第17話 惨劇の後、君と涙が乾くまで
「地獄へ道連れよ――!!」
鋭い声と共に、刃が胸元へ向かって振り下ろされた。
「――――っ!」
秀は、息を呑むようにして飛び起きた。布団の上で荒く肩が上下する。胸を押さえる手は微かに震え、顔にはまだ悪夢の残滓が色濃く漂っていた。
ここは、自分のアパートの一室。白んだ天井、薄暗い照明、少し湿った空気。現実だ。
「……いって……いてぇ……」
肩にそっと手を添え、顔を顰める。――そこにはまだ、あの夜の痕跡が残っていた。璃子に刺された傷。病院で縫合され、数日で退院はできたものの、完治には至っていない。今でも鎮痛剤なしでは、満足に眠ることさえできなかった。
静かに布団を抜け出し、裸足のままふらりと立ち上がる。台所の方へ歩き、コップを取り出して水を注いだ。薬と共に流し込む冷たい水が、喉の奥を通り過ぎる。
空になったコップを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……何か、食わねぇとダメか……」
冷蔵庫の音だけが静かに響く部屋で、秀はしばらくその場に立ち尽くしていた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。間髪入れずに、軽やかなノックの音が続く。
「秀くん? 千鶴ですけど、起きてる?」
「あ…はい」
返事をしながらドアを開けると、そこに立っていたのは千鶴だったが、その背におぶさっていた少女が先に口を開いた。
「おはよう!」
愛里の明るい声に、秀の口元がふっと緩んだ。しかしすぐに千鶴のほうに視線を向け、少しだけ戸惑ったように尋ねた。
「……あの、何か?」
「お腹空いてると思ってね、色々持ってきたの。怪我、まだ痛いんでしょ?」
手提げ袋からは、いくつかのタッパーの角が覗いていた。
「お台所、借りていいかしら? それと、愛里をお部屋に降ろしても?」
「あっ、じゃあ、座布団に……」
千鶴は愛里をそっと座布団の上に降ろすと、テーブルに手際よくタッパーを並べ始める。和食中心の、温かみのある香りが袋の隙間からこぼれた。
一方、愛里はビニール袋の中をガサガサと探っていた。千鶴は、エプロンを首から掛け、手を洗いながら声をかける。
「愛里、お母さんご飯の用意するから、そっちはお願いね」
「がってんしょうち!」
元気よく敬礼のポーズを決めると、愛里はボーッと立ち尽くしていた秀のTシャツの裾を、ちょんと引っ張った。
「座って!」
「え……あ、ああ……」
「シャツ脱いで!」
「えっ?!」
秀は思わず身を抱き、防御の構えをとった。台所から千鶴が顔を覗かせる。
「秀くん、銭湯行けてないでしょ? 家で蒸しタオル作ってきたから、愛里に拭いてもらって」
「えっ!い、いやいや、良いですよ! べ、別に風呂入れないくらい、その、平気だし……」
秀が慌てる姿に、千鶴は苦笑しながらも、さらりと言った。
「ああ、違うの。あなたが平気かどうかじゃなくて、不潔な状態で娘に近づいてほしくないの」
「え?」
「ん?」※千鶴に悪気はありません
「それとも……私が代わりましょうか?」
小首を傾げ、上目遣いに、幼さを遺す笑顔、それはまるで愛里を映した鏡のようだった。
「う………」
秀は視線を泳がせながら、黙り込んでしまう。
「(ふふっ)じゃあ、身体がサッパリしたら、ここにあるご飯、ちゃんと食べてね」
「お母さん、お仕事遅れるよ?」
愛里の声に、千鶴はハッとしたように反応する。
「あらっ、いけない! それじゃ愛里、お願いね!秀くん、愛里に何でも頼んで良いから!」
「行ってらっしゃ〜い!」愛里が元気よく、送り出す。
慌ただしく、けれどどこか楽しげに、千鶴は部屋を後にした。残された二人の間に、少しの静けさが流れる。
「脱いで! タオル冷えちゃうから、ほら、早く!」
愛里は蒸しタオルを手に、秀の正面でぴしっと姿勢を正す。急かされ、秀は渋々Tシャツの裾を掴む。
「うう……女って、こういうの好きだよな……」
傷が邪魔して上手く脱げず苦戦していると、愛里がそっと近づき、自然な手つきで秀のシャツをたくし上げた。するりと脱がせるその動作に、変な気まずさはない。ただ、静かに優しさだけが伝わってくる。
愛里は膝を立ててくるりと身体を回転させると、丁寧にタオルのラップを外した。その髪は高い位置でひとつに結ばれ、肩先でふわりと揺れていた。
(……いつもと違うな)
ふと視線を落とすと、短めのパンツに素足。見るつもりはなくとも、どうしても目が吸い寄せられてしまう。
「……なに? 秀くん、どうかした?」
首を傾げる愛里に、秀は咄嗟に視線を逸らした。
「いや、髪型……いつもと違うなって」
「ああ、うん、何かする時は結んでるんだ」
「……可愛い」
(似合ってる)
表向きの言葉と、心の声が逆になった。だが、愛里はにっこりと笑って、ペコリと頭を下げた。
「ありがとう!はい、じゃあ首の方から拭くね」
「……あぁ。」「……暖かいな」
タオルが当たる度に、じんわりと熱が肌に染み込んでくる。冷えていた身体がようやく生気を取り戻すようだった。
「拭いたら、ガーゼとテープも変えてあげるね」
「ああ……頼む」
愛里は静かに、丁寧に、秀の肌を拭いていく。首から肩、腕、そして胸元へ。そこに刻まれた傷跡の数々に、愛里の胸が締めつけられる。
(どうしてこんなに、傷だらけなの……?どうして、秀くんは、いつもこんなに…)
刺した人はいったい誰だったの?きっと、知らない人なんかじゃない。知っている誰か――だけど、それを聞くことがどうしてもできない。
「愛里?……どうした?」
ハッと顔を上げると、秀の目が心配そうにこちらを見ていた。
「ううん、何でもない……背中、拭くね」
そう言って、愛里は膝立ちで身体を移動させ、秀の背後に回る。こうして近くで彼の背中を見るのは初めてだった。細くて、筋張っていて、どこか頼りなさを感じさせる背中。愛里は、そこに伸し掛かる何かを見た気がした。
トン…その背に、自然と額が触れていた。
「……え?」
秀が戸惑いの声を上げた。
「……あ……ごめんね……なんだろ? なんだか、悲しくて……」
目から涙が溢れて止まらなかった。ぽたり、ぽたりと、秀の背中を濡らしていく。どんな言葉を尽くしても言い表せない感情が、愛里の中で溢れていた。
「あ、愛里……」
秀はゆっくりと身体をひねり、膝をついた姿勢のままの愛里の華奢な身体をそっと抱き寄せた。肩越しに感じる震え。湿った吐息。温もりの中に、苦しさが滲んでいる。
「なんだよ? なに泣いてんだよ? 俺、何かした?」
問いかけには答えず、愛里は震える声でかすかに呟く。
「なにも……しない……秀くんは……いつも……なにも……」
そのまま、堰を切ったように声を上げて泣き出した。
「うわあああああああ〜〜〜〜ん!」
「ご、ごめん! なんか知んねぇけど、泣かないでくれ!」
秀は慌てて愛里の顔を両手で包み、親指で流れる涙を拭う。濡れた頬はひどく熱く、張り詰めていた想いがどれだけあったのかを語っていた。
「……傷が怖かったか? 無理しなくて良かったんだぞ?」
そう言うと、愛里はフルフルと首を横に振り、あぐらをかいた秀の膝の上に、ふわりと座り込んだ。
「秀くん……こんなに傷だらけなのに……愛里、なにも出来ない……守ってあげたいのに……なんの力もない……愛里なんて、居てもなんの意味もないよ…」
その言葉に、秀の表情が静かに変わる。目を伏せ、深く息を吸い込んだ。
「……じゃあ、俺はなんで今、生きてんだろうな?」
「……え?」
愛里が顔を上げた。赤く濡れた目で、じっと秀を見つめる。
「ずっと……いつ死のうが、どうでも良かった。刺された時だって、あのまま死んでも悔いはなかった。……以前の俺なら」
静かに語られる言葉は、どこか遠くを見ているようで、けれど、確かに今ここにいた。
「“居ても意味ない”だと? 冗談じゃねぇ。二度と言うな」
思わず、秀は愛里の肩を掴んだ。その瞳に、これまで見せたことのない真剣さが宿っている。
「…お前が居るから、生きようと思えたんだ!…そばに居てほしい、それだけでいい。お前が居るから呼吸ができる。傷の痛みにも、孤独にも、恐怖にも、全部耐えられるんだ!」
「秀くん…」
その瞬間、ふたりの距離が音もなく縮まった。秀の唇が愛里の唇に触れたとき、愛里は反射的に彼の首に腕を回し、しがみついた。
熱い唇、交わる呼吸、心音と心音が共鳴するように、強く抱きしめ合った。震えながらも、確かに伝わる。愛しているという、言葉以上のぬくもりが。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
二人は向かい合ったまま、横向きに寝転んでいた。身体と身体の間には、温かな空気だけが流れている。
「……落ち着いたか?」
秀が優しく愛里の髪を撫でると、愛里はゆっくりと頷いた。
「うん……ごめんね、こんなはずじゃなかったのに……」
「謝るな。……まあ、驚いたけど」
愛里は申し訳なさそうに視線を逸らし、唇を噛んだ。
「なんだかね、秀くんの身体を見てたら……どんどん悲しい気持ちになっちゃって。
知らない何かに、ずっと苦しめられてきたみたいな……そんな風に感じたの」
その言葉に、秀の胸がズキリと疼いた。
愛里はまだ、秀の過去を知らない。
己の弱さ、愚かさ、そしてあの日、親友を死に追いやった出来事を——。
麻由子から聞かされた真実。それでも、まだ罪は拭いきれていない。
結城璃子は、今どこで何をしているのだろうか。
そして——もし、愛里が全てを知ったら……彼女は、自分のもとから離れていってしまうのだろうか。様々な想いが秀の中で渦巻く。
それでも。
それでも、彼女の涙に応えなければならない。
それが、愛の証だとするならば。
秀は、ゆっくりと身体を起こした。愛里に背を向けたまま、静かに語り始める。
途切れ途切れの言葉。時折、声が掠れ、消え入りそうになりながらも——彼は全てを語った。
幼い頃のこと。
弱さを隠すために虚勢を張り続けた日々。
そして、那由多の死。
言葉のひとつひとつが、胸を裂くように重かった。
黙って話を聞いていた愛里は、そっと身体を起こし、小さな腕で、傷だらけの背中を包む。何も言わず、ただ抱きしめた。
そのぬくもりが、すべてを受け止めてくれているようで、秀は目を閉じた。
肌と肌が優しく触れ合い、やがて一つに重なるまで、秀の長い長い懺悔は、静かに続いていた。
数日後、秀は職場に復帰した。
肩の傷は殆ど塞がり、日常生活にも支障は無かった。
つばさは、あれだけの大怪我を負ったのに、数日で動き回る秀を「バケモノね」と揶揄しながらも、暖かく見守り、静かな日常が戻りつつあった。
だが――。
結城璃子の行方は、依然として知れなかった。
病院からも、警察からも、何の報告もなかった。
それでも秀は深くは追わなかった。
それが彼女の望みであり、また自分にできる、せめてもの償いだと思ったからだ。
だが、ときおり――
ふとした瞬間に、確かに「何か」を感じる。
たとえば、商店街の喧騒の中、背後の雑踏から誰かの視線を。
夜の帰り道、街灯の下、歩道の向こう側に立ち止まる黒い影を。
それは、敵意でもなく、殺意でもない。
怒りや恨みでもなければ、狂気の匂いすらない。
ただそこに居て、無機質に、じっと此方を「見ている」何か。
彫像のように、魂を持たぬ瞳で。
それが結城璃子なのか――
それとも、ただの秀の幻覚なのか。
確かなことは、何一つ分からない。
けれど、秀はそれに気づくたび、心の奥に、小さく静かに祈るような気持ちを抱いた。
どうか、どこかで生きていてほしい、と。
そして、もう誰も……傷つけずにいられますように、と。
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