池の記憶
をはち
池の記憶
序章:静寂のほとり
深い山間にひっそりと佇むその地は、時の流れを拒むように静まり返っていた。
都会の喧騒に疲弊した地引アキラは、父から受け継いだ山林の一角で、涸れた池を見つけた。
淀んだ水面には苔むした石がわずかに顔を覗かせ、もの哀しい趣を湛えていた。
だが、アキラの目には、その荒廃が秘められた美のように映った。
彼は池を甦らせ、傍らに簡素な別荘を建てた。
夏ごとに訪れるその場所は、都会の垢を洗い流す聖域となった。
清らかな水が満ち、鯉が泳ぐ池は、まるで生き物のように、静かに息づいていた。
第一章:邂逅
八月の陽光が、池の水面を鮮やかに染める。
鯉が悠然と泳ぐ姿は、まるで古の絵巻物のように優雅だった。
アキラはデッキチェアに身を沈め、木々のそよぐ音に耳を澄ませていた。
ふと、水面が揺れた。
そこに一人の女が立っていた。名をユキという。
薄絹の衣をまとい、黒髪が風に揺れるその姿は、文明の匂いとは無縁だった。
スマートフォンも装飾品も持たず、ただ静かに微笑む彼女に、アキラは心を奪われた。
「この池、きれいですね」
ユキの声は、澄んだ水の流れのようだった。
「俺が水を引いたんだ。昔は涸れてたけど、こうやって生き返った」
アキラは誇らしげに答えた。
ユキは微笑み、池の縁に腰を下ろした。
「この池には、昔から命が宿っているんですよ」
その言葉には不思議な響きがあったが、アキラは深く考えなかった。
二人は夏の間、池のほとりで語らい、やがて恋に落ちた。
翌年、子が生まれた。娘の瞳は、ユキと同じく透き通るような光を宿していた。
第二章:祝宴
子の誕生を祝うため、アキラの両親が別荘を訪れた。
料理人の佐藤は、庭に溢れる山菜に目を輝かせ、腕を振るう準備を始めた。
「庭のものは何でも使って良い」とアキラの父が言うと、佐藤は山菜を摘み、池の鯉に目を留めた。
子供の胴回りほどもある見事な鯉だった。
「奥さんが妊婦だったことを忘れてた」と佐藤は呟き、持参した刺身用の魚を捨てた。
「生ものは避けて、鯉で滋養のある料理を」と考え、鯉こくと甘露煮を作ることにした。
網に収まった鯉は、暴れることなく静かに水面を離れた。
その鱗は、まるで人の瞳のように光っていた。
第三章:水面の下
夜、祝宴の席が整った。
鯉こくの香りが部屋に漂い、甘露煮が皿に並ぶ。
だが、ユキの顔は青ざめていた。彼女は箸を取らず、ただ池の方をじっと見つめていた。
「どうしたんだ?」アキラが尋ねると、ユキは震える声で言った。
「アキラさん、この池の鯉を…食べないでください」
「どうして?新鮮で美味そうだよ」アキラは笑ったが、ユキの瞳には深い恐怖が宿っていた。
彼女は立ち上がり、池の縁に歩み寄った。
月光が水面を白く照らし、彼女の顔を浮かび上がらせる。
「この池の鯉は…ただの魚じゃないんです」
アキラは訝しげに彼女を見つめた。
「何を言ってるんだ?」
ユキは唇を噛み、静かに語り始めた。
第四章:水面に宿るもの
八百年前、この地に戦火を逃れた貴族の末裔がいた。
彼らは質素な武家屋敷を築き、その庭に池を造った。
屋敷とは裏腹に、池は優美な風情を漂わせていた。
「目立たぬ暮らしでも、せめてこの池だけは雅でありたい」――それが主の願いだった。
その池に棲むのは、近くの湖から来た鯉の精だった。
男を失った集落で、彼女たちは人に化け、落ち武者と結ばれた。
生まれた子は、池に入れば鯉に、陸に上がれば人に戻る不思議な存在だった。
ある夜、野盗の襲撃が屋敷を焼き尽くした。
女たちは池に逃れ、鯉の姿で生き延びた。
だが、焼け死んだ者たちの怨念は池の底に沈み、静かに息づいていた。
「私の母も、姉妹も…あの池にいるんです」
ユキは囁いた。
「私も…その一人」アキラの顔から血の気が引いた。
皿の鯉こくを見ると、湯気の中に女の顔が揺らめく気がした。
佐藤が調理した鯉は、ユキの母か姉妹だったのだ。
ユキは静かに立ち上がり、食卓の鯉こくを見つめた。
「母も、姉も、ここにいる…」
彼女は子をアキラに託し、池へと歩み出した。
月光が水面を照らす中、ユキは振り返り、微笑んだ。
「この池には、命が宿ってるんですよ」
そして、静かに身を投げた。
水が跳ね、波紋が広がる。アキラは動けなかった。
食卓の湯気の向こうに、女たちの顔が揺らめいていた。
彼は腕の中の子を見た。その瞳は、ユキと同じ色を宿していた。
終章:波紋の果て
アキラはそれ以降、池に近づくことをやめた。
別荘は静まり返り、鯉の姿も見えなくなった。
だが、娘の瞳を見るたび、ユキの声が聞こえる気がした。
「この池には、命が宿ってるんですよ」
彼は娘を抱きしめ、都会へ戻った。
池は再び静寂に沈み、まるで何事もなかったかのように佇んでいた。
だが、水面の下には、八百年の記憶が、静かに波打っていた。
池の記憶 をはち @kaginoo8
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