第8話 霧の中での出会い


 陽はとうに登っているはずなのに深い霧のとばりは一向に晴れる気配がない。手を伸ばせば指先すらもやがかかったようにかすんで見える。誰もがこの状況で走るのは危険だと考えるだろうが鈴音は足を止める事はなかった。

 限界を迎えて悲鳴をあげる身体にむちを打ちながら、視界をさえぎる霧を手で払いのけるようにき分けて、感情のおもむくままに森の更に奥を目指して駆ける。次第に顔の表面は湿り気を帯び始め、羽織が肌に張り付いた。荒い呼吸と重なるように脈打つ鼓動に、心臓が破けてしまう錯覚を覚える。

 それを、まだ大丈夫だと言い聞かすように櫛ごと、心臓を服の上から押さえつけた。


(もう少し、死ぬなら誰にも見られないところで)


 黒髪を濡らすつゆが汗と混じり頬を伝った。その感覚を不快に思うが乱雑に袖で拭うだけ。強く拭いすぎたようで熱が集まるのを感じた。


「お待ちになって」


 霧の向こうから柔らかな声が聞こえて、鈴音は思わず足を止めた。肩で息をしながら、声が聞こえた方角を見る。その場所だけ霧が徐々に薄くなり、一人の女性が現れた。


「あ、なたは」


 乱れた呼吸の合間に誰だと問えば、女性は柔和な笑みを更に深める。とても美しい女性だ。桔梗ほどではないが身長は高く、均整のとれた体躯をしている。


「怪我をしているの?」


 女性は鈴音の身体を見つめて、微かに眉を寄せた。

 はっ、として鈴音は羽織のえり手繰たぐり寄せて、胸元を隠した。素肌に羽織だけ纏った状態では隠せるのには限界がある。今から死ににいくというのに、見知らぬ女性と会ったことでなぜか羞恥を覚えた。

 急いでこの場を離れようと鈴音がきびすを返したら、いつの間にか背後にいた女性が鈴音の手首を掴んで引き留める。


「——っ!」


 痣の部分を圧迫されたことで鈴音は顔を顰めた。


「ごめんなさい。力が強すぎたかしら」


 女性は手を離すと、打掛を脱いで、鈴音の肩にかけた。


「すみ、ません。……これ、お返し、します」

「そんなに警戒しないでちょうだい。私は食材を届けにきただけの人間よ」

「……人間?」


 失礼かと思いつつも鈴音は女性の顔をまじまじと見つめた。繊細なおもてはまるで芍薬しゃくやくの精かと見紛うほどに整っており、人間というよりも天女と言われたほうが思わず頷いてしまう美貌をしている。

 女性は更に笑みを深めると、視線を鈴音の足元へ落とした。


「酷い怪我……。さあ、手当てをするからこちらに」


 伸ばされた手に、鈴音は手を重ねることができなかった。俯いて、視線を左右に彷徨わせる。


「……私、行きたいところ、あるので」

「それはどこ?」


 優しく問い詰められて言葉に詰まる。問われても答えることができない。

 奥歯を噛み締めると温かい手が鈴音の手に重ねられた。


「さあ、こちらにいらっしゃい」


 促されるまま、近くにあった大岩に腰掛ける。


(ここに、岩なんてあったかしら)


 ふと疑問を抱くが女性が鈴音の足を持ち上げたことで思考が途切れた。裾を引っ張り、できる限り足を隠そうとする。


「少しみるけど頑張れそう? 痛かったら、私の肩を掴んでもいいわ」


 答える間もなく、女性は竹筒を取り出すと鈴音の足に水をかけた。肌を突き破る小石や枝を取り除き、裂けた肌を丁寧に冷水で洗い流す。

 傷口を洗えば痛いはずだ。それなのに先ほどまで確かにあった痛みは、今は微塵も感じない。鈴音が目を丸くさせると女性は、にこりと口角を持ち上げる。


「痛みに強い子ね。すごいわ」

「すごくなんて、私は……」

「私も昔、酷い怪我をしたことがあるの」


 女性は袖を捲ると「ここらへんよ」と肌を撫でた。目を凝らしても傷痕は見当たらない。


「この塗り薬、臭いがちょっと独特だけど、効きはいいの。これぐらいの傷なら跡には残らないと思うから安心してね」


 傷口の洗浄を終えると次は壺の中から軟膏を指ですくい取り、傷口に塗り込み、包帯を巻いていく。足の手当てが終わってから女性は鈴音の身体中に残された痣を見つめた。

 足と同様に水で表面を洗いながし、太ももなどの洗い流せない場所は水を含ませた手巾で拭う。軟膏を薄く塗りこむと包帯を巻く。

 最後に腰の手当てをしようとしたところで女性はそっと顔を逸らした。


「着物の下は自分でしたほうがいいかしら」

「あの」

「手当ての仕方わかる?」

「え、あ、はい」

「なら、はい。手を広げて」


 言われるままに両手を合わせてると女性は軟膏が入った壺と包帯を乗せた。


「なんで、ここまで、してくれるのでしょうか」

「縁っていうのはどこで繋がっているか分からないわ」


 鈴音は首を傾げた。


「ご縁?」

「あなたが花嫁はなよめ御寮ごりょうに選ばれたのも。私とここで出会ったのも。全て、縁が繋がっているから」


 意味が分からず、鈴音は両目を丸くさせる。


「その縁を切ろうとせず、私はただ繋げたままにしているの」


 そう言って女性は鈴音の身体を横抱きにした。いくら鈴音が小柄で、女性が長身でも、こんな軽々と抱き上げることは不可能だ。それも山奥という安定しない場所で。

 驚いた鈴音は小さな悲鳴をあげると、女性の首に腕を巻き付けた。ぎゅっ、と身体を密着させると「大丈夫よ」と女性はくすくす笑って歩き出した。


「どこに、あの、私は行きたいところが」

「お屋敷まで案内するわ。その足では歩くこともままならないでしょう?」


 でも、と鈴音は反論しようとした。

 女性は不思議そうに鈴音を見つめる。


「なにか、嫌なことでもあった?」

「嫌なこと……」


 嫌なことばかりだ。紛い物として人間扱いされない人生も、子どもを作るために無理やり暴かれる恐怖も、仮に子どもができたとして用途を失った鈴音には明るい未来などないことを。

 だから、死んでしまいたい。楽になりたい。

 よく知らない相手に、ぽつりぽつりと心情を吐露とろする。


「だから、放っておいてほしいの?」


 こくり、と鈴音は頷く。


「それは無理ね。私は、自分から縁を切ることはしたくないの」


 女性は微笑みながら鈴音の額を——お面ごしに——指先で優しく撫でる。


「また辛くなったら、にいらっしゃい。私はいつもいるから。話を聞くことはできるわ」

「……ごめん、なさい」

「謝罪よりも、〝ありがとう〟のほうが嬉しいわ」

「あ、……ありがとう」


 どういたしまして、と女性は笑った。

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