第35話【第二王子リチャード視点】奪われた駒と、新たな毒
忌々しい。実に忌々しい。
あの老獪な教皇め、まんまと俺の『聖獣』と神獣を、神殿の管理下に置きおって。
俺が「王家の賓客である以上、王城で保護する」と再三にわたり抗議したにも関わらず、教皇は『聖獣様の安寧のため』の一点張りで押し切りおった。神聖なる神殿の決定に、王族とて表立って武力で覆すわけにもいかず、結局はただ指をくわえて見ているしかなかったのだ。賓客として招き入れたはずの駒に、逆に盤上から弾き出された気分だ。
「オルダス、リンドヴルムの娘は神殿を拠点に自由に動き回っている。下層地区の民衆の心を掴み、姉上と裏で接触していないとも限らん。このままでは、俺たちの手の届かぬところで、奴らが巨大な勢力になりかねんぞ」
宰相執務室で、俺は苛立ちを隠さずに言った。空中散歩で民衆に愛想を振りまく姿を見るたびに、腹の底が煮え繰り返る。
「殿下、ご懸念はもっともにございます。ですが、自由に動けるということは、それだけ失態を犯す機会も多いということ」
オルダスは、不気味なほど落ち着き払ったまま、静かに続けた。その時、密偵からの緊急の報せが彼の元へ届けられた。それに目を通すと、オルダスは初めてその爬虫類のような目に、確かな愉悦の色を浮かべた。
「……殿下。どうやら、火種は我々が蒔く必要もなかったやもしれませぬ」
「何があった」
「詳細は不明ですが、聖獣様が、神殿内で何か、とんでもない『失態』を引き起こされたご様子。大神殿は、今、その事実の隠蔽に躍起になっている、と」
ほう。あの食いしん坊な魔物が、また何かやらかしたか。
「格好の材料だ。神殿が聖獣と崇める存在が、その実、神聖なる封印を喰い破る、制御不能の魔物だった。この醜聞を王都中に広めろ。大神殿の権威など、地に堕ちるわ」
「御心のままに。ですが殿下、それだけでは、民衆の『聖女』への信仰を覆すには足りませぬ」
オルダスは、懐から小さな紙片を取り出した。
「『災厄の匣』の正体について、古文書を調べさせた結果でございます。伝えによれば、その匣は、古の時代に王国を襲った『灰死病』の呪いを封じ込めたもの、と」
「灰死病……? 伝説上の疫病か」
「左様にございます。そして、その呪いを解き放った聖獣は、今も王都の上空を気ままに飛び回っている。もし、万が一、その体から呪いの欠片が飛散したとしたら……」
オルダスの言葉の真意を悟り、俺の口元に昏い笑みが浮かんだ。
「……下層地区で、再び病が流行り始めた、と。そういう噂を流せというのだな」
「あくまで、噂でございます。ですが、不安という毒は、一度撒けば、人々の心の中で勝手に育っていくもの。聖女への信仰が深ければ深いほど、裏切られた時の絶望も、また深いものとなりましょう」
くくく……面白い。実に悪趣味で、俺好みだ。
神殿の権威を失墜させ、あの娘を孤立させる絶好の機会だ。聖域などという甘っちょろい幻想、俺が打ち砕いてくれる!
「すぐに手配しろ、オルダス!」
「御心のままに」
オルダスは恭しく頭を下げたが、その口元には、俺でさえも底知れぬと感じる、深い笑みが刻まれていた。
ようやく、この退屈な盤上が、再び動き出しそうだ。
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