風の記憶とファジーネーブル

@flowerseasonsmile

第1話


  初めてそのカフェに入ったのは、晩夏の潮風が強く吹いた日の午後だった。

 「潮騒カフェ」と言う名前に惹かれて、ふらりと立ち寄った。

 窓際の席に座ると、店員が微笑んで言った。 「おすすめはファジーネーブル。こんな風の日にぴったりですよ」

 グラスの中で、ピーチとオレンジがゆっくりと混ざり合っていく。 その色が、どこか懐かしくて胸がざわついた。

 そのとき、風がドアを押し開けた。カランコロンと鈴の音がして 、彼は風と一緒に現れた。

 白いシャツに、少しだけ乱れた髪。目元に、ラフマニノフの音楽のような静けさを宿らせていた。

「ここ、空いてますか?」

  声は低く、でもどこか柔らかかった。

 私は頷いた。

  それが、奏多との始まりだった。

 彼は静かに椅子を引き、私の向かいに座った。風が窓辺のカーテンを揺らし、グラスの氷がカチンと音を立てた。彼はふと目を細めた。

「いい音だね」

 私は少し笑った。

「ファジーネーブルって、風の味がする」

「風の味?」

「曖昧で、甘くて、でもどこか切ない。そんな感じがする」

 彼はグラスを見つめながら、ゆっくりと頷いた。

「詩人みたいだな」

「そんなんじゃない。ただ、風と話すのが好きなだけ」

「風と話す…それ、僕もやるよ。音楽でね」

「奏多くん、音楽を?」

「ピアノ。ラフマニノフが好きなんだ。静けさの中に、嵐があるから」

 その言葉に胸が少しだけ、震えた。

 彼の声が、まるで光の奏でる音のように、私の心に届いた。

 風が吹き、カーテンが揺れた。潮の匂いが少しだけまた濃くなる。

「このカフェ、初めて?」

「うん。名前に惹かれて」

「僕も、入ってみたくなったんだ」

 その瞬間、私たちは同じ風の中にいた。

 言葉よりも、沈黙だけが心地よかった。

 グラスの底に残ったファジーネーブルの液体が、夕陽に染まっていく。

 それは、確かに記憶になっていく予感がした。

 風が吹くたび、きっとこの瞬間を思い出す。

 奏多の声と、ピーチの香りと、潮騒の音。

 すべてが、風の記憶として、私の中に残っていく。

 それから何度か、奏多とそのカフェで会った。話すことよりも、風の音を聴く時間の方が多かった。

 彼の沈黙は、音楽のように心に響いた。

 ファジーネーブルの甘さが、少しずつ切なさに変わっていくのを感じていた。

 ある日、彼はいつもより静かだった。

 グラスの氷が溶ける音だけが、ふたりの間に残っていた。

「来週、東京に戻るんだ」

「そう…」

 私はそれ以上、何も言えなかった。

 奏多は、ポケットから小さな紙袋を取り出した。

「これ、君に。僕が作った香水」

 私はそっと受け取った。瓶の中に、風の記憶が閉じ込められている気がした。

「また、会えるかな」

「風が、教えてくれるよ」

 それが、奏多と交わした最後の言葉だった。

 彼が去ったあと、私は窓辺に座り海を見つめた。ファジーネーブルのグラスは空になっていた。けれど、ピーチの香りがまだ残っていた。

 風が吹いて、カーテンが大きく揺れた。

 潮騒の音と、甘い記憶。奏多の声と、風の匂い。すべてが、ファジーネーブルの味になり、私の中に残っている。

それから季節が変わっても、私はときどき「潮騒カフェ」を訪れた。

 窓際の席に座り、ファジーネーブルを注文する。ピーチの香りが風に溶けるたび、彼の声が胸に響く。

「風が、教えてくれるよ」その言葉だけが、今も確かに残っている。

 グラスの底に揺れる夕陽の色は、あの日と変わらない。

 風が吹くたび、私は少しだけ笑う。

 記憶は、消えない。

 それは、風の中で静かに生き続けている。       

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