第8話 龍の決闘

8- 龍の決闘


ジュナは訓練場を一望できるむき出しの螺旋階段を、足音を忍ばせて慎重に降りた。

周囲の視線をやり過ごすように、特異な材質で造られた灰色の壁に目を移す。


訓練場の壁には、細い赤い筋が生きた血管のように表面を這い、全体を覆っていた。一見、均一な幅を保っているが、よく見るとかすかに太さが異なっている。そのせいか、壁が血を巡らせるかのように絶え間なく循環し、冷たい灰色の中でわずかに生命が息づいているような、不気味な生々しさがある。


この壁材は『龍牢』と呼ばれ、大砲の砲弾が撃ち込まれたとしても衝突した痕跡は一切残らず、完全な状態を保ち続けることができる。その卓越した堅牢さゆえ、『龍牢』は龍の子が力を制御するための訓練場に用いられている。龍の力が暴走しても、避難に必要な時間は稼ぐことができる。


(終わりが近い……か。胸が重いな)

最後の段を踏み終えたジュナは、視界がぐらつくような緊張に襲われながらも、謝意を示すべき教師を探して周囲に目を走らせた。


だが、そこいたのは学生の龍の子らと、後方に整列する数体の龍造岩δデルタだけだった。彼らは人間そっくりの皮膚と整った顔を持ち、口元の微笑もまた人間そのもの。執事服やメイド服を着ていなければ、人間か人形か遠目では見分けがつかない。



「教師はいない。事情で早めに退室していただいたのだ」


ジュナの困惑した表情を見て判断したのであろう。黒髪に朱の織り込みを施した——王家の血筋に見られる特徴的な髪をした公爵子息テオ・アーリストは青白い顔に微笑を浮かべ言った。


「申し訳ありません。恥ずかしながら先ほどの授業中に僕はその……居眠りをしてしまい、現状をうまく飲み込めていません。ある事情とは、何なのでしょう」


ジュナの質問に、テオの微笑が口元だけにとどまり、目元には冷たい光が宿った。


「寂しいじゃないか!親愛なるジュナよ。同じ学び舎で学ぶ仲間だろ?俺に敬語なんて使ってくれるな。普段通りの、の君でいい。だってそうだろ?わざわざ俺のために入学の儀では機知に富んだ素敵なサプライズを仕込んでくれたのだからな」


「え?」


最初ジュナはテオの言う意味が理解できなかった。だが皆の視線に慣れ落ち着きを取り戻すにつれ、”変煙の儀式”で変煙水晶を黒く変煙した犯人が自分であり、しかもそれが故意によるものだと非難されていることに気づいた。


(違う)

誤解を正そうと口を開いたジュナの前に、テオが神経質そうな細い眉を尖らせて言った。


「慌てふためく姿を見物するのはさぞかし愉快だったろうね?

龍の力を制御するためだけの理由でわざわざ聖都セントラルから辺境地までやって来た俺は、さながらピエロだったろうさ」


乾いた笑いの中からわずかに滲む声の震えは、かえって攻撃性を際立たせ、緊迫感を増幅させた。


ジュナはようやく、周囲の龍の子たちが冷ややかな視線や好奇心に満ちた瞳で見つめてくる本当の理由を理解した。


冷や汗が背筋まで走り、心臓が早鐘のように打つ。


「ここにいる友人たちが見届け人になってくれる」


淡々とした口調であった。

指輪をはめた左手をジュナの前に突き出し、ゆっくり頭を下げる。


見届け人たちは宣言を合図に螺旋階段を中ほどまで登り、手すりに寄りかかって階下にいる二人を見下ろした。


恐怖と緊張がジュナの腹を締めつけ、思わず顔を背けたくなる。


彼らは、証人としてそこに立っているのだ。


激情を抑え込んでいたのだろう、テオの表情には鬱屈した憎悪から解放される瞬間を心の底から望んでいるかのような、一度も見せたことのない晴れやかな笑みが浮かんでいた。


抗議しようと口を開きかけたが、彼の表情に既視感を覚えたジュナは、警戒心の強い子鹿のように、瞬時に口を閉じた。


既視感の正体……それはすぐにわかった。


次期辺境伯としてジュナが正式に公表された夜、下世話な話題に盛り上がる卑しく歪んだ笑みを浮かべ、煤けた琥珀色の液体を呷る母上の虚な目。その光景がテオの笑顔と重なったのだ。


喜劇の仮面の裏には深い悲哀が潜んでいる。


今、彼にどんな言葉をかけても耳を傾けてくれることはないだろう。こういう種類の人間は自分の感情をうまく制御する術を持たない。証拠があろうとなかろうと、彼は決して納得しない——そう直感した瞬間、ジュナの体は無意識に硬直した。



「龍石は使うな。正道を貫き、潔い決闘にしよう」


テオはそう言い捨て、学生服を脱ぎ、ワイシャツ姿になった。


(決闘の申し込みを承認せざるをえない状況を作っておきながら、よくも正道などと口にできるものだ)


唇を噛む力が強くなる。

ここで決闘を断り、自らの力では名誉を取り戻せない『臆病者』と後ろ指を指されることになれば、戦を経て名声を築き上げてきた由緒あるバロバロッサ家の名誉を汚すことになる。


そんなこと、許されるはずがない。

家名を体現する誇るべき兄たちと同じ血が僕にも流れているのだ。


(売られた喧嘩は買ってやる)


自分が怒っていることをテオに知らしめようと、顔を上げて睨みつけたその瞬間だった。


パチン——軽く指を鳴らす音が響くや否や、激しい耳鳴りとともに、全身を砕かれるかのような衝撃が駆け抜ける。


思わぬ痛みに、ジュナは喉の奥から情けない声を漏らし、床に崩れ落ちた。




 ♦︎♢♦︎




「ぐえっ」と、膨らんだカエルが潰れたような声をあげ、床に身を横たえる生意気な下級貴族を見下ろしていると、幾分か溜飲が下がった。


(田舎者風情が俺に舐めた態度をとりやがって)


テオは脱ぎ捨てた学生服を龍造岩δ型《デルタ》に取りに行かせ、螺旋階段でこの決闘を見届ける役目を与えた龍の子らに向き直った。


彼らの顔つきから大体の心情を察することができた。


これで誰を畏れるべきか、脳みその半分が抜け落ちているような連中にも理解できただろう。


テオにとって”変煙の儀式”の惨事を故意に引き起こした犯人がジュナであったかどうかは、さほど重要ではなかった。


だが、あの事件以来、こいつらは公爵子息であるテオ・アーリストよりも、ジュナに対して畏敬の念を抱くことになった。

畏怖の念や、圧倒的な才能・実力を持つ者に抱く敬意を、俺ではなくジュナに向けたのだ。


耐え難い日常だった。

連中は畏れと敬いからジュナに挨拶以上の会話を避けた。

また奴が図書館で多くの時間を費やしていることを知った連中は、何かあるたびに噂を広め、同じ話題にばかり色めきだった。


「水晶が黒く変煙したなんて、聞いたことがありません」


「次はどんなことをなさるおつもりなのでしょう」


「もしかすれば一度も壊れたことがないというあの『龍牢』を打ち破る方法を考えていらっしゃるのかも」


「まぁ!それはさすがのジュナ様といえど、難しいのではありませんか」


「どうかな?バロバロッサ家は戦の才に恵まれた傑物ぞろいと聞いております。不可能とは断言できませんよ」


だが、何より許せなかったのは、お前たちのような道具風情が俺を同類扱いしたことだ。


あたかも友人のように馴れ馴れしく声をかけてきやがって———

「テオ様はどう思われますか?」


堪忍袋の緒が切れた音が、耳奥で鳴った。


(俺はお前たちとは違う。絶対だ)


今日実行に移したのは偶然が重なったにすぎない。ここは王の庇護のもと設立された学院である以上、相手が下級貴族であれ礼節を欠く行動——すなわち龍の子を傷つけるような真似は許されなかった。


だからこそ、こうして決闘という暴力行為が正当化される儀式に持ち込む必要があったのだ。


(どちらが上か、これで思い知っただろう?)


未だ螺旋階段に留る連中を、内心では嘲笑いながら、表向きは爽やかな笑みを浮かべてやった。


そのとき——


「……ひっ、きょう……もの」


床に臥したジュナの唇が動いた。

消え入りそうな声。それでも奥底の芯は揺るがなかった。


その言葉に、勝ち誇ったはずの笑みがほんの一瞬だけ引きつった。


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