第52話【セレスフィア視点】あなたが教えてくれたもの

宰相オルダスが変貌した怪物は、跡形もなく消え去った。

だが、私たちが安堵の息をつく間もなかった。最後の希望として、怪物の核石に吸い付いていたポヨン様の体に、おぞましい異変が起きたのだ。


「ポヨン様!?」


青く透き通っていたはずのその体は、吸収した呪詛と、体内に蓄積されていた【澱】が共鳴してしまったのか、内側からどす黒い瘴気に侵食され、みるみるうちに漆黒へと染まっていく。体は粘液のように膨張し、かつてのオルダスのように巨大化し、玉座の間の天井に届かんばかりの大きさとなった。純粋な青い光を宿していたはずの場所には、憎悪に燃える無数の赤い目がぎらぎらと浮かんでいる。


「ぐるるおおおおおっ!」


響き渡ったのは、ポヨン様のものではない、魂を直接握り潰すかのような、絶望的な咆哮だった。

「そんな……聖獣様が、災厄そのものに……」

誰かが絶望の声を漏らす。王も、王女も、騎士たちも、誰もが言葉を失い、目の前の新たな絶望に立ち尽くしていた。


違う。

違う、この子は、そんな存在じゃない。

この子は、ただ純粋なだけ。善悪の判断もつかぬまま、初めて取り込んだ「憎悪」という強烈な感情に、その心が振り回されているだけなんだ。


――私が、教えてあげなければ。あなたが、この世界で感じた、もっと素敵な感情を。


「セレスフィア様、危険です!」

カシウスの制止を振り切り、私は走り出していた。

恐怖で足が震える。だが、それ以上に、あの子を独りにはしたくないという想いが、私を突き動かした。

私は、黒く巨大化したポヨン様の、蠢く体の一部に、躊躇なく、思いきりその身を投げ出して抱きついた。


「ポヨン様! 私がわかる!? 思い出して!」

私は、ありったけの力で抱きしめながら、必死に叫んだ。

「あなたが森で感じた、木漏れ日の温かさを! 翼さんの背中の、もふもふの優しさを! 下層地区の子供たちが、あなたに触れた時の、あの嬉しそうな笑顔を! それが『スキ』っていう気持ちだよ! この黒くて嫌な気持ちより、ずっとずっと、温かくて、美味しい気持ちのはずでしょう!?」


私の温もりが、祈りが、言葉が、通じたのだろうか。

私が抱きしめていた部分から、温かい光が、波紋のようにじわーっと広がっていく。漆黒の瘴気は、夜明けの光に溶ける闇のように、すーっと消えていった。

あれほど巨大だった体は、みるみるうちに萎んでいき、元の大きさよりも、もっともっと小さく――カシウスの兜の上にちょこんと乗れるほどになって、私の腕の中に、ころんと収まった。

そして、全てを浄化しきって疲れてしまったのか、すー、すー……と、安心しきった穏やかな寝息を立て始めた。


瘴気は完全に晴れ、崩壊した玉座の間に、窓から差し込む朝日の光が、まるで真の奇跡の訪れを告げるかのように、キラキラと降り注いでいた。

その光の中心で、私は腕の中の小さな命を抱きしめ、ただ静かに涙を流していた。


「……終わったのか」

誰かが呟いたその一言で、張り詰めていた空気が、一気に弛緩した。騎士たちは剣を落とし、王族も、皆、その場にへたり込んでいる。


静寂を破ったのは、玉座からゆっくりと立ち上がった、国王陛下の声だった。

「皆、顔を上げよ。国を蝕んでいた災厄は、今、ここに滅せられた! この度の働き、誠、見事であった!」


陛下の言葉を受け、ヴァルキュリア公爵が、私の前に進み出た。

「セレスフィア殿。父君を侮辱した私の不明を、どうか許してほしい。リンドヴルム卿の真の騎士であった……」

「公爵様……」

私は、彼の差し出す手を取った。長い憎しみの連鎖が、今、断ち切られたのだ。


リチャード王子は、自らの浅慮を恥じ、父王の前に膝をついた。

「父上、私は……」

「良い、リチャード。お前の過ちは、若さ故のもの。これからは、姉イザベラを支え、この国の未来のために尽くすのだ」

イザベラ王女は、そんな弟の肩にそっと手を置き、私に向かって、氷の仮面を溶かした、心からの微笑みを向けた。

「セレスフィア、貴女は、本当に面白い嵐を呼んでくれたわね。感謝するわ」


数日後。国王陛下の名において、父、リンドヴルム卿の名誉は完全に回復された。オルダスの執務室から見つかった証拠により、父がオルダスの策略によって陥れられたことが、ついに証明されたのだ。リンドヴルム家は、王家の直轄地となっていたかつての領地を取り戻し、再興を許された。


そして、私は、新たに創設された『王家付聖獣守護官』という、ポヨン様のお世話を専門とする役職に就くことになった。これ以上ない、名誉なことだった。


ポヨン様は、まだ元の大きさに戻らないけれど、王城の美しい庭園で、翼を休めるグリフォンの背中を滑り台にして、無邪気に遊んでいる。

その、どこまでも平和で、愛おしい光景を見つめながら、私の頬を、温かい涙が伝った。

この奇跡を、この国を、私は、何があっても守り抜こう。

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