第41話 自由都市ヴェリディア

悪夢のような吹雪が嘘だったかのように、空は抜けるような青さに晴れ渡っていた。

洞窟から一歩外へ出ると、どこまでも広がる白銀の世界が、朝日に照らされてきらきらと輝いている。そのあまりの美しさに、私は思わず息を呑んだ。

あれほどの猛威を振るった自然が、今はただ静かに、そして荘厳に、私たちの前に横たわっている。


「……行こうか」

隣で、彼が静かに言った。

その声には、もう昨日までの疲労の色はない。赤い瞳は、山の向こう側、私たちが目指すべき場所を、力強く見据えていた。

私も、力強く頷く。

洞窟で交わした、言葉にならない約束が、私の心に新たな炎を灯してくれていた。もう、寒さも、疲労も、怖くはなかった。


山頂を越え、下り道に入ると、景色は少しずつその姿を変えていった。

雪の白が、岩肌の灰色になり、やがて凍てついた土が、そして緑の気配が戻ってくる。

吹き抜ける風も、心なしか暖かみを帯びてきたように感じられた。

そして、山脈を完全に下りきり、広大な平原へと足を踏み出した、その時。


私たちは、それを見つけた。


地平線の向こう、陽炎のように揺らめく、巨大な城壁。

そこを中心として、無数の建物が、まるで城壁から溢れ出したかのように密集している。

あれが、自由都市ヴェリディア。

王国の支配も、教会の権威も及ばない、無法と自由が混在する、辺境の都市。


「……着いた……!」

思わず、声が漏れた。

長かった。本当に、長かった。

王都を追われ、森を抜け、荒野を渡り、極寒の山脈を越えて、私たちはついにここまで辿り着いたのだ。

安堵からか、膝ががくりと震える。

隣で、彼が私の肩を、ぽんと軽く叩いた。

「ああ、着いたな。……よく頑張った、ティナ」

その労りの言葉が、私の心にじんわりと染み渡っていく。


都市に近づくにつれて、その喧騒が肌で感じられるようになってきた。

街道は、様々な格好をした人々でごった返している。

屈強な傭兵、怪しげなローブを纏った魔術師、荷物を満載した隊商、そして、身なりの良い商人。

人種も様々だった。人間だけでなく、獣の耳を持つ亜人や、背の低いドワーフらしき姿も見える。

王都の、均整の取れた美しい街並みとは、まるで違う。

そこにあるのは、混沌とした、けれど力強い、生きるためのエネルギーそのものだった。


「……すごい……」

私は、その圧倒的な光景に、ただただ目を奪われた。


「ここは、あらゆる流れ者が集まる場所だ」

彼が、私の隣で説明してくれた。

「国を追われた罪人も、一攫千金を夢見る冒険者も、誰にも言えない過去を持つ者も……。この街は、その全てを受け入れる。だが、それは優しさじゃない。この街のルールは、たった一つだけだ」


彼が、都市の巨大な正門を指差す。

その門の上には、錆びついた鉄板に、こう刻まれていた。

『――己が身は、己で守れ』


「……ここでは、誰も助けてはくれない。自分の身分も、過去も関係ない。ただ、力と、知恵と、そして金を持つ者だけが、生きていける。……俺たちにとっては、好都合な場所さ」

彼は、そう言って不敵に笑った。


私たちは、他の旅人たちに紛れて、ヴェリディアの正門をくぐった。

門番は、私たちの顔を一瞥しただけで、何も言わずに通してくれた。お尋ね書きは、まだこんな辺境の都市までは届いていないのかもしれない。あるいは、届いていたとしても、この街では、そんなものは何の意味も持たないのかもしれなかった。


街の中は、想像を絶する混沌に満ちていた。

香辛料の匂い、酒の匂い、そして微かな血の匂いが混じり合った、むせ返るような空気。

建物の壁には、意味不明な落書きが描かれ、路地裏からは、怒声や、怪しげな笑い声が聞こえてくる。

すれ違う人々の目は、誰もが鋭く、他者を値踏みするように光っていた。


私は、無意識のうちに、彼の服の裾をぎゅっと握りしめていた。

そんな私を見て、彼は苦笑した。

「大丈夫だ。堂々としていろ。怯えていると、すぐに悪い奴らに目をつけられるぞ」

彼はそう言うと、私の手を、今度は彼自身の手で、力強く握り返してくれた。

その温かさが、私の恐怖を少しだけ和らげてくれる。


私たちは、まず、宿を探すことにした。

といっても、私たちが泊まれるような、清潔で安全な宿屋など、この街にはほとんどないだろう。

彼が選んだのは、大通りから一本外れた、薄暗い路地にある、小さな木賃宿だった。

「“眠る梟亭”」と書かれた看板が、今にも落ちてきそうに傾いている。


宿の主人は、片目に眼帯をした、いかつい大男だった。

彼は、私たちを一瞥すると、面倒くさそうに言った。

「部屋は一つしか空いてねえぞ。二人で使うなら、銀貨三枚だ」


「……えっ」

部屋が、一つ。

その言葉に、私の思考が停止する。

彼と、同じ部屋に……?

顔が、カッと熱くなるのが分かった。


「……それで、いい」

彼は、私の動揺など気にも留めない様子で、懐から銀貨を取り出し、カウンターに置いた。

「二泊、頼む」


主人は、銀貨を乱暴に掴むと、一本の錆びた鍵を放り投げてきた。

「二階の突き当たりだ。騒ぎを起こすなよ。死体は自分で片付けろ」

物騒な忠告と共に、私たちは二階へと上がった。


部屋は、想像通り、狭くて、薄汚れていた。

小さなベッドが一つと、埃をかぶった机が一つあるだけ。窓からは、隣の建物の壁しか見えない。

けれど、吹雪の洞窟や、雨の森で夜を明かしてきた私たちにとっては、これでも天国のような場所だった。

少なくとも、屋根と壁があり、雨風を凌ぐことができるのだから。


荷物を置き、ようやく一息ついた時、私は、先ほどの言葉の意味を、彼に問いただした。

「……あの、どうして部屋が一つだって言われて、平気だったの……?」


すると彼は、きょとんとした顔で、私を見た。

「……何がだ?」


「だ、だから……! その……男女が、同じ部屋に……!」

私が、顔を真っ赤にしながら言うと、彼はようやく私の言いたいことを理解したようだった。

そして、少しだけ呆れたように、ため息をついた。


「……ティナ。俺たちは、お忍びで旅行に来た貴族のカップルじゃないんだぞ」

彼は、私の額を、指で軽くこつんと小突いた。

「俺たちは、国中から追われる、逃亡者だ。いつ、どこで、追手が現れるか分からない。別々の部屋で寝るなんて、そんな危険な真似ができるか。何かあった時、すぐに対応できるように、常に一緒にいる。当たり前のことだろ?」


その、あまりにも正論な言葉に、私はぐうの音も出なかった。

確かに、その通りだ。

一人で勝手に意識して、舞い上がっていた自分が、急に恥ずかしくなる。


「……ご、ごめんなさい……」


そんな私を見て、彼は、また悪戯っぽく笑った。

「……それに」

彼は、少しだけ声を潜めて、私の耳元で囁いた。

「君みたいな可愛い子を、こんな物騒な街で一人にしておけるわけがないだろ?」


「―――っ!!」

その、不意打ちの言葉に、私の心臓は、今度こそ本当に飛び跳ねた。

顔から火が出そうになり、私は何も言えずに、ただ俯くことしかできなかった。

彼は、そんな私の反応を楽しんでいるかのように、愉快そうに喉を鳴らした。


この街は、危険と混沌に満ちている。

けれど、この人と一緒なら、きっと大丈夫だ。

そんな、根拠のない確信が、私の胸に宿っていた。


私たちは、この自由都市ヴェリディアで、新たな生活を始める。

それは、情報を集め、力を蓄え、いつか王国に、そして私たちを陥れた者たちに、反撃するための、長い長い戦いの始まりだった。

まずは、この街で生き抜くことから。

偽りの身分を名乗り、名もなき二人として、私たちは、この混沌の街に、最初の一歩を、確かに踏み出した。

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