スパイ、時々刑事に捕まる
leniemma
*
いつからだろう。
国のサイバースパイとして、追われる身となったのは。
祖国へ帰れる日は、果たして訪れるのだろうか。
白い氷の結晶が、風と共に容赦なく顔にぶつかる。歩く度、靴底の雪の重さが増していく。
歩き疲れ、息切れと膝の痛みから、思わず立ち止まった。
遠くで鳴っているサイレンが耳に入る。
「あっちには行けないな……」
音とは逆方向へと踵を返した先に、大きな革靴が視界の隅に映る。
ふと見上げると、そこには見慣れた刑事の姿があった。
「木村妙子か?」
私の長年の諜報員生活もここまでかもしれない。国へ強制送還か、極刑か。
♢
刑事に誘導され、気がつくと私は署内の取調室に連れられていた。
どこからきたか?何をしていたか?誰と一緒にいたか?——全て黙秘します。
私が答えられる事は、大福とビタミンC入り炭酸ジュースが好物。それくらい。
「岡さんこの人、何も話さないよ」
若い刑事が両手を上げると、のっそりと立ち上がったのは"岡"と呼ばれるさっきの刑事。四十代くらいだろうか。
妙に落ち着いた所作は、刑事としての貫禄と只者ではない空気を纏っている。
「ああ、家族には既に連絡している、じきつくだろう」
「さすが元・公安……」
家族に……?私に家族などいないはずなのに……。
それに元・公安——こいつ、あなどれない。
「トイレに、行かせて下さい」
「トイレ?ああ、一人でいけるか?」
私の要求に若い刑事はあっさりと許可を出す。
「俺がついていく……」
だが岡は、若い刑事を手で制し私の後ろにピタリとついた。
「さすがに、中まではこないですよね?」
「……廊下で待ってるから早く済ませて来い」
岡は眉ひとつ動かさず答えた。
用を済ませ、洗面台で手を洗う。ぼやけた視界の中、ふと自分の手の皺の多さに気がつく。
いつの間にこんな疲れた手になっていたのだろう。私は自分へ労いの言葉をかけた。
トイレから出ると足元の段差に躓き、私は待ち構えていた岡刑事に、飛び込むようにぶつかった。
そのごつごつとした手に支えられた瞬間、気づいた。
金属の擦れるような音——ジャケットの下に仕込まれた武器——軍人のような俊敏な動き。
この男は、いや、この男も……諜報員。
岡をほんの一瞬横目で覗く。
鋭い眼光。じっと観察するように睨みつける眼差し。
これだ。この目は間違いなく諜報員だ。
その瞬間、腕に生温かいものを感じた。
刑事と同じ、四十代くらいの女が私の腕を掴んでいた。
「……誰、あなた……」
刑事か?もしやこいつもスパイ……?
女は無言のまま、掴む力を強めた。
思わず腕を振り解く。
「……おばあちゃん、いい加減家に帰るよ?」
腕の力とは反対に、女性の口調は穏やかだった。
「おばあちゃん……?」
「もうっ。またとぼけちゃって!心配したんだからね」
何を言っている?私はまだ二十五歳だ。
「はあ……お巡りさん、ごめんなさい。母が……何か失礼な事言ってませんでしたか?」
岡刑事はゆっくりと私の顔を覗き込んだ。
「いえ……木村妙子さん?あなた、朝から散歩に行ったっきり帰ってこなくて、娘さん、心配してたんですよ?」
娘……?私が……?おばあちゃん……?
そんなわけ——
横を向いた先の、窓ガラスに映る女性。
ぼやけていて焦点が合うまで時間がかかった。
視界のピントが合った先、そこに写っているのは、しわくちゃの老婆の姿だった。
まさか……これが……私?
頬に当てた手が目に入る。先程と同じ、皺だらけだ。
「お巡りさんいつもすみません。母、最近物忘れが更に酷くなっているみたいで……」
景色がぐにゃり、と歪んだ。
私は誰なのか?諜報員なのか?ただの物忘れ老人なのか?
刑事に謝る私そっくりの娘の声が、遠くに聞こえた。
♢
カタカタカタ——
仄暗い部屋の中
緑色に光るディスプレイの灯りだけが漏れている。
《Enter the Dark Web》
カチッ
「ええ、今送る。やっぱりこの国はチョロいわね」
「え?……もうちょっと大きい声で話してくれない?ああ、どうやって手に入れたかって?」
「——あの岡って刑事から拝借しただけよ。あの男、油断ならなくて大変だったんだから」
耳につけたイヤホンから驚く声が漏れる。
「え?だから大きい声で——コツ?ふふ、そうね……相手を騙すには、まずは自分からって所かしら?」
本当の自分になれる時——それは遠く離れた仲間と話すこの瞬間だけ。
「おばあちゃん?誰と電話してるの〜?」
風呂上がりの孫が部屋の扉を勢いよく開けた。廊下から入るLEDが眩しくて、思わず目を細めた。
「電話?はて?誰だっけ?おほほ」
「またパソコンで遊んで……壊さないでよ?」
孫が訝しげに首を傾げる。そんな孫の手には大福が乗っている。私の好物の。
「……大福……?」
「お母さんが、岡ってお巡りさんに貰ったんだって。おばあちゃんにって。ここ置いとくよ〜」
そう言って監視の役目を終えた孫は部屋を出ていった。
私に?岡刑事から……?
「——ふ。新たな指令、ってことかね」
私は丸々とした大福をかじり、中の暗号を探した。これが私の日常であり、任務でもある。
——祖国へ帰るのはまだ先になりそうだ。
スパイ、時々刑事に捕まる leniemma @laniemma
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