第23話 母に、さようなら

総合病院、救急治療室の前。

薄暗い廊下にあるソファに、愛里は一人腰掛けていた。

壁に貼られた「面会謝絶」の紙が、病室の重苦しさを際立たせている。


遠くの廊下の向こうから、二人の女性がゆっくりと歩いてくる。

千鶴と、つばさだった。


千鶴の目は赤く腫れ上がり、何度も泣いた跡が残っていた。

つばさの頬には、鮮やかな赤い痕が浮かんでいる。千鶴の手が、それをつけたのだろう。

すれ違い、隠し通した事への怒りと悔しさが、そこにあった。


愛里は顔を上げ、ぽつりと呟いた。


「……お母さん、つばさママ……秀くん、死んじゃうの……?」


二人は一瞬、言葉を失う。

だが、もう言い逃れることはできなかった。真実は、目の前にある。


「……ごめん……ごめんね……ずっと…言えなくて……」


つばさは俯いたまま、嗚咽をこらえるように肩を震わせた。


千鶴は無言のまま、愛里の隣に腰を下ろす。

愛里は泣いていなかった。ただ、じっと治療室の扉を見つめ続けていた。


「……愛里……秀くん、最後の最後まで、愛里のために……たくさん、たくさん、頑張ってくれたね……」

千鶴はそう言いながら、娘の背中をそっと撫でる。

「……本当にすごい子だった……秀くんに出会えて……良かったね……」


その時だった。


――ガーーーーー……


重々しい音を立てて、救急治療室の自動ドアが開いた。


ストレッチャーが運び出される。

その上には、酸素マスクをつけた秀の姿。目は閉じ、まるで眠っているようだった。

傍らには、黒崎医師と堀内医師、そして数名の看護師たち。


「先生っ! 秀くんは……!?」


千鶴の声に、堀内医師が静かに答える。


「……かろうじて、脈はあります。……一時的に容体は落ち着いたので、これから集中治療室に移っていただきます」


その口調は淡々としていたが、その表情は語っていた。

――希望は、限りなく薄い。


愛里の目は、ただ秀の姿を追っていた。

そこには、絶望でも、混乱でもない。

静かで、深い祈りのような想いだけが、息を潜めていた。

病院の待合室。

愛里、つばさ、千鶴の三人は、まるで魂を抜かれたかのように、ソファに深く身を沈めていた。

言葉は交わされず、ただ沈黙だけがその場を支配している。


やがて、愛里がふと顔を上げた。

その瞳は何処か遠くを見つめるようで、何かを追うようでもあった。

その微かな変化に、千鶴が気づく。


「どうしたの、愛里……?」


愛里はゆっくりと母の方へ顔を向け、微笑んだ。


「ううん、何でもない。…ちょっとトイレ行ってくるね」


「じゃあ、お母さんも一緒に……」


「ううん、一人で大丈夫。もう、一人で歩けるから……大丈夫だよ」


その表情は、あまりに穏やかだった。

それがかえって千鶴の胸に、小さな違和感を灯す。


「……愛里……?」


愛里は手すりに掴まりながら歩き出し、少しだけ振り返って、ぽつりと呟いた。


「……お母さん……つばさママ……ありがとう」


「何言ってるの……? 愛――」


その瞬間だった。

病院の静寂を切り裂くように、鋭い看護師の叫び声が響き渡った。


「先生! 先生!! 集中治療室の患者さんがいません!!」

つばさと千鶴は、反射的に顔を見合わせ、立ち上がった。

――秀の病室だ。


二人は駆け出す。

呼吸を乱しながら集中治療室へとたどり着くと、そこに、秀の姿はなかった。


ベッド脇には、乱暴に引き抜かれた点滴の管が転がり、まだわずかに血が滲んでいた。


「そんな……あんな身体で、何処へ……!」


つばさはその場に崩れ落ちそうになり、ドアの枠にすがりついた。

千鶴も呆然と立ち尽くしていたが、ふと気づく。


「……愛里……? 愛里がいない!」


慌てて待合室に戻るも、トイレに向かっても、愛里の姿はなかった。

どこにも、いない。


「そんな……そんな……!!」


千鶴は声を上げ、半狂乱になって院内を見渡す。

つばさがその肩を掴んで叫んだ。


「車を出すわ!乗って!!」


母親たちの瞳に、恐怖と焦燥と、抗いがたい不安が浮かんでいた。

大切な二人が、どこかで何かを始めようとしている――そんな予感だけが、胸を締めつけていた。

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