第8話 嫉妬
沈黙の空気を切り裂くように、ヴェルナーが低く言った。
「……あの鎌の持ち主とその周辺を調べる。痕跡を辿れば必ず尻尾を出すはずだ」
淡々とした声音にアシュレイザルは僅かに眉を動かした。
自分ならば激情に駆られてすぐにでも追跡しただろう。
だがヴェルナーは冷静にまずは確証を押さえようとする。
その揺るぎない姿にまたも劣等感の棘が胸を刺した。
「奴を必ず捕らえねばならない」
応じようとした矢先、ヴェルナーはふと別の話題を切り出してきた。
「ところで……お前、マグナリオ様から跡継ぎの話をされたのか」
核心を突く問いにアシュレイザルの呼吸が一瞬止まる。
今はしたくなかった話題だ。
心の準備も答えを決める時間もまだない。
しかし、嘘をついても無駄だと悟る。
ヴェルナーの目はすでに全てを見透かしていた。
「ああ。補佐官からどうだと言われたが……私はこの件もあるし、まだ内勤の仕事に就くわけにはいかない」
口にしてから、落ち着かなくて仕方がなかった。
ヴェルナーがなんと返事をするのか不安で、この沈黙に耐え切れない気持ちでいっぱいだった。
ヴェルナーはしばし無言のまま、じっとアシュレイザルを見つめていた。
その視線の奥には、彼の思考の深さが透けて見えるようだった。
そして意外な言葉が吐き出された。
「この一件が解決したら、貴様は速やかに補佐官の打診を受け入れろ。そして二度と人間界の現場に出るな」
「……何?」
アシュレイザルは思わず聞き返していた。
ヴェルナーこそマグナリオに忠誠を誓い、最高審問官の座を狙っていると思っていた。
何故、自分からその道を諦め、自分の補佐官就任をすすめてくるのか全く理解できなかった。
「お前が最高審問官になりたいのではないのか。感情を持つ者が上に立てば必ず混沌が訪れると言っていたではないか」
問いかけにヴェルナーは微動だにせず答えた。
「マグナリオ様直々に話があったのなら、私が異論を唱えることはない。マグナリオ様がそう判断したのなら、私はその判断を信じる」
ヴェルナーの言葉には一点の曇りもなかった。
それはマグナリオへの絶対的な忠誠心から来るものであり、そこに嫉妬心は一切存在しない。
対照的に、アシュレイザルの胸の内は荒れていた。
自分はカイエルのことで感情に振り回され、秩序を乱しかけている。
その未熟さを自覚するほどに、唇は苦く歪んだ。
「……私は最高審問官になりたい訳じゃない」
自嘲気味にそう洩らした。
だがヴェルナーはそんな言葉も一刀両断した。
「お前の意見など聞いていない」
ヴェルナーの冷徹な声音がアシュレイザルの言葉を切り捨てる。
「この一件は、海神の加護が絡む重大な規則違反だ。本来であれば貴様を即座に拘束すべきだが……マグナリオ様への忠誠のため、猶予を与えているに過ぎない。だが、貴様がこれ以上感情に振り回されることは許されない」
ヴェルナーの言葉は鋭い刃のように胸を抉った。
「言い訳は許さん。マグナリオ様の権威を守り、貴様が規則外の感情に振り回されるのを防ぐためだ。貴様の感情は秩序を乱す不純物でしかない」
「…………」
「内勤に就き、マグナリオ様のもとで規律を学べ」
アシュレイザルは長い沈黙の後、低く答えた。
「……承知した。この一件が解決すれば私は補佐官に就く。現場に出ることはない」
「その内容で承諾する。約束を違えるなよ」
アシュレイザルとヴェルナーの間で、カイエルの運命に関わる話が当の本人抜きで淡々と進められていた。
それを聞いていたカイエルは、動揺していた。
ヴェルナーが現れてから、アシュレイザルは彼自身の役割に完全に引き戻されてしまったように見えたからだ。
ヴェルナーの言葉はアシュレイザルがこの一件が済めば、自分の元から去るという事実を決定的なものとした。
カイエルは目頭が熱くなり、視界が滲む。
ヴェルナーは、「死神界に戻って鎌の持ち主とその周辺を探る」と言って、冷たい静寂の中に消えていった。
その場に残されたアシュレイザルは、重い足取りでカイエルの方を向いた。
カイエルは既に涙ぐんでいた。
彼の海のような瞳は、裏切られ、絶望を
「嘘つき……やっぱりアシュも僕の前からいなくなるんじゃん」
アシュレイザルはカイエルの涙に戸惑いながらも、理性の鎧を纏った。
「……死神として、職務を果たさなければならない。それに今、ヴェルナーの指示に背けば私はお前から即座に引き離される」
必死に説得を試みるが、カイエルの頑なな表情は揺るがなかった。
「さっき……あの死神と話してるときのアシュは、僕といるときよりずっと楽しそうだった。真面目な顔で、ちゃんと頷き合って……僕のことなんて自分の立場を守るためにどうでもよくなったんでしょ?」
カイエルの言葉はアシュレイザルに突き刺さった。
彼にとってヴェルナーとの会話は「秩序」であり、そこにあるのは「安堵」だった。
カイエルといるのは「混乱」と「戸惑い」だった。
しかし、それは「どうでもいい」という意味では決してなかった。
「……そんなことは――――……」
「せっかく……友達ができたと思ったのに。僕のこと全部無視して話を進めて……僕のことなのに、なんで僕抜きで決めちゃうの」
嗚咽混じりの声。
カイエルはもう堰を切ったように泣き出していた。
「僕のこと……捨てないで……」
カイエルはとうとう感情の制御を失い、泣き始めてしまう。
彼の華奢な肩が震え、その涙は止まることを知らない。
アシュレイザルはその涙にどう対処していいか分からず、完全な戸惑いの中にいた。
彼は死者の魂の涙は見てきたが、生きている人間に自分との関係を求めて泣かれた経験はなかった。
両親に捨てられたカイエルにとって、捨てられるという事はトラウマになっているのだろう。
捨てる、捨てないという観点で考えていないが、カイエルにとってアシュレイザルが現れなくなることは「捨てられる」ということになる。
「ヴェルナーと話すのは職務だ。……あんな形式的な会話のどこに楽しい要素がある」
必死に言葉を探し、吐き出したがカイエルには届かなかった。
「一緒にいて楽しいのは僕だけなの? アシュは……僕と一緒にいても楽しくない?」
涙に濡れた目で、まっすぐに問われる。
その真っ直ぐさに言葉が見つからない。
泣きながらそう言うカイエルに、アシュレイザルは言葉を失った。
その「楽しい」という人間の感情を、彼はまだ知らなかったからだ。
「そんなことは……」
「僕が死んだら……アシュは悲しい?」
その言葉は、アシュレイザルを再び凍り付かせた。
悲しいという感情がよくわからないアシュレイザルは戸惑う。
その問いに対する答えは声にならなかった。
自分でも分からない感情に、口が動かない。
彼は、「悲しい」という感情を自分の言葉でうまく返事できなかった。
その戸惑い、その沈黙こそがカイエルにとって残酷な答えに聞こえたのだろう。
カイエルの表情に、深い失望の影が走る。
「僕のことなんて、アシュにとってやっぱりどうでもいいんだ」
そのままカイエルはアシュレイザルに背を向け、駆け出した。
夜の闇に溶けるように姿が消えていく。
「カイエル!」
アシュレイザルは叫び、手を伸ばした。
だが引き留める言葉が見つからない。
ただ焦りと後悔だけが胸を焼き、足は止まってしまった。
闇夜に消えていくカイエルの背中を、アシュレイザルはただ見送ることしかできなかった。
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