第42話 ギルドへの登録
自由都市ヴェリディアでの最初の夜は、安らぎと緊張が入り混じった奇妙なものだった。
一つのベッドを分け合うことには、結局最後まで慣れなかった。背中合わせで眠りについたものの、すぐ側で聞こえる彼の穏やかな寝息が、私の意識をなかなか手放してはくれなかった。顔が熱くなるのを必死に抑え、私はただひたすらに、朝が来るのを待っていた。
翌朝、私たちは薄暗い宿の部屋で作戦を立てていた。
「まず、金がいる」
彼は、テーブルに数枚の銀貨を並べながら言った。その声は現実的で、揺るぎがない。
「この街で生きていくには、情報が必要だ。そして情報を買うには金がいる。俺たちの手持ちだけでは、すぐに底をつくだろう」
彼の言う通りだった。私たちはもう、何不自由ない生活を送っていた貴族ではない。今日の食事も、今夜の寝床も、自分たちの手で稼がなければならないのだ。
「どうすれば……」
私が不安げに尋ねると、彼はまるでそれが当然であるかのように答えた。
「この街で、俺たちのような流れ者が手っ取り早く金と情報を得る方法がある。一つだけな」
彼は窓の外、街の喧騒の中心を指差した。
「冒険者ギルドだ。そこへ行って、俺たちの“新しい名前”を登録する」
冒険者ギルド。
吟遊詩人が歌う物語の中では、英雄や命知らずたちが集う場所として描かれていた。しかし現実のギルドは、もっと殺伐としていて、危険な場所であるに違いない。
私の顔に浮かんだ怯えを読み取ったのか、彼は安心させるように、私の頭を軽く撫でた。
「大丈夫だ。俺がそばにいる。それに、いつまでも裏路地に隠れているわけにもいかないだろ? これは、俺たちがこの街で生きていくための、最初の一歩だ」
その力強い言葉に、私はこくりと頷いた。
彼と一緒なら、きっと大丈夫だ。
私たちは宿を出て、ギルドがあるという街の中央区画へと向かった。
昨日よりも、街の混沌は色濃く感じられた。路地裏からは怒声が聞こえ、屈強な傭兵たちが肩で風を切って歩いている。すれ違う人々の視線は鋭く、誰もが他者を警戒し、そして利用できる獲物ではないかと値踏みしているようだった。
私は彼の服の裾を無意識に握りしめる。彼は何も言わず、ただ私の手を、彼自身の大きな手で包み込んでくれた。
やがて、ひときわ大きく、そして古びた石造りの建物の前に辿り着いた。
入口の上には、交差した剣と盾をかたどった、年季の入った紋章が掲げられている。ここが、ヴェリディアの冒険者ギルドらしい。
扉を開けると、むわりとした熱気と、汗、安いエール、そして微かな血の匂いが混じり合った独特の空気が、私たちの体を包んだ。
中は、想像を絶するほどの喧騒に満ちていた。
大広間には数え切れないほどの冒険者たちがひしめき合い、大声で酒を酌み交わし、武勇伝を語り、あるいは次の仕事について言い争っている。壁には巨大な掲示板が設置され、そこにはびっしりと依頼書(クエスト)が貼られていた。
「ひどい場所だな、色んな意味で」
彼は、眉をひそめながらも、どこか面白そうに呟いた。
私は、その圧倒的な雰囲気に気圧され、ただ彼の背中に隠れるようにして立ち尽くすことしかできなかった。
彼は、そんな私を気遣うように一歩後ろに下がると、私の耳元で囁いた。
「大丈夫だ。ああいう威勢のいい奴らほど、実力は大したことない。本当に強い奴は、もっと静かに獲物を見定めているもんだ」
彼の言葉に少しだけ勇気づけられ、私は広間を見渡す。
確かに、彼の言う通りだった。酒場で騒いでいる者たちとは別に、いくつかのテーブルでは、静かに、しかし鋭い目で掲示板を眺めている者たちがいる。彼らから発せられる気配は、明らかに他の者たちとは一線を画していた。
「行くぞ」
彼は、私を促してカウンターへと向かった。
カウンターの中には、うんざりしたような顔つきの、赤毛の女性が一人で座っていた。年は二十代半ばだろうか。その目つきは鋭く、これまでに何百、何千という命知らずたちを相手にしてきたのだろう、歴戦の風格が漂っていた。
「……何の用だい。仕事を探すなら、そこの掲示板を見な」
彼女は、こちらを一瞥しただけで、面倒くさそうに言った。
「いや、登録を頼みたい」
彼が、落ち着いた声で答える。
その声に、彼女は初めて顔を上げて、私たちをまじまじと見た。まず、彼の堂々とした佇まいを見て、次に、その背後に隠れるように立つ私に視線を移す。
「……あんたたちみたいなのが、冒険者ねぇ」
彼女は、鼻で笑った。
「お貴族様のお忍びごっこかい? それとも、駆け落ちでもしてきたか? どっちにしろ、やめときな。ここは、あんたたちみたいなヒヨコが生き残れる場所じゃないよ」
辛辣な言葉だった。しかし、それには侮蔑だけでなく、ほんの少しの忠告の色が混じっているのを、私は感じ取った。
彼は、その言葉にも全く動じなかった。
「忠告には感謝する。だが、俺たちには、ここで生きていくしかない理由があるんでな」
彼の真剣な瞳を見て、彼女は少しだけ目を見開いた。そして、やれやれと肩をすくめると、カウンターの下から一枚の羊皮紙を取り出した。
「……後悔しても知らないよ。名前は?」
彼女の視線が、まず私に向けられる。
名前。
その言葉に、心臓がどきりと跳ねた。
もう、「ティナ・エルヴェンス」と名乗ることはできない。私は、ここで新しい名前を得なければならないのだ。
私が答えに詰まっていると、彼が前に出て、滑らかに言った。
「こいつは、ティナだ」
私は、はっと息を呑んで彼を見た。
「風使いの、ティナ。それが、こいつの新しい名前だ」
風使いの、ティナ。
それは、彼が私に与えてくれた、新しいアイデンティティだった。
エルヴェンス家の重荷も、禁術使いの汚名も、そこにはない。
ただ、私が最も得意とし、彼と共に磨き上げてきた、風の力だけが、私を証明する。
胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
「……ティナ、ね」
赤毛の受付嬢は、羊皮紙にその名前を書き付けた。
「あんたは?」
今度は、彼女の視線が彼に向く。
すると、彼はこともなげに、こう言った。
「俺は、こいつの従者だ。名前は……そうだな、今はまだ、ない」
「……は?」
受付嬢が、素っ頓狂な声を上げた。
私も、隣で目を丸くする。
従者? あなたが、私の?
「あんた、自分が何を言ってるか分かってるのかい? 見たところ、あんたの方がよっぽど手練れだろうに」
「色々あってな。俺は表に出るより、裏でこいつを支える方が性に合ってるんだ」
彼は、そう言って悪戯っぽく笑った。
受付嬢は、呆れたように、しかしどこか面白そうにため息をつくと、羊皮紙に「ティナの従者、名無し」と書き加えた。
その時、私の頭の中は、パニックと、恥ずかしさと、そしてどうしようもないほどの喜びで、ぐちゃぐちゃになっていた。
彼は、私を立てるために、自分は影に徹すると、そう言ってくれているのだ。
対等な“相棒”だと言ってくれた彼が、ここでは私の“従者”を名乗ってくれる。
その、不器用で、あまりにも彼らしい優しさに、私の心は、どうしようもなく締め付けられた。
「……ま、変な奴らはいつものことか」
受付嬢は、登録用紙を棚にしまいながら言った。
「最後に、簡単な実技試験をやってもらうよ。あんたたちが、最低限自分の身を守れるだけの力があるか、見させてもらう。奥の訓練場へ行きな」
私たちは、彼女に案内されて、ギルドの裏手にある訓練場へと向かった。
そこでは、すでに何人かの冒険者が、汗を流しながら木人や的を相手に訓練をしていた。
「さて、風使いのティナちゃん」
受付嬢が、面白がるような目で私を見る。
「あんたの風、見せてもらおうか」
私は、一度だけ、隣に立つ彼を見た。
彼は、ただ静かに、力強く頷いてくれる。
大丈夫。
私は、深呼吸を一つすると、訓練場の隅に設置された、三つの的を見据えた。
私は、右手をそっと前にかざす。
そして、三つの小さな風の渦を、同時に、指先から生み出した。
それは、修行で何度も繰り返した、精密な魔力操作。
三つの渦は、それぞれが独立した意志を持つかのように、複雑な軌道を描きながら、三つの的の中心へと、寸分違わず吸い込まれていった。
的が倒れる派手な音はしない。ただ、的の中心に、風が抉った小さな穴が、静かに空いただけだった。
訓練場にいた冒険者たちの喧騒が、一瞬だけ止まった。
受付嬢の、面白がっていた目が、驚きに見開かれている。
破壊力ではなく、その圧倒的なまでのコントロールの精度に、彼女は目を見張ったのだ。
「……なるほどね」
彼女は、満足そうに頷いた。
「あんたは、合格だ。で、そっちの“名無し”の従者さんは、何ができるんだい?」
すると、彼は一歩前に出て、静かに言った。
「俺は、彼女を“勝たせる”ことができる」
彼は、私に向き直ると、小声で、しかしはっきりと指示を出した。
「ティナ、今度はもっと速く。右の的から、Zの軌道で、三つ同時に撃ち抜け」
彼の指示は、的確で、迷いがない。
私は、彼の言葉を信じて、再び風の渦を生み出す。
言われた通りの軌道で、風は的を穿った。その速度は、先ほどよりも明らかに速い。
「……これが、俺の仕事だ」
彼は、受付嬢に向かって、静かにそう告げた。
彼女は、呆気に取られたように、私たちを交互に見ていたが、やがて、声を上げて笑い出した。
「はっはっは! 面白い! あんたたち、最高に面白いじゃないか!」
彼女は、腹を抱えて笑っている。
「分かった、分かったよ! 二人とも、文句なしの合格だ! こんな面白いコンビ、久しぶりに見たよ!」
こうして、私たちは、二枚の銅板でできた、真新しいギルドカードを手に入れた。
そこには、「風使い ティナ」そして「従者 名無し」と、無骨な文字が刻まれている。
これが、私たちの新しい身分証明。
この混沌の街で生きていくための、最初の武器。
ギルドを出ると、西の空がオレンジ色に染まり始めていた。
握りしめたギルドカードは、まだ少しだけ冷たい。
けれど、私の心は、希望という名の熱で、確かに燃えていた。
「……これから、よろしくね。“ご主人様”」
彼が、わざとらしく、恭しくお辞儀をしてみせる。
「……もう! からかわないで!」
私は、真っ赤な顔で、彼の腕を軽く叩いた。
私たちの間を、夕暮れの優しい風が吹き抜けていく。
名もなき二人の冒険者。
私たちの、本当の戦いは、まだ始まったばかりだ。
次の更新予定
隔日 07:00 予定は変更される可能性があります
推しの悲劇ヒロインを救ったら、俺に依存してきた件 Ruka @Rukaruka9194
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。推しの悲劇ヒロインを救ったら、俺に依存してきた件の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。