巡り会い

如月六日

読み切り



 雪を含んだ風が、私の頬を冷たく撫でて行く。

 私はコートの衿を立て、かじかんだ手をポケットに突っ込むと、再びトボトボと歩き始めた。

 既に、スーツのズボンもウォーキング・シューズも、踝(くるぶし)まで埋まる雪にすっかりずぶ濡れになっている。本格的な冬はまだとは言え、この時期に雪国に近い山奥の実家に里帰りするにしては、このいかにもサラリーマン然とした服装は、明らかに失敗だった。

 長い都会暮らしで、すっかり故郷の気候を忘れてしまっていたらしい。……いや、あるいは無意識の内に、忘れたがっていただけかも知れない。もしも父の危篤の知らせがなければ、間違いなく、この土地に帰ってくる事はなかっただろう。

 それ程にこの土地は私にとっての鬼門だった。より正確に言えば、苦手なのは両親、殊に母親なのだが。

 実際、私は今でも母が苦手だ。そう、単刀直入に言って、嫌悪してさえいると思う。

 昔はこんな風ではなかった。

 だが、ある出来事があってから、私の中に母に対する拭いがたい負の感情が生まれてしまったのだ。

「……母さん、か……」

 胸の奥に澱(おり)のように溜る重苦しい感覚を自覚すると、余計に気が滅入ってきた。

 私は嫌気を払うように軽く頭を振ると、再び道を踏みしめる足に力を込めた。まだ、村まではかなり距離があるはずだ。ひょっとすると、日が落ちる前に辿り着けないかもしれない。

 私は、多少の焦りと共に歩を早めながらも、いつの間にか、忌まわしい昔日の記憶を手繰り寄せ始めていた。



  *  *  *



 私の生家はその土地の名家だったらしく、広々とした庭と、田舎町にしては随分と立派な構えの屋敷を持っていた。父も母も特に定職をもっておらず、それほど収入があったとも思えないのだが、何故か生活に困窮したことはない。

 むしろ、子供の頃からかなりの贅沢をさせてもらった記憶がある。

 幼い頃、私は今ほど母を嫌っていなかった。

 いや、むしろ、世間一般の男の子に比べても、母親っ子であったと思う。人によっては「マザコン」なる不名誉な呼び方をするだろう。

 覚えている一番古い記憶は、母の背中や胸のぬくもりであり、甘い香りであった。何か嬉しいことや悲しいことがあると、真っ先に母に報告し、賞賛や慰めを求めたものである。

 何時までも年若く美しい母は私の自慢でもあった。私が物心付いたときから、その容姿には全く衰えを見せず、母としての成熟と、少女の清冽さを同居させている希有な人だった。

 隣近所の悪童たちも、母の前では大人しい子犬のようになったものだし、私は、友人たちの羨む声を聞いて、得意満面の笑みを浮かべたものだ。時には悪友たちを家へ招待して母の手料理を振る舞うこともあり、そのおかげか、私は学校生活で苛められるようなことは一度もなかったと覚えている。


 反対に、父親に対する印象は、ひどく薄い。

 都会暮らしの長かったと言う父は、線の細い感じの人だった。父に関しては、どうしても母の付属物としてのイメージが今でも強い。単にいつも二人が一緒にいた、というだけでなく、まるで母の所有物のように片時もその側を離れることを許されず、常に、その行動も母に掌握されていたように見えたのだ。

 そんな父は、なぜか私を避けていたようだった。と言って、嫌われていた、というのでもないらしい。何というか、私に対して引け目があったような感じだった。

 私が母と遊んでいると、その横で、いつもいたたまれないような顔をしていた。時々、父の視線に気づき顔を向けると、そっと顔を背けられたものである。

 子供心にも、父のこうした態度は不思議だった。

 一体全体、父が自分の子供である私に対して、何を気負う必要があったのだろうか? 今でもそれは分からない。聞く機会もなかったし、聞けるような事でもなかっただろう。

 そんな風にいつもひっそりと佇んでいた父だったが、ひとつ妙な癖をもっていた。

 家出である。

 一度ならず、家から忽然と姿を消した事がある。私の覚えているだけでも、三度は繰り返したはずだ。もっとも、その度に結局は帰ってきたので、母も私も取り立てて騒ぐようなことはしなかった。

 一番鮮明に覚えているのは、ある冬の寒い日に雪の降る中、母の目を盗んで家を飛び出した父が、夜中になってひょっこり帰ってきた時の事だ。母は父を叱りもせず、たたきに座り込んだ父を、ただ優しく抱き締めていた。

 そして父はと言えば、母の胸に顔を埋めて嗚咽しながら、確かこんな事を呟いていたように思う。

「………私は、このまま、貴女から逃げられないのか、永遠に…………」

 母はそんな父に慈母のごとき笑みを向けると「あなた。子供が見てますわ。さ、大事なお話は、奥のお部屋で。ね?……・・・」と言って、父を連れていった。

 これは後で気が付いたのだが、大概、そんな事のあった夜は、いずこからともなく母の啜り泣きのような、それでいてどこか甘ったるげな声が聞こえてきた。私がその声の意味する「営み」の意味にに気が付いたのは、かなり後になってからの事だったが、とにかくその翌朝には、父はまた、どこか呆けたような顔をして、母の隣に居たものだ。

 私はそんな様子を見て、これも二人の愛情の形なのだと、それなりに納得していたのである。


 私の母に対する思いが変わったのは、それから間もない頃だった。

 私は───私は母を、あくまで母親として好きだったと思っているし、母も私を息子として愛してくれていると思っていた。

 そう信じていた。

 だが、ある日気が付いたのだ。

 母が私を自分の子供と言うだけでなく、父と全く同じように見ていたことに。父と同じように───つまり一人の「男」として。

 それに気づいたのは、中学2年生のある日のことだった。

 中学生にもなれば、第二次性徴を迎え、異性の存在を気にし始めるものであるし、当然のごとく、私にもそうした兆候が芽生えていた。私の初恋の相手は、荻野 弥生という名の同級生だった。

 母のような美しさはなかったが、ぽっちゃりとした、愛敬のある、笑顔の魅力的な娘だった。田舎町のこととて、変に耳年増まにもなっておらず、純真なところが私の気に入っていた。

 至極まっとうに交際を申し込み、一緒に登下校を始めて一月ほどたった頃、そろそろ母たちに紹介しようと彼女を我が家に招待した。


 そして、あの事件が起こったのだ。


 その日彼女を両親に紹介した後、私達は自室(今の私のワンルーム・マンションよりよっぽど広い!)で音楽を聞きながら、とりとめの無い話をしていた。その頃にはお互いの趣味も大体わかってきていたので、彼女の趣味に合わせた曲と、ムード系の曲をあらかじめテープに編集しておき、懸命になってその手の雰囲気を演出した。

 当時まだ珍しかったCDプレーヤーや、サラリーマンの初任給程度ではとても手が出ないオーディオ機器に目を丸くする彼女に気を良くしつつ、私は”その瞬間”を狙っていた。

 曲の演奏がバラードに移ると、なるべく不自然にならないように彼女との距離を詰め、その華奢な背中にそっと手を回した。はっとこちらを見る彼女を目で制すると、可憐な唇に自分のそれを重ね、すぐに離した。

 初めてにしては、なかなか上手く行ったと思う。

 真っ赤になって下を向いた彼女が実に可愛らしく思え、さてもう一度、と細いおとがい手をやってこちらを向かせたとき。

 がら! と言う音ともに襖が開かれた。

 そこに立っていたのは茶菓子を盆に載せた母だった。廊下にもまるで人の気配がしなかったので、これには正直面を食らった。

 弥生は慌てて私から体を離し、私は私で行き所を無くした手で、頭をかくしかなかった。一瞬の気まずい沈黙の後、彼女は「あの、ちょっとお手洗いをお借りします……」と消え入りそうな声で言うと、ぱたぱたと部屋を出ていってしまった。

 男であれば分かるだろうが、女親にこういった場面を見られるのは、男にとって、何とも気まずい事この上無いものである。私も鼻の頭をかきながら、秘事を見られた照れと、幾分かの非難を込めて母親に言った。

「まいった、なあ。母さん、部屋に入るときには、ちゃんと声を掛けてよ」

 だが、母はそんな私の言葉を聞いていないかのように、ただじっと私を見つめていた。その時、私は生まれてはじめて、母に対する違和感のようなものを感じたのだ。

「春彦さん……そう、もうそんな事に興味をもつ年になったのね?」

「そんな事って……や、やだなあ。僕だって何時までも子供じゃないんだからさあ……。ほら、彼女が戻ってくる前にあっち行っててよ」

 そうやって苦笑しながら母を廊下へ押しやろうとした私の手を、母はそっと握り締めて、私の顔をじっとのぞき込んだのだ。

「春彦さん、女の子の事を知りたいのね? 興味があるのね? いいわ。それなら、母さんが教えて上げます」

「…ちょっ、ちょっ、ちょっと何言ってんのさ。冗談きついよ?」

「いいの。さ、こっちへ来て、全部母さんが教えてあげる。大丈夫、恥ずかしいことなんかないのよ。だって、あなたは───」

 じりじりとにじるよる母に、気が付くと私は壁ぎわに追い込まれる形になっていた。

 そして、半ば恍惚とした表情の母の顔がすっと近づいてくる。その甘い吐息が私の顔に掛かり……。

「やめろよぉ!!」

 私は、ズボンに手を掛けようとした母の手を叩き払い、そう怒鳴った。怒鳴りつけたつもりだったが、実際に私の口から出たのは悲鳴だった。

 ねめつけるような母の視線に、服を通して素肌を隅々まで撫で回されているように思え、たまらない恐怖と嫌悪を感じたのだ。

 ……いや、正直に言おう。

 その時、母の視線による愛撫で、私はまぎれもなく、性的に興奮してさえいたのだ。

 実の母親を性的対象として見る。その禁忌に触れ、私は言い様のない恐怖を覚えていたのだ。

「雪野君?!」

 突然に声をかけられ、私は一瞬心臓が止まるかと思った。声のするほうに顔を向けると、そこにはいつの間にか手洗いから帰ってきた弥生がいた。

「……今、お母さんと……何してた、の……?」

 見られた!!

 今の母の異常な行為を。私の痴態を。

 弥生はそのまま言葉をなくし、呆然と立ち尽くしていた。まずい、何とか誤魔化さなければ。

「あ、弥生ちゃん。い、今の、今の、冗談なんだよ、母さんの。やだなあ、母さん、僕たちをからかわないでよ──」

 だが、すでに、母も弥生も私の声を聞いていなかった。母が、それまで私の見たことのないような冷たい目で、弥生を真正面から見据えていたのだ。

 そして弥生は、まるで伝説にある妖女の犠牲者のように、体を硬直させているが分かった。目が大きく見開かれ、半開きの口元からは、カチカチと歯を打ち合わせる音が聞こえてきた。

 母は、そんな弥生の頬に手を滑らせ、まるで接吻でもするかのように顔を近付けると、弥生のゆで卵の白身のようなような肌を、愛撫でもするかのようにゆるゆると撫でさすっていた。

 気のせいか、弥生の顔に赤みが差し、目も潤んでいるように思えた。

「あなた、可愛らしい子ね。とっても綺麗な肌……。目も、唇も。あなたなら、大概の男の人を満足させられるでしょうね。本当に魅力的。でもね……」

 そう言って母は、私にちらりと視線をよこした。

「でもね、春彦さんはだめ。あなたではこの子を喜ばせられないわ。さ、もうお帰りなさい。そして、二度とこの子に近づかないで。さもないとあなた───あなた、死にますわよ?」

 普段であれば女の子でもとろけすだろう甘い声音は、だが、その瞬間氷の刃の冷たさを含んだものに変わっていた。

 私には、その時の弥生の恐怖がよくわかる。横にいただけの私でさえ、恐怖に身がすくみ、背中を冷たい汗が流れ落ちていたのだから。

「ひっ……──ひっ」

 弥生はがたがたと震え出すと、腰が抜けたのか、突然その場に崩れ落ちた。とっさに弥生を支えようと足を踏み出した私の鼻孔に、すえた臭いが広がった。

 誰でも嗅いだ記憶のある、あの匂い──そう、弥生は恐怖の余り失禁していたのだ。

 私は何とも言えない非現実感の中で、生暖かい液体の中に座り込んだ弥生に掛ける

べき言葉を、それでも何とか探した。

「や、弥生ちゃん、あ─……と、とりあえ着替えを──」

「やっっ!! さ、触らないで!!」

 そう言って私の手を拒絶すると、弥生は、よろけるように立ち上がり、そのまま振り返りもせず、覚束ない足取りで家を出ていった。そして、二度と私の家を訪れることはなかった。

 私はずっと隣に立っていた母が怖くなり、部屋へ逃げ込むと、鍵を閉めた。その日は部屋から一歩もでなかった。


 次の日、クラスで顔を合わせても、弥生は脅えたように私から目を反らすだけだった。なんとも情けないことに、その時の私は、弥生のことは勿論心配していたのだが、それ以上に母とのことが学校中の噂になりはすまいかと、ビクビクしていたのだ。

 だが、不幸中の幸いと言ってよいのか、そう言った事にはならなかった。

 弥生が私を気づかって──と言うより、母を恐れたのだろう。

 それから暫くして、弥生は学校を休み勝ちになり、やがて、どこか遠くの町の学校へ転校していった。その後の消息は聞いていない。


 この頃から私は母と口をきくことが無くなった。


 そして私は、進学希望欄に東京の高校を書き込んだ。とにかく、母の側にいるのが苦痛だったのだ。東京での進学を食卓で両親に話をしたときも、もし反対されたのなら、黙って家を出ようとまで思い詰めていた。

 だが、なぜか母は反対しなかった。むしろ「都会に出て見聞を広めるのはいいことね」と澄ました顔で言ったものである。そして、父は私の希望を聞くと、一瞬何か言おうとしたが、すぐに下を向いてしまい、二度とこの話題には触れなかった。


 こうして私は無事東京の高校に合格して、それ以降こちらで暮らしてきたわけだ。

 母からは時折り手紙も来ていたが、封も切らずに捨てた。そして、そのうちに手紙も来なくなり、私は一抹の寂しさを覚えながらも、それなりに東京生活を楽しんできた。

 恋人も今までに何人かできたが、全て別れ、今は一人身である。勤め先では──自分で言うのも何だが──能力を評価され、同期の中では、まあ出世頭と言っていいただろう。

 波乱のない、順調な毎日が過ぎていった。そんな時「チチキトク、スグカエレ」の電報が届いたのだ。



  *  *  *



 そろそろ日が山陰に隠れようかという頃には、周囲の景色がなじみ深いものに変わってきていた。

 私が東京へ出るとき、両親が見送った坂。かつて悪友達と魚をとって遊んだ小川。

 ここまでくれば、村は本当にあとちょっとの距離だ。

 そう、そして、あの丘を越えた谷間(たにあい)に───だが、そこに村はなかった。

「……え?」

 私は、間違いなく記憶にあるのと同じ道筋を辿ってきたつもりだった。昔溺れかけたことのある沢も、弥生と待ち合わせをした一本杉も、しっかり通ってきたはずである。

 かなり暗くなってきていたのではっきりとは分からないが、地形だって私の記憶にあるのとほとんど変わらないように見える。にも関わらず、村のあるべき谷間には、木立もまばらな雪原だけが広がっている。

「こりゃあ、どういう事だ……」

 道を見失ったとはとても信じられない。何百回と通った道なのだ。今からとって返しても、再び同じ道をたどってくる自信だってある。

 念のために携帯電話を取り出してみるが、圏外のマークがついたままになっていた。こんな山間部には、電波もアンテナも来ているはずもないが。

 しかし、奇妙だ。いくら二十年振りとは言え、こんな田舎町がそれほど面影を変えるとも思えない。確かにそれらしい盆地はあるものの、そこには村どころか一軒の家さえも見えない。

 こんな馬鹿なことがあるか? 多少雪を被っているものの、土地の雰囲気は私の記憶にあるそれと殆ど変わっていない。

 ただ、建て屋だけが全く見えないのだ。この何年かで村ごと何処かへ移動したのか? ダム工事や再開発があったわけでもあるまいし、そんな事はあるまい。

 もしそんなことがあれば、母か連絡があった筈───なんてことだ!!

 そうだ、私は母からの手紙を読まずに捨てていたのだ。恐らく、捨て去った手紙の中に村の移転に関する連絡も入っていたのだろう。

 母としては私がその手紙を読んでいると思ったのではないか? だから電報にも、ただ「カエレ」とだけ記したのかも知れない。

「しまったな……」思わず言葉に出してしまう。

 もとより今夜は実家に帰り付くつもりでいたので、何の準備もしていない。野宿をするにしても、この雪の中どうすればよいのか? 私には登山の経験など無いのだ。

 遭難──嫌な言葉が脳裏に浮かんできた。

 村の移転を知らずにやってきて凍死。これは幾らなんでも恥ずかしすぎる。こんな情けない死に方はさすがにごめんだ。

(今から町へ引き返すか? しかし、いくら何でも星明かりもない状態で山の中を歩き回るのは危険だな……そうだ、確か実家の裏手に、小さな洞穴があったはずだ。あそこで夜明かしくらい出来るだろう)


 この時、私はここが私の村であると言う事を少しも疑っていなかった。何らかの事情で──恐らくは開発がらみだろうが──村が無くなったのだと信じていた。

 こうして十分程も歩くと、かつて私の実家があったであろう場所にやってきた。やはり地形は昔のままだ。

 これなら、洞穴もそのまま残っているだろうと、少し気が楽になる。雪に埋もれて凍死することだけは避けられそうだ。

 その時、私は目の前に一軒だけぽつんと家が建っているのに気が付いた。古びたつくりではあるが、窓のすき間から漏れる明かりが、人の存在を示している。

(? こんなところに一軒屋? それとも、開発工事関係の人間でもいるのだろうか?)

 私は多少の疑問を覚えつつも、とにかくその家の住民に助けを請うことにした。

 洞穴で寝るよりは、間違いなく安全な宿を提供してくれるだろうし、食事と宿の礼に多少の金をつつめば、それほどぞんざいに扱われることもあるまいと思ったのだ。

 そう考えをまとめて玄関に近づくと、引き戸を叩いた。



 どんどんどん。

どんどんどん。

 どんどんどん。


「すいません! すいません! 何方かいらっしゃいますか?!」

「……はい、どちら様でしょうか?」

 少しして戸の中から人の気配がすると、女の声で返事が帰ってきた。

「え~、怪しいものでありません。道に迷ってしまいまして、大変申し訳ないのですが、一晩泊めていただけませんか?」

「まあ。それは難儀なことですね。結構ですわ。どうぞご遠慮なさらずに、泊まっていって下さいな」そう言って引き戸を開けたのは、年の頃が二十前後の、和服を着た若い女だった。

 一瞬、世界が止まったような錯覚がした。

 夜目にも映える白い顔(かんばせ)。伸ばせば恐らく腰にまで達するであろう長い黒髪は、頭の後ろでポニー・テール風に纏められており、濡れたような輝きをもっている。涼しげな目もと、深い知性を感じさせる鳶色の瞳。ふっくらとした赤い唇の間からは、真珠のごとき歯列が覗いていた。

 少女と女の美が、その一身に同居しているかのような美しさだった。

 私は一目見るなり、この娘に参ってしまった。女性経験も恋愛経験も人並みにある私だが、こんな気持ちは初めての事だ。

「あ、私は 雪野 春彦 と申します。雪の野原、四季の春に、海幸彦・山幸彦の彦、です」

「雪野 春彦さんですね? わたくしのことは木霊(こだま)とお呼びくださいな。声が木霊する、の木霊」

「へえ、変わった……あ、いや、美しいお名前ですね。うん、実にあなたにふさわしいです」

「まあ」

 木霊は手で口元を隠すと、たおやかに笑って見せた。細いうなじのおくれ毛が、また何とも言えない艶(つや)っぽさを醸し出している。

 うん、いいぞ、いい。実に私好みの女性だ。

 村の移転も知らずにのこのことやってきたのは失敗だったが、おかげで木霊と知り合えたのだから、人間万事塞翁が馬である。私の運は、とことん強く出来ているらしい。

 私は少し気を良くすると、木霊に招かれるまま戸をくぐった。


 家の中は、外見を裏切らず、ごく質素な古びた田舎造りのものだった。入り口の土間の直ぐ横に座敷があり、その真ん中にある昔ながらの囲炉裏には火が入れられている。他に暖房器具もないため部屋の中は結構寒いが、それでも外に比べれば雲泥の差だった。

 それ以外にはこぶりの箪笥や化粧台がある程度で、今時の若い女性がこれだけの環境で生活しているのは、実に珍しい。何しろテレビや電話さえおかれていないのだ。

 天井の梁からぶら下げられた裸電球が、唯一の家電製品と言う有様だ。

 あるいは、こういう佇(たたず)まいだからこそ、木霊のように古風な趣(おもむき)を残して置けるのかも知れない。

 私は囲炉裏端に座った木霊に招かれると、その左となりに座った。この角度から見る女性の顔が、一番好きなのだ。首筋から背中へ掛けてのラインが、実に美しい。

 木霊は私と目があうと、にこりとほほ笑みながら、お茶を煎れてくれた。

 差し出された湯飲みを両手で抱え込んで熱い茶をすすると、肩の緊張が一気に抜けていくのがわかる。

「春彦さんは、どちらからいらしたのですか?」

 突然の来客、それも得体の知れない男であるにも関わらず、木霊は本当に楽しげな顔で私に質問を投げてきた。その魅力的な笑顔も声も、仕種の一つ一つが私の心に染み入るようで、ますます木霊に対する好感が募っていく。

「はあ、東京から……もっとも、もとはこの土地の人間でして、久しぶりの里帰りだったのですが、村の移転があったのも知らずにのこのことやって来てしまった次第でして」

「移転、ですか?」

「ええ、二十年程前ですが、ここにわりと大きな村があったでしょう?」

「あら、変ですわね? この辺には昔も今も村などございませんわ。一番近い村でも、山を三つほど越えないと……」

 木霊は心底不思議そうに小首をかしげて見せた。

「いや、確かにここに村があったんですよ。私の生まれた村が。幾ら雪で目をくらまされたとはいっても、そう何キロも道を誤ったとは思えません」

 私はいささかむきになりながら答えた。何だか次第に不安になってきたのだ。

「さあ、そうおっしゃられても……。多分、雪化粧でそこかしこが似たような景色になってますから、どこかで道を間違えられたでしょう」

「しかしですね……あ、いや失礼。木霊さんに文句いうことじゃないですね。気を悪くされたら申し訳ない」

「いえ、お疲れになって少し気が立っていらっしゃるのでしょう。お気になさらずに」

 あまり強く反論してこの場の雰囲気を壊すのも嫌なので、とりあえずは疑問を納めることにした。まあ、いいさ。明日になって明るくなれば、ここが何処だかはっきりと思い出すだろう。

「さ、今日はもうお疲れでしょう。床(とこ)を作りますから、ゆっくりとお休みください」

「はあ、じゃあ、お言葉に甘えます」

 こうして私は、木霊の用意してくれた布団に体を滑り込ませた。

 少し離れて木霊の布団も敷かれているのだが、木霊は「寝顔を見られるのは恥ずかしいですから」と、頬を薄く朱に染めて、私との間に半畳程の衝立(ついたて)を置いてしまった。

 出来れば、寝つくまで彼女の美しい寝顔でも拝んでおこうと思っていただけに、私は少々ばつの悪い思いをしながら「お休みなさい」と声をかけた。

 そして目を綴じると、あっという間に意識が暗やみの中に消えていった。


 夜。

 何処からかすきま風が入ったのか、顔に当たった冷たい風で、私は目を覚ました。枕元に置いた腕時計のバックライトを入れると、時刻は深夜の二時を指している。

 ふと、布団の左隣にある衝立に目をやる。

 その向こうには、木霊が同じように布団を敷いて眠っていて、かすかな寝息が聞こえてくる。

「……ん」

 寝返りをうったらしく、布ずれの音とかすかな吐息が漏れてきた。

 その音と声に私の煩悩豊かな想像力が刺激され、とうとう我慢できなくなった。

(木霊とて、私を嫌っている風ではなかった。……ええいままよ。私は運が強いのだ)私はそう決心すると衝立を横にずらし、木霊の眠る布団ににじり寄っていった。

 そして木霊の顔をのぞき込み、そっと声をかける。

「木霊さん……木霊さん」

 すぐに木霊がうっすらと目を開け、少しぼうっとした後、弾かれたように上体を起き上がらせようとする。そんな木霊の肩を軽く押さえると、木霊の左手に自分の右手を重ね、そのまま膝立ちで体をすり寄せた。

「雪彦さん、一体……」

 言い掛けた木霊の口を指で押さえる。決して乱暴にならないように、あくまでもそっとだ。

 こういう時、私は言葉で多くは語らない。あくまでも目で語るのだ。

 私は木霊の目を静かにのぞき込むと、木霊の唇に触れた手を、そのまま頬を伝って首筋へと滑らせた。そうやって頬と首への愛撫を二、三度行うと、静かに自分の思いを訴える。

「……木霊さん、あなたが好きになった。あなたが欲しい」

 微かに潤んだような木霊の瞳が私を捉えている。

 その瞬間、ふと、あるデ・ジャ・ヴュ(既視感)が私の脳裏に浮かんだが、慌ててすぐにそれを打ち消した。


 ───あの女に似ているだって? なんて馬鹿な事を───


 いかんいかん。危うく萎えてしまうところだった。

 そんな私の心の葛藤を知ってか知らずか、木霊は頬に触れた私の手をとると、熱い吐息を漏らしながら睫毛を震わせる。

「ああ、いけませんわ。わたくし、とても情の深い女ですのよ。もし契りを交わしてしまったら最後、あなたを一生に離したくなくなりますもの」

 古風なもの言いが、却って私の情欲に火をつけた。

「構わないさ。私だって、あなたみたいな人となら、一生どころか永遠に一緒にいたいくらいだ」

「……本当に?」

「本当だとも。だから、な、いいだろう?」

 私はもう返事も聞かず、一気に木霊を押し倒した。木霊も覚悟を決めたらしく、むしろ自分から服を脱ぐのに協力した。

 そうやって木霊を一糸まとわぬ姿にすると、その美しさに、思わずため息が出る。

「素晴らしい……」

 そんな簡単な言葉しか出せない。

 まさにこの世のものとは思えない美しさだ。そっと手を這わせると、匂い立つような白い肌は、すべすべとして気持ち良く、それでいて私の掌にぬめるように吸い付いてくる。

 先程は着物のせいで良く分からなかったが、伸びやかな手足とは対照的に、実にメリハリのある体のラインを持っている。

 もはや、自分を抑えておくことは出来なかった。木霊の唇に自分のそれを重ね合わせると、後は本能の赴くままに、突き進むだけだった。


 気怠(けだる)い充足感に浸りながら、天井を見つめていると、二の腕にある木霊の頭部の重みが心地好い。

 これでタバコが切れていなければ最高なのだが。そう思いつつ、たばこの空き箱をクシャリと握り潰す。

 木霊の方はと言えば、こちらも満足気な表情で私の胸に手を這わせている。

「ねえ、春彦さん、先程の約束覚えていらっしゃいます?」

「ん? 一生がどうしたとか言う話かい? ああ、いいよ、約束しよう。君が望むなら、明日の朝、直ぐにでも婚姻届に判を押して役所へ届けよう」

 これは本気だった。

 これだけのいい女には滅多に出会えるものではない。気ままな一人暮らしは出来なくなるが、決して後悔しないだろう。

「わたくし初めてでしたのよ……」

 私はその言葉を聞くと、苦笑しながら木霊の肌に再び手をすべらせた。最前の反応を見ると、とても初めてとは思えないのだが、それを口に出すほど子供でもない。

 今時、結婚まで処女を守らなければならない、等と古い道徳観念を押しつけるつもりは毛頭無かったし、何より私だって人のことは言えない。

 だから口に出したのは、勿論、別の言葉だ。

「そりゃ光栄だな」

「あらいやだ。疑ってらっしゃるのね? 本当に本当ですのよ。間違いなくあなたが初めてですわ、人間の男は……」

「え……?」

 一瞬言葉の意味がわからず、体を起こして木霊の顔をのぞき込んだ。

「本当に、人間の男がこんなに素敵なものとは思いませんでしたわ。それほどお腹も空いていなかったし、このまま生かして帰してあげようか、やはり殺してしまおうか少し迷っていたのですけどね」

 そう言う木霊の声は少しもふざけているようにように聞こえない。

 私はだんだん不安になってきた。

(駄目だ。これ以上言わせちゃいけない。これ以上聞いちゃいけない……)

「お、おい、何を言ってるんだよ?」

(何を言っているんだこの女は? そんな、──じゃあるまいし……)

 気が付くと、木霊が私の目を静かに見返していた。そこにあるのは、深く深く吸い込まれそうな───赤い瞳?!

「こ、木霊さん?! その目は?!」

 思わず後ずさろうとした私の腕を、いつの間にか木霊がしっかりと握り締めていた。その腕から異様なまでのに冷たさが伝わってくる。

 これは、これは、これは生きている人間の体温ではあり得ない!!

 この女は、まさか、まさか……

「あ、そんな、そんな……雪女?」

 とっさに口に出してしまったその言葉を聞き、木霊はくすりと笑って見せた。

「そう、そう呼ぶ者もいるようですわね。でも、心配しないで。あなたをとって食べたりしないから……」

 木霊の手が再び私の胸をなで回す。

「う、うわああっっっ、は、離せえええええ!!!」

 私は、恐ろさに耐えられなくなり、木霊を突き飛ばすと大慌てで服を着て逃げ出した。

「待って、雪彦さん!!」後ろから木霊の声が聞こえるが、私は振り向かなかった。


(なんてこった、なんてこった!! まさか、雪女なんて!! なんで妖怪なんかがこんな所にいるんだ?! それとも気が狂った女だったのか? どっちにしろ、これ以上あの女に関わるのはやばい。逃げなくちゃ、逃げなくちゃ!!!)

 だが、次の瞬間、私は自分の目を疑った。いつの間にか、木霊のうちの前に戻っていたのだ。

「馬鹿な!! 家から真っすぐに歩いて来たはずなのに?!……くそ!」

 慌てて後ろを向いた私のすぐ前に、木霊が立っていた。

 夜目にも白いその貌が、まるで闇夜に浮かぶ生首のように思え、思わず後ずさった。

 その両の瞳がうっすらと赤く輝いて見えるのは、もう気のせいではない。木霊は降り積もる雪をものともせずに私のほうに歩いてくる。良く見ると、雪には足跡がない。何て事だ……やはり木霊は人間ではないのだ!

「あ、あ、やめて、助けてくれ、知らなかったんだ」

 木霊は私の頬に掌を当てると、そっと撫で上げた。

「あう……」

 つつうと頬を流れる薬指の感覚に、腰から背骨を通って脳天まで痺れるような甘い疼きが走り抜け、状況もわきまえずに思わず声が漏れた。

「駄目ですわ、あなた。約束してくださったでしょう? ずっとわたくしと一緒だと。あなたは、わたくしのそばで一生暮らすの。働く必要もないわ。ずっと贅沢な暮らしをさせてあげますから。病気にもさせない、快楽だけを与えてあげる。死ぬこともないのよ。だって、あなたはわたくしの子供として、再び生まれ変わるのだから。そして、またわたくしの前に現れるのよ。この姿が嫌いなら、あなたの好きな形をとってあげます」

 そう言った途端、木霊の顔がある女の顔に変わっていった。

 その顔は! その姿は!!

「そう、これが、あなたの想い人の姿なのね? 私は木霊。人の心の木霊。あなたの心の木霊。この姿は、あなたの心の奥底に秘められた、永遠の女性なのよ」

 その言葉を聞いたとき、総ての疑問が氷解した。

 そうだ。

 この女の雰囲気、誰かに似ていると思ったんだ。この雰囲気は、こいつは、この女は……。

「か、母さん……?」

 そう、木霊の姿は紛れもなく、決して見間違う筈のない、私の母のそれに変わっていた。私は言葉を失い、ただ呆然と木霊を見続けていたが、木霊は気にした風もなく優し気に語りかけてきた。

「ねえあなた、ご自分の村が欲しいのね? ええ、それならこれでいかがです?」

 木霊が軽く手を振ると、確かに今まで何もなかった谷間に、一つ、二つと、家が現れ始めた。

 それぞれの家の窓には明かりがともり、何たることか、そこには囲炉裏を囲んで談笑する親子さえ見えるではないか。そして何より信じられないことに、その村は、間違いなく私の生まれ育った村の姿をしているのだ!!

 間違いない。

 木霊は、この女は、母は、私の村を作り出したのだ。私のために。

 私は呆然と、空を見上げた。しんしんと降り積もる雪が、白い牢獄のように見える。


 木霊はそんな私を見て、慈母のごとき笑みを浮かべると、両手をそっと差し出して、私を招いた。

「さあ、いらっしゃい。わたくしのあなた」

(このままではいけない。父のようになってしまう、逃げなければ……逃げなければ……逃げるんだ……逃げろ……)

 私は恐怖にうち震えながらも、なんとか歩き出した。

 前に向かって。


 そして、木霊の腕(かいな)に優しく抱かれた私の耳の奥で、あの日の父───いや、もう分かっている。あれは私自身の未来の姿だ───の言葉が木霊した。


  ……私は、このまま、貴女から逃げられないのか、永遠に……

                                <了>


―――――――――――――――――――――――――

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巡り会い 如月六日 @KisaragiMuika

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