スパイ、時々刑事に捕まる

leniemma

 いつからだろう。

 国のサイバースパイとして、追われる身となったのは。

 祖国へ帰れる日は、果たして訪れるのだろうか。


 白い氷の結晶が、風と共に容赦なく顔にぶつかる。歩く度、靴底の雪の重さが増していく。

 歩き疲れ、息切れと膝の痛みから、思わず立ち止まった。

 遠くで鳴っているサイレンが耳に入る。


「あっちには行けないな……」


 音とは逆方向へと踵を返した先に、大きな革靴が視界の隅に映る。

 ふと見上げると、そこには見慣れた刑事の姿があった。


「木村妙子か?」


 私の長年の諜報員生活もここまでかもしれない。国へ強制送還か、極刑か。



 ♢



 刑事に誘導され、気がつくと私は署内の取調室に連れられていた。


 どこからきたか?何をしていたか?誰と一緒にいたか?——全て黙秘します。

 私が答えられる事は、大福とビタミンC入り炭酸ジュースが好物。それくらい。


「岡さんこの人、何も話さないよ」


 若い刑事が両手を上げると、のっそりと立ち上がったのは"岡"と呼ばれるさっきの刑事。四十代くらいだろうか。

 妙に落ち着いた所作は、刑事としての貫禄と只者ではない空気を纏っている。


「ああ、家族には既に連絡している、じきつくだろう」

「さすが元・公安……」


 家族に……?私に家族などいないはずなのに……。

 それに元・公安——こいつ、あなどれない。


「トイレに、行かせて下さい」

「トイレ?ああ、一人でいけるか?」


 私の要求に若い刑事はあっさりと許可を出す。


「俺がついていく……」


 だが岡は、若い刑事を手で制し私の後ろにピタリとついた。


「さすがに、中まではこないですよね?」

「……廊下で待ってるから早く済ませて来い」


 岡は眉ひとつ動かさず答えた。


 用を済ませ、洗面台で手を洗う。ぼやけた視界の中、ふと自分の手の皺の多さに気がつく。

 いつの間にこんな疲れた手になっていたのだろう。私は自分へ労いの言葉をかけた。


 トイレから出ると足元の段差に躓き、私は待ち構えていた岡刑事に、飛び込むようにぶつかった。

 そのごつごつとした手に支えられた瞬間、気づいた。


 金属の擦れるような音——ジャケットの下に仕込まれた武器——軍人のような俊敏な動き。


 この男は、いや、この男も……諜報員。


 岡をほんの一瞬横目で覗く。

 鋭い眼光。じっと観察するように睨みつける眼差し。

 これだ。この目は間違いなく諜報員だ。


 その瞬間、腕に生温かいものを感じた。

 刑事と同じ、四十代くらいの女が私の腕を掴んでいた。


「……誰、あなた……」


 刑事か?もしやこいつもスパイ……?

 女は無言のまま、掴む力を強めた。

 思わず腕を振り解く。


「……おばあちゃん、いい加減家に帰るよ?」


 腕の力とは反対に、女性の口調は穏やかだった。


「おばあちゃん……?」

「もうっ。またとぼけちゃって!心配したんだからね」


 何を言っている?私はまだ二十五歳だ。


「はあ……お巡りさん、ごめんなさい。母が……何か失礼な事言ってませんでしたか?」


 岡刑事はゆっくりと私の顔を覗き込んだ。


「いえ……木村妙子さん?あなた、朝から散歩に行ったっきり帰ってこなくて、娘さん、心配してたんですよ?」


 娘……?私が……?おばあちゃん……?


 そんなわけ——

 横を向いた先の、窓ガラスに映る女性。

 ぼやけていて焦点が合うまで時間がかかった。

 視界のピントが合った先、そこに写っているのは、しわくちゃの老婆の姿だった。


 まさか……これが……私?


 頬に当てた手が目に入る。先程と同じ、皺だらけだ。


「お巡りさんいつもすみません。母、最近物忘れが更に酷くなっているみたいで……」


 景色がぐにゃり、と歪んだ。

 私は誰なのか?諜報員なのか?ただの物忘れ老人なのか?

 刑事に謝る私そっくりの娘の声が、遠くに聞こえた。



 ♢



 カタカタカタ——


 仄暗い部屋の中

 緑色に光るディスプレイの灯りだけが漏れている。


《Enter the Dark Web》


 カチッ


「ええ、今送る。やっぱりこの国はチョロいわね」


「え?……もうちょっと大きい声で話してくれない?ああ、どうやって手に入れたかって?」


「——あの岡って刑事から拝借しただけよ。あの男、油断ならなくて大変だったんだから」


 耳につけたイヤホンから驚く声が漏れる。


「え?だから大きい声で——コツ?ふふ、そうね……相手を騙すには、まずは自分からって所かしら?」


 本当の自分になれる時——それは遠く離れた仲間と話すこの瞬間だけ。


「おばあちゃん?誰と電話してるの〜?」


 風呂上がりの孫が部屋の扉を勢いよく開けた。廊下から入るLEDが眩しくて、思わず目を細めた。


「電話?はて?誰だっけ?おほほ」

「またパソコンで遊んで……壊さないでよ?」


 孫が訝しげに首を傾げる。そんな孫の手には大福が乗っている。私の好物の。


「……大福……?」

「お母さんが、岡ってお巡りさんに貰ったんだって。おばあちゃんにって。ここ置いとくよ〜」


 そう言って監視の役目を終えた孫は部屋を出ていった。


 私に?岡刑事から……?


「——ふ。新たな指令、ってことかね」


 私は丸々とした大福をかじり、中の暗号を探した。これが私の日常であり、任務でもある。

 ——祖国へ帰るのはまだ先になりそうだ。









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