第一章 視差
バスが標高2,000メートルを超えた瞬間、耳の奥でキーンという音が響いた。
窓の外には、白く凍りついた世界が広がっている。道路脇の標識も、樹々も、すべてが厚い雪に覆われていた。まるで、私たちを日常から切り離すように。
「大丈夫?」
隣に座る美咲が、心配そうに私の顔を覗き込む。彼女の吐息が白く、窓ガラスを曇らせた。
「ちょっと耳が...」
私が耳を押さえると、美咲は自分のバッグから飴を取り出した。レモン味の、私の好きな飴だ。彼女はいつも、さりげなく私の好みを覚えていてくれる。
「これ、舐めて。気圧の変化で鼓膜が...あ、詩織の手」
彼女は突然、私の手を取った。手袋を脱がせると、荒れた指先が露わになる。昨日の実験で使った試薬のせいだ。
「また実験で薬品使ったでしょう。ちゃんとクリーム塗らないと」
美咲は小さなハンドクリームのチューブを取り出し、私の手に丁寧に塗り込み始めた。彼女の指は細くて、でも驚くほど温かい。その優しい手つきに、胸の奥が熱くなる。
隣の席から、老婦人の優しい声が聞こえた。
「あら、仲のいい姉妹さんね」
美咲と私は顔を見合わせた。一瞬の沈黙の後、美咲が曖昧に微笑む。
「ええ、まあ...」
訂正はしなかった。する必要もないし、したくもなかった。私たちの関係を、他人に説明する言葉なんて、この世界にはまだ存在しないのかもしれない。
バスの後部座席から、激しく咳き込む声が響いた。振り返ると、白髪の男性が胸を押さえている。
「山崎さん、大丈夫ですか?」
若い男性——確か田中と自己紹介していた——が、素早く立ち上がった。
「高地に来ると、息が...心臓がバクバクいってる」
山崎と呼ばれた男性の顔色は、明らかに悪かった。額には汗が浮かんでいる。
「脈拍を測らせてください」
田中は慣れた手つきで山崎の手首を取った。腕時計を見ながら、眉間にしわを寄せる。
「頻脈ですね。不整脈もあります。お薬は服用されていますか?」
「バイアスピリンとクレストール。あとニトロペンを常備してる」
田中の表情が少し和らいだ。
「それなら大丈夫でしょう。でも、無理は禁物です。到着したら、すぐに休んでください」
午後3時過ぎ、バスは雪に覆われた天文台の駐車場に到着した。
建物から、黒いダウンコートを着た初老の男性が出てきた。髪は綺麗に撫でつけられ、眼鏡の奥の目は鋭い。黒田教授だ。
「ようこそ、皆さん。時間通りの到着で何よりです」
教授の声は、この寒さの中でも暖かみがない。権威と規律を重んじる人特有の、感情を排した声だった。
「まず、観測日誌に記名をお願いします。安全管理上、必要な手続きです」
私たちは順番に名前を書いていく。私の番が来た。
私はペンを取った。震える手で、一文字ずつ、ゆっくりと書いた。
『富永詩織』
20年ぶりに、この場所で、この名前を書いた。
兄の妹として。真実を知るために。
黒田教授は日誌を確認し、特に反応を示さなかった。
「富永さんね。では、次の方」
私の緊張をよそに、淡々と手続きは進んでいく。
美咲が、そっと私の背中に手を添えた。その温もりが、私に勇気をくれた。
玄関を入ると、すぐに暖房の効いた空気に包まれた。しかし、建物の奥からは、機械の低い唸り声と、どこか冷たい空気が流れてきている。
「山崎君、顔色が悪いな」
黒田教授が、荷物を運んでいる山崎に声をかけた。
「3年前の心筋梗塞から、こんなもんです。前壁梗塞でステント2本入れてます」
山崎は苦笑いを浮かべながら答えた。その表情には、諦めと、それでも働き続けなければならない者の悲哀が滲んでいた。
「高地勤務は医者に止められなかったか?」
「2,500メートルが限界と言われましたが、ちょうどここの標高です。ギリギリセーフってことで」
黒田教授は何か言いかけたが、結局何も言わずに先へ進んだ。
施設見学が始まった。廊下は長く、両側にいくつもの扉が並んでいる。観測室、制御室、データ解析室...そして、東側の突き当たりに、錆びた南京錠のかかった扉があった。
「この扉は絶対に使うな」
黒田教授の声が、急に厳しくなった。
「20年前の事故以来、観測中は封印している。約束できるか?」
全員が頷いた。でも、私は気づいていた。南京錠の周りの埃が、最近動かされた形跡があることに。そして、扉の向こうから、かすかに冷たい風が漏れていることに。
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