第8話 屋上の未遂

 7:12。

 昇降口のガラスは、朝の白さをうすく返していた。

 ユナは靴底の砂を一度だけ落とし、教室へ上がる。黒板の右下は空白のまま。思い出箱のふたの角には、誰かの新しい指の跡がついている。

 机に座ると、合図糸が指をそっと引いた。

「今日は使わない。君じゃなくて、人が埋める日」

「わかってる」

 糸は、返事みたいに一度だけ震えた。


 7:25。

 御影マコが来て、ユナの机に小さな紙片を置く。


7:55—8:05/空白/見届け

「廊下の掲示にも貼る。見える空白は、盾になる」

 マコの声は乾いている。

「新田は?」

「さっき連絡。兄のことで朝は出られない。来られても8:30。——今日は私が“欄”に署名する」

 “欄”という言い方が可笑しくて、可笑しくない。

 ユナは小さく頷いた。


 7:40。

 職員室前。

 担任が鍵束と紙束を持って出てくる。掲示には目撃者欄の紙。

「鍵の受け渡しはここで、見届けの下で行う。電子のほうは7:55—8:05に同期の空白が出る通知が来ているが、こちらは紙と人で埋める」

 担任の言葉は、針に糸を通すときみたいに集中していた。

 マコが、欄に御影とサインを書く。筆圧は強くも弱くもなく、残る方へ傾いている。

 そのとき、内線が鳴り、管理員が担任を呼んだ。

「すぐ戻る。鍵は私が持ったまま。ここで待ってて」

 担任は走る。マコは腕時計を見て、短く息を吐いた。

 7:48。


 7:51。

 父が来た。

 ワイシャツの袖は折り目どおり、靴はよく磨かれている。目だけが、どこも見ていない。

「8:00に約束をした」

 声は低く、滑らかで、句点が冷たい。

 マコが一歩前に出る。

「ここで。職員室前で。見届けの下で話すのが、約束です」

 父の視線が、短くマコをなぞって、ユナに戻る。

「屋上なら、安全だ」

 合図糸が、指で強めに引く。

「ここで。——空白に乗らない」

 ユナは頷いた。声は出さない。出さない声が、今日の針だ。


 7:55。

 電子の時計の空白が開く時間。

 廊下の奥から担任が戻る——その直前、別方向の通路から副校長が現れ、担任に封筒を渡した。

「これ、今すぐ対応を」

 担任はわずかに眉を寄せて、封筒を受け取り、もう一度走る。

 鍵束は——担任の手の中。

 紙の目撃者欄には、御影の名前。

 ユナは、手の汗で紙がよれていくのを見ないように、時計だけを見た。


 7:58。

 階段の方から、小さな金属音。

 誰かがどこかで、別の鍵を使ったような、しないような。

 マコが顔を上げた。

「……誰の?」

 ユナは、息を止める。

 合図糸が指で短く否を送る。

 見に行かない。見るのは、ここ。

 7:59。


 8:00。

 父が前に出る。

「約束の時間だ。安全な場所で、話を」

 ユナは、一歩だけ下がる。

 マコが立ちはだかる。

「ここが安全。——先生が戻るまで」

 父の目に、短い苛立ちの影。

 廊下の向こうで、生徒たちの朝のざわめきがひと塊になって流れる。

 8:01。

 背後の非常扉の向こうで、低い押しの音。

 ユナの皮膚だけが、その音を覚えている。

 昨日、担任が言っていた。「扉そのものも物だ。抜け道がある」と。


 父が言葉を連ねる。

「屋上なら、他の生徒に迷惑がかからない」

 マコの声は、冷たいのに、震えない。

「迷惑を避けたいなら、ここで。目撃者と紙の前で」

 8:02。

 非常扉の方から、今度はわずかな吸気の音。誰かが、どこかの空気を動かす音。

 合図糸が、ユナの指で鳴りたがる。

「使わない」

 ユナは、糸に言う。

 8:03。


 担任が曲がり角の向こうに見え、走ってくる。

 同じ瞬間、非常扉の押し棒がわずかに下がった気配。

 空気が冷えて、匂いが階段の方から流れ込む。

 父の視線がそちらへ吸われる。

「——上で話す」

 言葉は決定の形で、返事を待たない。

 父が非常扉の方へ足を向け、ユナは反射的に追う。

 マコも、一歩遅れて追う。

 担任の声が背中に届く。

「待ちなさい!——御影、見届けて!」

 8:04。

 空白の終わりまで、1分。


 階段の踊り場は、風の匂いが強い。

 天井の蛍光灯は、朝には冷たすぎる白。

 非常扉の先の屋上は、空の広い音で満ちている。

 父は、扉の前で一瞬だけ振り向き、「安全だから」と言い、先に出た。

 ユナは、その背中に向けて何も言わず、扉の金属の縁を握らないで通る。

 マコが後ろで、ポケットの白いチョークを握りしめる気配を作る。

 8:05。

 空白が閉じる。

 でも、閉じる前に始まったことは、閉じない。


 屋上は、風が強く、柵の向こうに朝の街が横たわっている。

 グラウンドの緑は遠く、体育館の屋根は浅い。

 父は、屋上の中央の白線のところで立ち止まり、ユナを振り向いた。

「——話をしよう」

 その声の句点の冷たさが、ここでも消えない。


 マコが、ユナの肩に触れずに、横に立つ。

「ここでも、見届けはする。紙がないから、目で」

 父は、苦く笑う。

「目は、人のほうが曖昧だ」

 合図糸が、ユナの指で一度だけ鳴る。

 ユナは、言葉を選ぶ。

「——私、二重にしてきた。箱とUSB。鍵と目撃者。散歩と首輪。今日のぶんは、二重にしてきた」

 父は首を傾け、しばらく黙り、そして言った。

「俺には、何も相談がない」

 声が、少しだけ高くなる。

「俺の家で、俺が空白の外にいる」

 ユナは、息を吸って吐いた。

「空白は、使えるから。——使われないように、見えるところに置くために」

 言葉は、針に通った糸みたいに細いが、切れてはいない。


 風が、マコの髪を吹き上げる。

 マコは、短く言う。

「今日のぶん、ここで終わらせない」

 父が一歩、近づく。

 柵は、遠いのに、近い。

 空は、広いのに、狭い。

 ユナの足裏が、コンクリートの目地を捉え、踏み直す。

 そのとき——マコの靴底が、目地の縁の砂に乗った。

 重心が、半歩、外へ滑る。

 白いチョークが、指から落ちる。

 時間が、いつもの癖で遅くなる。


 合図糸が、ユナの指で叫ぶ。

 イトコが、視界の端で薄くなる。

「命寄り。——置き換える」

 声は、決定の温度。

 ユナは頷かない。頷く間もない。

 イトコの黒目が一瞬だけ無色に近づき、空気の縫い目が一度だけ音を立てた。

 マコの体の重心が、半歩、内側へ戻る。

 戻る衝撃で、ユナの肘に当たる。

 ユナの足元の目地が、別の目地にすり替わったような感覚。

 世界が半目になって、遠近がずれる。


 ユナは、落ちなかった。

 落ちなかったが、落ちたのと同じだけ、内側が割れた。

 割れ目に、朝の風が入り、痛みが冷える。

 父の声は、すぐ近くで、すごく遠い。

「見ただろう。——危ない」

 マコは、息を整えながら、柵から二歩離れ、ユナの横に戻る。

 白いチョークは、床に転がって、止まった。

 合図糸は、ユナの指で細くなった。

 イトコの表面は、一刷毛ぶん、色が抜けている。


 8:07。

 空白は閉じ、担任が屋上に入ってきた。

 顔色は悪くないが、遅れの色が混じっている。

「ここでは話さない。職員室で。見届けの下で」

 担任の声は、広い空に負けない太さを持っていた。

 父は、短く舌打ちにもならない息を出し、視線を逸らした。

 そして、何も言わずに扉へ戻った。

 足音が、階段のほうへ消える。

 風だけが残る。

 風は、何も見届けない。


 屋上に、静音が降りる。

 ユナは、膝が笑う感覚を、久しぶりに思い出す。

 笑うと言っても、面白くない。止まってくれないという意味だ。

 マコが、床の白いチョークを拾い上げ、ユナの手に渡さないで、ポケットにしまった。

「今日のぶんは、まだある」

 短い言葉。

 ユナは頷く代わりに、合図糸を軽く引いた。

 返事は来る。——遅い。

 イトコの声は、かすれている。

「−……55%くらい。正確じゃない。重心置換は、消耗が大きい」

「残りは」

「ひと桁」

 ユナは、数字を飲み込む音を、喉の奥で聞いた。

 巻き戻しは、ほとんど不能。

 やり直すという言葉が、遠くで紙みたいに薄くなる。


 保健室。

 水。

 カーテンの白。

 マコは外で、担任と短く話している。

 ユナは、紙コップの水を半分残して、視線を窓の外に置いた。

 今日は、助かった。

 助かったのに、折れた。

 矛盾は、体にとっては矛盾じゃない。二重であることは、ただの重さだ。


 10:20。

 チャイムが鳴る。

 保健室の先生が「戻れそう?」と訊き、ユナは「戻る」と答える。

 合図糸は、音のない頷きを返した。

 教室に戻ると、黒板の右下は空白。

 思い出箱のふたは閉まり、紙の端が一枚、ふたの内側から少し飛び出している。

 マコが席に戻り、短く言う。

「明日、見届け、増やす。鍵も、紙も、人も」

 ユナは「うん」と言った。声は出た。出たが、どこにも着地しない。


 昼休み、窓際の影は短い。

 新田からメッセージ。


兄、片づいた。遅れてごめん。

屋上、大丈夫だった?

 ユナは、はいでもいいえでもない言葉を探し、**「大丈夫。みんな見届けた」**と打った。

 みんな、は真実ではない。

 でも、見届けがあったのは真実だ。


 放課後。

 担任は、目撃者欄の紙を新しい様式に差し替えた。


受け渡し時刻/受け渡し場所/受け渡し者/受領者/見届け者2名以上

 二名以上。

 担任は、説明を短く済ませた。

「制度で縫えるところは、制度で縫う。——それでも空白は出る。空白に頼らないで」

 教室の空気が、少しだけ動く。


 夕方。

 ユナは一人で川へ行った。

 橋の上から見る。

 砂利の面には、斜線が三本。

 でも、口は開いていない。

 風が、川面を薄く撫でる。

 合図糸が、指で弱く鳴る。

「触らない」

 ユナは言う。

「今日のぶんは、見届けで埋める」


 家に帰ると、リビングのテーブルに反射リード。

 ハルがソファから降りて、足音を控えめに鳴らす。

 ユナは撫で、餌を用意し、水皿を満たす。

 19:03。

 母からメッセージ。


明日、いったん退院。手続きは続行。

 ユナは「わかった。一緒に行く」と返す。

 合図糸が、指で一度だけ頷いた。


 夜、机に向かい、ノートの最初のページを開く。

 そこに、数字だけを書く。


残り糸:ひと桁

巻き戻し:実質不可

埋める:人/紙/時間

 箇条書きは、短い。短さは、繰り返しに耐える。


 書き終えてペンを置くと、合図糸が、そこに視線を置くみたいに静かになった。

 イトコが、窓辺で薄く座っている。

「今日は、助かった。でも、君は折れた。——それは、失敗じゃない。結果だ」

「結果」

「命寄りは、いつも他の誰かの重みを借りる。今日の重みは、君の内側」

 ユナは、窓の外の暗さを見た。

 街灯が、遠くの角を薄く縁取っている。

 合図糸は、そこへ届かない。

 届かないことを知ると、糸は細くなるだけで、切れはしない。

 まだ。


 ベッドに横たわる。

 目を閉じると、屋上の風と、チョークの落ちる音と、父の句点が順番を入れ替えながら現れては去る。

 助かった。

 折れた。

 どちらも今日。

 今日のぶんは、終わった。

 明日のぶんは、まだ空白。

 空白は、使われもするし、守られもする。

 どちらになるかを決めるのは、人だ。

 ——糸じゃない。


 眠りに落ちる直前、スマホが短く震えた。

 新田。


明日、二名以上の見届けで橋の上。担任も呼ぶ。

大丈夫、やることは数字。

 ユナは「うん」と返し、送信を押す。

 指にかかった合図糸は、ひと針ぶんだけ、その返事に温度を足した。


 夢の中で、屋上は音のない空になり、砂利の面は口を開かないまま、斜線だけが増えたり減ったりした。

 重心はいつも、あと半歩のところで置き換わる。

 目が覚めても、置き換わったものは元に戻らない。

 それでも、見届けるための手順と数字は、明日のページに残る。

 紙は、眠らない。


 朝は、いつも通りに来る。

 終わりは、いつも通りには来ない。

 ユナは、その間にある数日を、二重に重ねる準備を静かに始めた。

 誰にも気づかれない帳尻の付け方で。

 糸は薄い。

 でも、まだある。

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