第28話 死にゆく僕が君に遺すもの

遠くの空で、サイレンが唸った。

 それを追うようにして、一台の車が海岸沿いに姿を現す。パトカーが停まり、中から警官とジャージ姿の男が勢いよく飛び出してきた。


「ここです! お巡りさん!」

 男は慌てたように、砂浜の方を指さす。


「ジョギングしてたら、アベックが浜辺でイチャついてて……そのときは別に気にしなかったんだけど、よくよく考えたら、男の方が妙に薄着でさ。なんか、只事じゃない雰囲気あったから……」


彼の後ろから、もう一台の車が到着し、そこから女性が二人飛び出してきた。

 千鶴と、つばさだった。


警官が双眼鏡で砂浜を見渡すが、人影は見えない。波の音だけが、規則的に岸を叩いている。

「本当に見たのか?」


「間違いねぇって。髪の長い女の子と、背の高そうな男。二人きりで座ってて、女の子が膝枕してた。夜明け前で薄暗かったけど、ハッキリ見えたんだ」


その言葉に、千鶴がふらつくように浜へと降りた。夜通し、娘を探しても見つからなかった。すがれるものがあるとすれば、ここしかない。


「愛里!! 愛里!!!」

 千鶴の叫びが、波間に吸い込まれていく。


「秀ちゃん! どこに隠れてるの!? 出てきなさい! 許さないわよ!」


つばさも叫んだが、返ってくるのは、ただ波が寄せて返す音だけだった。


「あっ!お巡りさん、コレ!」


男に呼ばれ、警官が駆け寄る。

 そこには、砂浜に残された微かな痕跡。数本のタバコ、乱れた砂の模様、そして――何かを引きずった跡。

 それは、波打ち際へと続いていた。


千鶴とつばさもその場に駆け寄り、崩れるように膝をついた。

 つばさは頭を抱え、地面に額をつける。

「……バカ……あの、バカ野郎……!」


彼女の脳裏に蘇るあの言葉


――ありがとう……母さん……


「そんな言葉で誤魔化されないわよ! 引っ叩いてやるから、出てきなさいよ!!」


つばさは砂を叩きながら、叫んだ。


一方、警官は無線機に手を伸ばし、本部に連絡を取っていた。


「海難救助隊の要請を。男女二名、入水の可能性あり」


千鶴が、ゆらりと立ち上がり、ふらふらと波の方へ歩き出す。

 魂を抜かれたような足取り。手には、愛里の赤いマフラーが握られていた。


「千鶴!!」


我に返ったつばさが、慌てて駆け寄る。


「……あ、つばさ……二人とも、きっと寒かったのよ……」


千鶴は、どこか遠くを見つめながら、微笑んだ。

 そして、波の中へと足を踏み入れる。


「届けてあげなきゃ……マフラー、あの子に……」


「奥さん、危ない! いけねぇよ!」


男と警官が駆け寄り、千鶴の身体を押さえつけて、砂浜へと引き戻した。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

千鶴の呼吸は荒く、喉を震わせるように声を漏らす。

 病院で聞いた、あの言葉が脳裏に蘇る。


――もう一人で歩けるから、大丈夫だよ――


次の瞬間、千鶴が叫んだ。

 それはもはや言葉ではなく、獣の咆哮に近い。喉を裂くような、絶望の叫び。


つばさも、千鶴の肩を抱きしめたまま、声をあげて泣いた。

 母たちの絶叫が、逆巻く波の音をもかき消し、吹きすさぶ冬の風にさえ呑まれず、

 いつまでも――いつまでも、浜辺に響いていた。



エピローグ


静まり返った小さなアパートの一室。

千鶴は、黙々と部屋の掃除をしていた。

どこか懐かしさの残る室内には、今も秀の匂いがわずかに残っている。


「ちーちゃん、今日も来てるのかね?」


ふと、扉の向こうから大家が声をかけてきた。

千鶴は、少しだけ口元を緩め、頷いた。


この部屋は、今では千鶴が契約を引き継ぎ、家賃を納めている。

毎日訪れては、丁寧に掃除をし、窓を開け放つ。

その鉄柵には、いつも新しい花が飾られていた。


愛里の部屋の窓も、もう二度と閉ざされることはない。窓から顔を出した愛里が「お花綺麗だね!」 と、喜ぶ様子を思い浮かべながら。



――ある日の午後。


「よう、ママ。……おっと、洗濯中かい?」


スナックつばさの常連が、階下から声をかけてくる。

つばさは、洗濯物を干しながら答えた。


「うん、ちょっとね。……帰ってきた時、埃だらけじゃ怒られるから」


干されていたのは、秀が愛用していた黒いバンダナ。

その隣には、クリーニングされたバーテンの制服が、柔らかな風に揺れていた。


――あれから、何ヶ月も経った。


警察の捜索は続いたが、二人の遺体は、未だ発見されていない。


だが、母たちは待ち続けていた。

愛する子どもたちに、いつか「おかえり」と言えるその日まで。



   死にゆく僕が君に遺すもの


         完

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死にゆく僕が君に遺すもの りんくま @rinkuma3793

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