第21話 男の盃 愛のカタチ
冬が近づき、吐く息が白くなるころ。
錆びた鉄階段をきしませて、ひとりの男が秀のアパートを訪れた。
がっしりとした体格に、年季の入った革ジャン。階段を登りきると、腰に手を当てて背をぐっと伸ばし、ぼやいた。
「ふへ〜〜、歳かねぇ」
そのままチャイムも鳴らさず、ドアを拳でドンドン叩く。
「お〜い! 秀! 来たぞぅ!」
中からドスドスと足音が近づく。ガチャリと扉が開いた。
迷惑そうに顔をしかめた秀が覗き込む。
「静かに訪ねられねぇのかよ。オンボロなんだから、乱暴に叩くなよな」
「はっはっは! 悪ぃ悪ぃ! それより早く入れろ、寒くてかなわん」
革ジャンの襟を立てながら豪快に笑った男は、我孫子慶一郎。秀の父の元弟子にして、かつての上司である。
促されて部屋に上がると、座布団にドカッとあぐらをかき、ぐるりと殺風景な室内を見回して鼻を鳴らした。
「箪笥のひとつも置いてねぇのか。まるで牢屋だな」
「押し入れがあるし、別にいらねぇだろ」
秀はぶっきらぼうに、ちゃぶ台にビールを置いた。
「……おい、普通、お茶だろ」
「湯沸かすの面倒くせぇ」
差し出されたコップにビールを注ぎ、我孫子は喉を鳴らして飲み干す。その目が秀をとらえ、ふっと和らぐ。
「……まさかお前の方から連絡が来るとは思わなかったよ」
「急に悪かったな」
秀がもう一杯注ぎ足すと、我孫子はボストンバッグを持ち上げて置いた。
「ふんっ…俺を誰だと思ってる?」
中から取り出された布包みを解くと、真新しい義足が現れる。艶のある金属と、精巧なシリコン製の接合部。
秀の手が震える。まるで赤子を撫でるように、義足の表面をそっとなぞった。口元は綻び、その瞳には、これまでにない光が宿っていた。
「……お前…本当に……あの女の子のために……」
我孫子の脳裏には、黒崎医師から見せられた幼い少女のカルテと写真が浮かんでいた。どんな関係なのかは知らない。だが今の秀を見れば、詮索するのは野暮だと思えた。
精神病院から引きずり出したときや、工場で、喧嘩に明け暮れていた頃とは別人のように、穏やかな顔をしている。
——あの少女が、そうさせたのだろう。
我孫子は目を細めた。
秀は、義足に目をくれたまま、我孫子に言った。
「そこの押し入れに金がある。……足りるか分からないけど、必要分、取っていってくれ」
開けると、パンパンに膨らんだスポーツバッグが詰まっていた。チャックの隙間から、札束がのぞいている。
「お前……こんなに……よく……」
「足りねぇか?」
「馬鹿野郎! 足りねぇなんてことあるか!」
思わず叫んだ声が震え、我孫子は拳をぎゅっと握った。
「……身体は大丈夫なのか? 倒れた事があるって聞いてるぜ。ちゃんと食ってんのか」
「ああ、それなりに食ってる。なんてことねぇさ」
秀は立ち上がり、我孫子に向かって深く頭を下げた。
「……それより世話になった。家賃も……ずっと……金が貯められたのも、そのお陰だ。ありがとう。……オヤジさん」
顔を上げ、ぎこちない笑みを浮かべる。
その笑みには、我孫子の知れない、深い覚悟のようなものが滲んでいた。
我孫子の顔がぐにゃりと歪む。
「なんだ……お前……笑った顔、ブサイクだな」
それは、精一杯の照れ隠し。
「言うな。慣れてねぇんだ」
「うへ……うへへ……やっと……やっと……人間になったんだな……お前…」
我孫子は笑いながら、頬に伝う涙を拭わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます