第23話【セレスフィア視点】氷の女王と予測不能の聖獣
下層地区での一件は、私の予想を遥かに超える速度で、王都の勢力図を塗り替え始めていた。
民衆は、私とポヨン様を『聖女』と『聖獣』として熱狂的に支持し、その噂は貴族社会にも無視できない波紋を広げている。大神殿は沈黙を保ち、リチャード王子は民衆の支持を自らの功績として喧伝しつつも、意のままにならぬ私たちに苛立ちを募らせていた。
そして、ついに、最も警戒すべき相手が動いた。
第一王女、イザベラ・フォン・アストライア。彼女からの、直々のお茶会への招待状。そこには、『噂の神獣も、ぜひ拝見したい』と、優雅な文字で書き添えられていた。それは、美しく装飾された、拒否権のない召喚状だった。
翌日、私たちは招待に応じ、グリフォンの背に乗って離宮の薔薇園へと直接向かった。天から降臨する神獣と、それに乗る私たちの姿は、王女へのこれ以上ない示威行為となるはずだ。
そこに、氷の彫像のように、彼女は座っていた。
黄金の髪、氷雪を思わせる青いドレス、そして、全てを見透かすかのような冷徹な紫紺の瞳。彼女こそが、この国の事実上の支配者。
そして、その傍らには、ヴァルキュリア公爵が、忠実な番犬のように控えていた。
私たちがグリフォンから降り立つと、イザベラ王女は静かに立ち上がった。
「ようこそ、リンドヴルム嬢。噂の『聖女』様、王家の象徴たる神獣、そしてその神獣を従えるという、腕の中の小さな聖獣様にも、一度お会いしてみたかったの」
王女の視線は、私を通り越し、威風堂々と翼を休めるグリフォンへと注がれていた。
「……お茶の前に、少しだけ、この国の守護神にご挨拶してもよろしくて?」
その言葉は問いかけの形を取りながらも、有無を言わせぬ響きを持っていた。私は静かに頷くしかなかった。
王女は、ヴァルキュリア公爵を伴い、ゆっくりとグリフォンに近づく。
王女は、グリフォンの目の前で足を止めると、その威厳に満ちた姿を見上げ、感嘆の息を漏らした。
「誇り高き神獣よ。貴方が再び王都の空を舞う姿を見られるとは、喜ばしい限り。しばし、その肌に触れる栄誉を許してくれるかしら?」
王女は、グリフォンに語りかけるように言うと、その優雅な白い手を、逞しい首筋へと、ためらうことなく伸ばした。グリフォンは王女の言葉も行動も意に介さず、ただ静かにその手を受け入れた。
「……なるほど。誰にも屈さぬ、気高い魂。素晴らしいわ」
王女は満足げに微笑むと、私たちをテーブルへと促した。
席に着くと、まずは当たり障りのない会話が続いた。庭の薔薇の見事さ、紅茶の芳醇な香り、そして菓子の上品な甘さ。だが、その穏やかな言葉の裏で、互いの腹を探り合うような、張り詰めた空気が流れていた。
「それにしても、見事な手腕ね、リンドヴルム嬢。大神殿ですら匙を投げた下層地区の病を、貴女はたった数日で鎮めてしまった」
ついに、氷の刃が鞘から抜かれた。
「恐れ入ります。ですが、それは私の力ではございません。全ては、聖獣様の純粋な慈悲の御心によるもの。私はただ、その声に従ったにすぎません」
私は膝の上のポヨン様を撫でながら、あくまで自分の手腕ではないと韜晦する。
「まあ、謙虚なこと。けれど、私の愚かな弟は、その『慈悲の御心』を、すっかり自分の手柄だと喧伝しているようだけれど。貴女は、それで満足なのかしら?」
弟を愚かと断じ、私を試すような視線。リチャード王子への忠誠を問う、巧妙な罠だ。
「リチャード王子殿下には、王都での滞在を許していただいたばかりか、身に余る庇護をいただいております。感謝こそすれ、不満などございましょうはずもありません」
私が恭しく答えると、王女の隣に控えていたヴァルキュリア公爵が、初めて口を開いた。
「感謝、か。亡きリンドヴルム卿も、王家への感謝と忠誠を口にしながら、結果として帝国との戦で致命的な失態を犯し、この国を苦境に陥れた。その娘が、軽々しく忠誠を口にするとは、聞いて呆れるな」
父への侮辱。全身の血が沸騰するような怒りを、私は奥歯を噛み締めて押し殺した。ここで感情を見せれば、負けだ。
私は、穏やかな微笑みさえ浮かべて、公爵に向き直った。
「公爵様のお言葉、肝に銘じます。父が犯したとされる失態は、娘である私が生涯をかけて償うべきもの。そして、父にかけられた汚名は、いずれ必ず、私が真実を以て晴らす所存でございます」
「……ほう」
公爵は面白くなさそうに眉をひそめ、王女は逆に、興味深そうに目を細めた。
「貴女の父君は、実に忠義な騎士だったと聞いているわ。その娘が、辺境で埋もれるには惜しいと思っていたのよ。……けれど、今の貴女は、ただの忠義な騎士の娘、というだけではなさそうね」
その時だった。
この計算され尽くした、氷のように冷たい緊張感を打ち破ったのは、私の膝の上で完全に退屈していた、小さな奇跡だった。
ポヨン様が、会話の緊張感など意にも介さず、私の膝から飛び降りると、見事に手入れされた庭園へと駆け出したのだ。そして、あろうことか、王女が最も愛でているという真紅の薔薇の、大輪の花に、実に美味そうに、むしゃむしゃと食らいついた。
「ポヨン様っ!」
私の悲鳴と、カシウスが息を呑む音が重なる。ヴァルキュリア公爵が「無礼者めが!」と殺気を放ち、剣の柄に手をかけた。不敬罪。この一言が脳裏をよぎり、全身の血の気が引いた。終わった、と、そう思った。
だが。
「ふっ……ふふ、あははははっ!」
静寂を破ったのは、イザベラ王女の、鈴を転がすような、しかし心の底からの笑い声だった。
王女はヴァルキュリア公爵の動きを手で制し、腹を抱えて笑い続けている。
「まあ、面白い! 実に面白いわ! 私の庭の薔薇を食べる者など、後にも先にもこの子だけでしょうね! 常識も、礼節も、王族の威光すら、この子には何の意味もなさないというわけね」
呆然とする私を尻目に、ポヨン様は、まるで自分の手柄を誇るかのように、イザベラ王女の膝へと飛び乗った。
王女は、その小さな青い体を、興味深そうに指でつつきながら、私に視線を戻した。その瞳には、先ほどまでの冷徹さはなく、純粋な好奇と愉悦の色が浮かんでいた。
「なるほど。これほど予測不能で、純粋な混沌。弟のような凡庸な男が、手懐けられるはずがない。セレスフィア・フォン・リンドヴルム、貴女も、ただの操り人形ではないようね」
帰り際、イザベラ王女は、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「せいぜい、この退屈な盤上を、その小さな怪物と共にかき乱してちょうだい。貴女の次の一手を、楽しみにしているわ」
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