宥菜ちゃんには内緒だよ

 ――帰ろう。

 宥菜ゆうなが立ち上がったのは、随分時間が経ったあとだった。

 夕日に向かっていくように参道を進む宥菜の胸には、嫌なもやもやが湧いていた。


 俐生りおがよく身につけていたリングがあった。

 中学生が買うにしては高価なもので、高校生くらいがアルバイトして買うようなブランドのリングだった。

 俐生と遊ぶたび、そのリングがとても輝いて見えた。宥菜も欲しくなり、お小遣いとお年玉を使って、俐生と同じシリーズの別のバリエーションのものを買った。

 その週の日曜日、三人で遊ぶことになっていた。

 宥菜が待ち合わせ場所に行くと、俐生はまだ来ておらず、かけすがいた。

「あ、それ」

 開口一番、鵥は宥菜のつけているリングに気付いた。

「あ、これね。俐生と同じの欲しかったから」

 宥菜は首から下げたリングを半ば誇らしい気持ちで持ち上げた。

 ところが、

「キモ」

 鵥はそう言ったのだ。

「えっ」と宥菜は自分の耳を疑った。

「俐生ちゃん、そういうの鬱陶しがると思うけどな」

 鵥の表情は普段と変わらない。それが厳然たる事実とでもいうようで、宥菜の胸に不安がよぎる。

「そんな……そんなこと、ない」

 早回しで萎れていく花のように、声が小さくなっていった。

 さきほどまで明るい気持ちだったのが、奈落に突き落とされたように急にどんよりと暗くなった。

 一方、鵥はそんなことなどまるでなかったように、その後も変わらぬ調子で宥菜に話しかけてきた。

 その日以降、俐生がリングをつけなくなったことに、宥菜は気付かなかった。


 鵥は嫌な奴だ。

 自分勝手に他人をけなしておきながら、それをまるで気にしない。

 俐生も自分勝手な奴が嫌いだと言っていた。

 自分にそう言い聞かせることで、嫌なもやもやを抑えていた。

 夕日のなかを俐生はとぼとぼと歩く。

 ――そういえば、俐生はどうしているんだろう。

 今にしてみれば、鵥を消そうとした場面を見られてはいないかと気になってきた。見られていたならまずいかもしれない。いや、もしかすると俐生ならば理解してくれるかもしれない。

 甘やかな想像をしながら、疲れ切った心が俐生を求めているのがわかった。

 ――早く俐生に会いたい。

 宥菜は相当長い時間待っていた。

 特に鵥を消してから、一時間はへたりこんでいただろう。

 家に帰るにしてもあまりにも遅すぎる。

 宥菜の思考がそこに至ったとき、足が止まった。

 ――なんで。

 宥菜は異様なまでに赤々と燃える夕日を見た。

 今にも沈みそうな太陽が、この神社に来てからずっとこちらを照らしていた。

 ――なんで、沈んでないの。

 スマホの時刻を確認すると、もうとっくに真っ暗になっていないとおかしい時間だった。 宥菜は来た道を戻る。

 はじめは斜面を慎重に登ろうとしていたが、胸騒ぎが大きくなるにつれて、足が速まった。

 まったく舗装されていない参道は、宥菜の足をひっかけるように木の根が飛び出し、転んで手をつくと、昨日の雨でぬかるんだ泥がついた。ジャージの膝は湿って、気付かないうちに頬に傷ができていた。

 社につくと階を駆け上がる。

 ガタガタと音を立てて格子戸を開いた。

 こんな音、私聞いてない!

 宥菜は自分が間違っていたことに気付いた。

 もし、鵥が格子戸を開けて、宥菜の隣に座ったのなら、音がしたはずだ。

 鵥とは一緒に神社に来た。だから彼女が事前に開けておくこともできない。


 ――だから、ネットって楽だよね。好きに繋がることができて、ちょっと嫌になったらすぐに切れる。リアルはそうはいかないよ。

 俐生の言葉が頭に響き、宥菜はようやく思い出した。

 俐生は、神社に来たのだ。

 鵥と待っていたところに、俐生は手鏡を持ってやってきた。

「どうせなら合わせ鏡をして撮ったら楽しいよね」そう言ってスマホを取り出した。

 そのときの宥菜は、まだ単なる都市伝説だと思っていたから、俐生は気が利いているなと暢気のんきに構えていた。

 一人ずつ撮ることになり、最初は宥菜の番だった。

「あー、大鏡と距離が近すぎて、合わせ鏡にならないね」

 社のなかは狭い。俐生は後ろへ下がろうとしてきざはしを降りていった。

「ねぇ、鏡の向きを変えてよ」

 それに応じて、宥菜は鏡の角度を調整した。

「じゃあ、撮るよ。ちゃんと鏡を見ててね」

 しかし、いざ鏡をのぞくとなると、宥菜は躊躇ためらった。ただの噂にしか思っていなくても気持ちのいいものではない。今の今まで平気だと思っていたが、怖くなってきた。

「宥菜、見てよ。ただの噂だって」

 そうは言われてもと宥菜は逡巡する。

「もう、早くしてよ。完全に日が沈んだら意味ないんだって」

 俐生の声に苛立ちが混じったのを感じた宥菜は、怖々と鏡を見つめた。

「いいねぇ! それじゃあ撮るね!」

 俐生の声に調子が戻るのがわかり、宥菜は安堵した。

 このときに俐生の表情を宥菜が少しでも見ていたなら、後の展開が違っていたかもしれない。宥菜の俐生に対する感情がすべてをごまかそうとするだろうが。

 いずれにせよ、悪意に敏感だと自負する宥菜ならば、少しはおかしいと感じたはずだ。

 俐生は笑っていた。口の端がこれでもかと釣り上がった悪意に満ちた笑みだった。

 しかし、宥菜にはその表情が見えなかった。俐生が持つ鏡を見つめていたからだ。

 離れたところにある鏡なのに、なぜだかよく見えた気がした。

 鏡には小さく自分が映っていたが、顔の細部まではっきりと見て取れた。

 鏡のなかの自分と目が合った。

 途端、宥菜の身体は金縛りに合ったように動かなくなった。

 宥菜の表情が強ばる。

 ――え、なに?

 宥菜は困惑するが、自分の表情すら動かせなくなっていた。

 鏡のなかの宥菜の表情がこちらを見つめ、ぐにゃりと笑う。

 そして、気付けば神社の階に座っていたのだ。


 ここは鏡の世界だ。

 理解がそこに至ると、宥菜は半狂乱になった。

 ――ウソ! ウソだよね! 俐生! どうして!

 しかし、自分のなかの冷静な部分が告げる。

 俐生はわかっていてムゲンカガミをやったのだ。

 光吒について俐生が相談を持ちかけたのは二週間前、そして光吒が失踪したのは先週だ。

 タイミングが良すぎる。

 なにより、俐生は執拗に鏡を見せようとしてきたのだ。

 宥菜のなかでひとつのストーリーが組み上がる。

 俐生が光吒を呼び出して、ムゲンカガミを試すというものだ。

 ――そんなものあるわけないじゃないですか。

 もし、ムゲンカガミが単なる噂でも、光吒は怒らなかっただろう。

 光吒は俐生に疎んじられていることに気付かず、宥菜に対して文句をつけてきた。それに光吒のクラスでの立場は、俐生がいなければ本当に孤立してしまう。

 少しくらい度が過ぎた悪戯をされても、光吒は俐生を許してしまえるだろう。

 そして、光吒は本当に消えてしまう。

 そこでムゲンカガミが本物だと確信した俐生は、今度は宥菜と鵥を消そうとした。

 宥菜をムゲンカガミで消したあと、きっと俐生は鵥も消したのだろう。

 宥菜でさえ、簡単に押さえ込めたのだ。抵抗する鵥にむりやり鏡を覗かせるのは容易いだろう。なにより、人が一人、目の前で消失したのだ。さすがの鵥も怯えきって逃げるどころではなかったかもしれない。

 ――鵥ならまだしも、どうして私が……。

 しかし、宥菜にはなぜ俐生が自分を消そうとするのか、まったくわからなかった。

 ――帰らなきゃ! 俐生はなにか勘違いしてる!

 宥菜はさきほど裏返した大鏡を、水たまりの角度に合わせた。

 階の一番上の段から、鏡になった水面を覗く。

 自分が見えた。鏡像の自分の背後に連なるように同じ景色が重なっていた。

 鏡のなかの自分と目が合うと、金縛りのように身体が固まった。

 そのとき、ようやく宥菜は気付いた。

 水たまりが合わせ鏡になっているのを見たとき、違和感を覚えたはずだった。

 それ以上に強く悪意を感じたせいで、流してしまった違和感を思い出した。

 ここに至ってようやく違和感の形が見えた。

 はじめ、この水たまりは空を映していなかっただろうか。

 水面は奇妙なまでに光を反射していた。波紋ひとつないどころか、水底すら見えず、景色をそのまま映しているようにしか見えない。

 宥菜は、肌が粟立つのがわかった。

 胸像の宥菜がゆっくりと表情を変えていく。

 真上の位置にある空を映していた水面鏡が、階の上にいる自分を映すことなどあるだろうか。

 ――じゃあ、あれもおかしい。

 鵥のスマホのアラームが鳴ったのはなぜか。

 自分に襲われた鵥が一矢報いたのだろうか。

 そんなわけがない。あのときの鵥は暴れるくらいに慌てていたはずだ。冷静にそんな操作ができたとは思えない。

 割れた画面に表示された時刻を思い出せば、あらかじめアラームを設定していたとも思えない。十八時四十八分にアラームを設定するとは普通考えられないし、仮に宥菜に襲われる前に設定していたなら、未来を予知していたことになる。

 ――誰が、アラームを設定したの?

 どう考えても、誰かが設定しているはずがない。

 自然の法則がねじ曲がり、あたかも世界が宥菜にムゲンカガミをさせようとしているのではないかと思えた。

 宥菜は水面でおもむろに歪んでいく自分の表情を見て、これまで感じたのことのない巨大な悪意を感じた。

 ムゲンカガミをやってはいけなかったのだ。

 それなのに、自分は今、やってはいけないことをしている。

 ――私、自分勝手な人って嫌いなんだよね。

 俐生の言葉をふたたび思い出す。しかし、宥菜はなぜその言葉を思い出したのか、自分でもわからない。けれども、自分が責められているような気分になった。

 ――私、悪くないのに。

 思い切り叫び出したくなった。

 しかし、そのときにはもう宥菜はこの世界から消えていた。


  *


 俐生ちゃんだけに教えてあげる。

 宥菜ちゃんには内緒にしてね。

 なんでムゲンカガミっていうのか、知ってる?

 合わせ鏡って、鏡のなかに無限に鏡が映るじゃない。

 鏡の世界に行った人は、もう一度ムゲンカガミで戻ってこようとするんだけど、ムゲンカガミをすればするほど、別の鏡の世界に行っちゃって、現実から離れちゃうんだ。

 だから鏡の世界に行ったら、じっとしてなきゃいけないんだ。

 そうすればいつか帰ってくることもあるんだって。

 でも、私信じてないんだよね。

 こういうの、面白いなって思ってるけれど、本気にするのってバカだと思う。

 どうして宥菜ちゃんには内緒にするのか?

 私、宥菜ちゃん嫌いだもん。

 いつも私が悪いみたいな顔して見てくるのがムカつくし。

 俐生ちゃんだって、宥菜ちゃんのこといつもひっついてきて鬱陶しいし、自分勝手だって言ってたよね。

 もし本当にムゲンカガミがあって、宥菜ちゃんが鏡の世界に行ったらって考えたらさ。

 帰ってきて欲しくないじゃん。

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ムゲンカガミ ものういうつろ @Utsuro_Monoui

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