第3話「魔が差した断末魔」
朝、起きて
──そうだ、学校行ってみよう。
運悪く閃いてしまった。そしてそれを咎める同居人はそもそもいない。
外は黄昏時、登校にはあまりに遅いが、柴胡からすれば起きた時間がこれだからしょうがない。
柴胡は不登校児であった。
本来であれば高校に通っている年齢である。だが、彼女は中学生の頃から学校に通うのを辞めた。ひきこもりとしてこの数年を過ごしていた。
その理由は彼女を取り巻く環境だった。
彼女にとって学校とは、血の匂いがするもの。
どれだけ叫んでも誰にも届かない、孤独の廃墟。笑い声などなく、ただ悲鳴と嗚咽だけが響く場所だった。
痛い。なんで。どうして。そんな声に答えられる人間はなく、教師も逃げ出した。
どうしたら普通に学校生活を送れるのかと訊いても、誰も教えてくれやしない。
出血と冷や汗と悲涙に彩られた青春だった。
これも自分が悪いんだ。自分のせいだとずっと責め続けていた。
今は通信制高校に通っていた。
課題を家でこなし、誰とも会わなければ傷つかない。そう思ったからだ。
だが、通信制高校にも登校はある。スクーリングと呼ばれる登校日が設定されているのだ。
登校しなければならない日はいつか来る。それが今日だと柴胡は予感したのだ。
自分のワガママで一人暮らしをして、あまつさえ希望の高校に通わせて貰っている立場だ。その上で『登校しなくて卒業できませんでした』というのは保護者にも申し訳ない。柴胡は背中を押すつもりで、自分にそう言い聞かせた。
「よーし、やってみよ!」
皺一つない制服に袖を通す。私服での登校も可能だが、登校モチベーションの為にわざわざ買ったものだ。
玄関の
ややあざといハーフツイン。上を向いた睫毛も、肌の調子もいい。昼夜逆転の不規則な生活リズムを送っている癖に、浮腫んでもいない。メイクには慣れてないが、動画を見ながらそれらしく仕上げていた。
仕上がりに満足いったのか、柴胡は頷くと、慣れないブレザーに着られるようにしてマンションの自室から一歩踏み出した。
鍵をかけ、敷地を一歩出た途端、背後に何かが落ちる。ちょうど、トマトを落としたような音。
柴胡は振り向かない。ただ『あぁやっぱり』と思うだけ。
学校までは歩いて十分ほどの距離。入学式で一度通ったきり、地図アプリで何度かなぞっただけの近所はどれも新鮮で、柴胡の目にはどれも輝いて見えた。
単に引きこもりが白昼歩いて、太陽の眩しさに目を焼かれただけかもしれないが、今の彼女には同じこと。普段と違う、家の中にはない情報が津波のように押し寄せて脳内を蹂躙する感覚に酔っていた。
後ろでガラスが砕ける音がする。ややあって、爆発音と絹を裂くような悲鳴。焦げくさい臭いが風にのって、せっかく整えた顔を顰めてしまう。
柴胡は苛立ちを誤魔化すようスマホで『ピーパー』を確認している。推しの配信者は本日配信予定だったかな? そんな不安に駆り立てられていた。そのテキストに溢れたデータを眺め、浮き足立っていた心をなんとか落ち着かせていた。
今日のボイス動画をタップすると、いそいそとワイヤレスイヤホンを取り出す。推しの声をよく聞く為にと、奮発したハイエンドモデルだった。
前から刃物を手にした男が、柴胡の脇を抜け駆けていく。後方から怒号があがるが、イヤホン越しの遠い世界の話。柴胡は気付きもしない。
数分タイムラインを遡っていると学校に着いた。手入れはあまりされていないのか、門からして汚れている。その為か、柴胡の中に感動はあまりなかった。
「まぁ、こんなもんだよねー……」
そのまま玄関へ入る。ここまで登校は入学式以来、実に半年ぶりの快挙である。上履きを置いてあった下駄箱に手を入れると、その細い指に何かに当たる。
「んーラブレター? そんなワケないかー。何この封筒?」
取り出したるは黒い封筒。下駄箱に無理やり詰めたのか、ひしゃげてしまっている。
「ラブなヤツより、なんかデスゲームっぽい?」
柴胡はスンスンと鼻を鳴らすが、死の匂いなどわかるはずもない。するのは真新しい紙の匂いだけ。遠い昔、彼女は子供の頃に行った本屋を思い出していた。
後ろから、吹き出したような笑い声。
柴胡が振り向くと、少女がいた。歳は同じくらい、服装はパンクロリータで学校では見慣れない格好。あー
「あ、ごめんごめん。ラブレターってなんか、調子乗ってるなーって思ってさ」
文面として見れば、挑発にも軽口にも取れるこの言葉。
実際これを言った少女には、因縁をつける気なんてなかったのかもしれない。
ただ少し顔のいい女子が自惚れたことを言っていたから、ほんのちょっと揶揄ってみただけだったのかもしれない。
対人コミュニケーションに疎い柴胡には、その区別はできなかった。それが不運であった。
「ね、人を一番殺してるのって何かなー」
柴胡は語り始める。呪いのように、呪文のように静かに密めく。
「は? なに、急に。ちょっと頭イってる?」
ロリータの少女は不穏当な発言にたじろぐが、柴胡は構わずに続ける。
「病気? 宗教? それとも銃かなー?」
人差し指と親指だけを立て、ピストルを模す。
銃口の照準は、もちろん目の前の無礼者。
「日本に絞ったらまた変わるよねー? やっぱり地震みたいな災害とか? それとも意外と病んでるから電車かなー?」
飛び込みって怖いのによくやるよね、柴胡はまだ続ける。何かが満ちるのを待つように、間を繋ぐように言葉を紡ぐ。
「人だったら誰なんだろーね? 戦国時代の人かなー」
「……何言ってんのお前。付き合いきれな──」
爆発。音に振り向くと、離れようとした少女の背後、ガラス戸が割れる。
突き破ったのは血のついた手。
血濡れの手だけが少女の前に転がる。
「──! っ……!」
作り物めいたそれに、少女は声すらも挙げられず、過呼吸のよう口を震わせる。手と柴胡の顔を交互に見ながら、他は何も見れない。
「あ、外れた。難しいなー狙い撃つの。イライラしてると周りも簡単に死んじゃうんだよね」
対する柴胡は、軽い調子で言ってのける。
この程度の肉片、彼女は見慣れていた。
訳のわからないことばかり言う柴胡に、少女はもう今すぐに全速力で逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。だが、目の前の恐怖から視線も外せず、ジリジリと
それが出口よりも遠ざかるとわかっていても、柴胡の横を通るなんてこと考えたくもなかった。
「あっ」
最期の言葉はそんな間の抜けた声だった。
柴胡に気を取られ、後ろを見ずに下がるものだから、足がもつれた。
そのまま仰向けに倒れ込む──先ほど割られて、突き出したガラスの切先へ目掛けて。
「わっかんないかなぁ。死に近いの。足掻いても無駄だよ」
痙攣する少女を見下ろしながら、遅まきながら答え合わせをする。息はかすかにあるようだが、手遅れだ。
通報したところで、その救急車が事故を起こすか、救急隊員が来た瞬間に天井が崩落するだろう。これはそういう運命である。
「
柴胡の登校拒否が始まった中学時代、いや小学校の頃から片鱗はあったのかもしれない。
初めは可愛いモノだった。クラスメイトがカッターで指を切ってしまったり、せいぜいお調子者が馬鹿をして骨を折る程度。ひょっとすると、単なる事故も含まれていたのかもしれない。
だが、彼女の中でそれは成長していた。
周囲が異常だと認識したのは中学の頃。
修学旅行先で起こった悍ましき
感電死一名。
その他行方不明者五十余名。
重傷者なし死傷者多数という不可解。
尽貫柴胡という異常が花開いた瞬間であった。
頼むから来ないでくれと懇願され、やむなく登校拒否に甘んじて今に至る。
「んー帰ろっかな。やる気なくなっちゃったし」
響く
惨状を作り出しておいて、飽きたから帰る。それは玩具に興味の失せた子供のような仕草で、無邪気な少女の素振りだった。
牙もなく角もない少女。この見えない死を振り撒くこの少女こそが、異端の殺人"鬼"である。
「でもでも、こーんな物騒なお誘いも、自宅ポストに投函してくれないとか。ちょーっと病んじゃうかも?」
小首を傾げるも、それを見られる人間はこの校舎にはもういない。
《断末魔》、尽貫柴胡。
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