人で抱え込まないでほしい。二人で、一緒に考えたいんだ。どうすれば、君がもっと楽に生きられるか」
俺は、一つの提案をした。
「いつも、ノイズをただ遮断するだけじゃなくて……その中から、綺麗な音を探してみるのはどうだろうか」
「綺麗な、音……?」
「そう。例えば……ほら、あそこ」
俺が指さしたのは、少し離れた場所で、母親と一緒に花を見ている小さな女の子だった。女の子は、目の前を飛ぶ蝶々を、嬉しそうに目で追っている。
きゃっきゃっ、と、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
音無さんの身体が、びくりと震える。彼女にとって、他人の「喜び」は、耳障りな鈴の音のはずだ。
「大丈夫。俺がいる」
俺は、彼女の手をさらに強く握った。
「俺の静寂に、心を預けて。そして、よく聞いてみて。あの子の笑い声の奥にある、たった一つの、純粋な感情の音を」
俺は、彼女に囁きかける。
「ノイズじゃない。たった一つの、綺麗な音色として」
音無さんは、恐る恐る、女の子の方を見た。その表情は、苦痛と恐怖に歪んでいる。たくさんの鈴の音が、彼女の頭の中で鳴り響いているのだろう。
だが、彼女は逃げなかった。俺の手を握り返し、じっと、音の奔流に耐えている。
俺は、彼女の耳元で、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
吸って、吐いて。
俺の静寂が、彼女を包み込むように。
すると、奇跡が起きた。
音無さんの苦痛に歪んでいた表情が、少しずつ和らいでいく。そして、その瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
「……聞こえた」
彼女が、震える声で言った。
「……リン、って。たった一つ……すごく、綺麗な……鈴の音が……」
それは、彼女が初めて、他人のポジティブな感情を「美しい音」として認識できた瞬間だった。
ノイズの洪水の中から、たった一つの旋律を、彼女自身の手で掬い上げたのだ。
「……すごいじゃないか」
俺が言うと、彼女はこくりと頷き、俺の肩に顔をうずめて、静かに泣き始めた。それは、絶望の涙ではなかった。希望の光を見つけた、喜びの涙だった。
俺は、彼女の頭を優しく撫でた。
もう、大丈夫だ。
彼女はもう、ただノイズから逃げるだけじゃない。これからは、俺と一緒に、世界に満ちている美しい音を探しに行ける。
それから、数ヶ月が経った。
俺たちは、いつもの公園のベンチに座っていた。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
彼女はもう、ヘッドホンをしていなかった。その代わりに、俺の腕に、自分の腕を絡ませている。
公園では、子供たちが遊び、犬の散歩をする人たちが談笑している。以前の彼女なら、耐えられなかったであろう、たくさんの感情が飛び交う空間。
だが、今の彼女は、穏やかな表情で、その光景を眺めていた。
「……聞こえるよ」
彼女が、幸せそうに目を細めて言った。
「みんなの、穏やかで、温かい気持ち。心地よい、低いハミングみたい」
彼女は、俺の助けを借りながら、少しずつ、感情のノイズを「音楽」として聴き分けることができるようになっていた。もちろん、まだ苦手な音もある。でも、彼女はもう、音を恐れてはいなかった。
彼女は、絡ませた腕にさらに力を込めて、俺の肩に寄り添った。
「ねえ、結城くん」
「ん?」
「あなたの『音』ってね、もうただの静寂じゃないんだ」
彼女は、いたずらっぽく笑って、俺の耳元で囁いた。
その声は、世界で一番、優しくて、甘い音色をしていた。
「私の、一番好きな歌だよ」
夕日が、俺たち二人を優しく包み込んでいた。
世界は、これからもたくさんの音で満ちているだろう。
でも、もう大丈夫。
俺の隣で、彼女がその音を美しい歌として聴き続けられるように。
俺は、これからもずっと、彼女だけの静寂でいよう。
いや、彼女だけのために奏でられる、世界でたった一つの、歌になろう。
そう、心に誓った。
サイレント・ノイズ ~感情の音が聞こえる君と、無音の僕~【ボイスドラマ】【G’sこえけん】 ☆ほしい @patvessel
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