第5話 音大生になって

 私たちに、悩んでいる時間はなかった。

 既に合格していた私立音大の入学手続きの締め切りが翌日に迫っていたからだ。

 多くの私立の音大が、国公立大の発表前に入学金の納付を要求する中、その私立音大だけは翌3月14日に入学手続きの締め切りを設定していた。

 確認のため前もって問い合わせ、当日、入学金を振り込み、その振り込み用紙を持参して手続きをすれば受け付けますとの回答を得ていた。

 私たちは途中の駅で夫を乗せ、その車中で緊急家族会議を開催した。

 その結果、息子は先生の助言を信じ私立音大に入学することに決めた。

 国立の数倍もする授業料が気掛かりではあったが、落ちたてホヤホヤの息子を前にそれを言い出すことはできなかった。


 翌3月14日、夫は急遽きゅうきょ有給休暇を取り、息子を車に乗せて私立音大へ向かった。

 銀行で入学時納付金(入学金と半年分の授業料)の約150万円を下ろし、車を飛ばして大学へ行き、駅前の銀行で振り込みを完了した後、大学の事務局で無事に入学手続きを終了した。

 その後、家に帰って息子を降ろし、午後3時ギリギリに地元の銀行に行き、4年間元金据え置きで利息分だけを払えば良い教育ローンを申し込んだ。

 夫は5年後に定年退職だから、このローンはそっくり退職金から一括返済することになる。

 授業料や楽器、交通費や雑費、その他もろもろを合わると約1,300万円。

 住宅ローンも少し残るから、これで手元に残る退職金は約1/3となる計算だ。

 その夜、ニコニコしながらクラリネットのカタログを見ている息子を座らせ、私たちは真剣に我が家が置かれた窮状きゅうじょうを言って聞かせた。

 しかし、息子はヘラヘラと笑うばかりで、さすがに私も一発殴ってやりたいような衝動に駆られた。


 4月になり、息子の音大生活が始まった。

 最初の1週間は、書類作成や健康診断に始まり、クラス分けのテストや選択科目の決定、個人レッスンの講師の選定等で忙しい。

 講師は、以前レッスンを受けていた先生から紹介してもらった。

 この先生はプロのオーケストラ団員であると同時に3つの大学の講師も兼任しており、その年、この大学では息子だけを受持つことになるらしい。

 息子は即決した。

 早速、講師の家に挨拶に行くと「ボーリング大会やるけど来る?」と言われたらしく、息子は嬉しそうにしていた。

 とにかく息子は、厳しいのが大嫌いだ。

 緩い環境の中で、自分がやりたいことをやるというスタイルを好む。

 だから、私たち世代はついて行けず、とかく小うるさいことを言ってしまう。


 ともかくこれで息子は音大生になった。

 1年目は、学校の授業と講師の個人レッスンで忙しそうだった。

 他の音大のことは分からないが、ここの場合、個人レッスンの費用は授業料に含まれていた。

 教職課程を受けるために多少の上乗せはあったが、追加料金は予想していたより少なく済みそうだ。

 また、学校の配慮でいろいろな演奏会にも出演した。

 教育の一環というが、親への配慮もあるのだろう。

 幼稚園の発表会と同様、子供さんはこんなに立派になりましたと時々披露して親を安心させる必要がある。

 ただし、私たちの自宅は遠すぎてなかなか見に行けない。

 だから、息子はときどき近場の演奏会にも出演して愛想を振りいていた。


 息子の大学生活は順調だったが、いかんせん通学が遠い。

 講師のレッスンがあった日などは最終電車で帰ってきて、翌日は始発ということもあった。

 さすがに、金を出してもらって、やりたいことをやらせてもらっているので「辛い」とは言わなかったが、練習時間は少なくなった。

 2年生になる頃には要領を得て、都内に住む友達の家に泊まったり、練習がてらカラオケ屋に泊まったりし始めた。

 そこで母に頼んで、東京に近い私の実家に居候させることにした。

 母は高齢で独居だから息子がいれば何かと安心だし、交通費も多少浮く。

 食費を払ってとんとんだが、終電も遅くまであるので、大学での練習時間は確実に増やすことができる。

 息子も母も最初は喜んでいたが、数ヶ月すると母の方が音を上げた。

 夜遅く帰ってきて、朝はなかなか起きて来ない。

 そうかと思うと何日も帰らない。

 帰ってくると用意したご飯も食べない。

 そんな現代人の生活に、母がついていけなかったのだ。

 私は、毎日のように掛かってくる母からの電話に辟易するようになった。

 それを息子に伝えようとしても、なかなか電話には出ない。

 業を煮やした私は、息子と母を切り離し、どこかへ下宿させようと考えた。

 交通費や雑費分を充てれば1か月6万円くらいの家賃は工面できそうだ。

 生活費はバイトで賄ってもらう。

 息子に提案すると、すぐに友達のお祖母ばあさんがやっている都内のアパートを友達とルームシェアするという話を持ってきた。

 実は、かなり前から目論んでいたらしい。

 家賃は11万円だから、息子の分は5万5千円になる。

 光熱水費は孫の分もあるからとタダにしてくれた。

 都心直近という立地から考えたら最高の条件だ。

 この息子は、音楽よりこういうことに長けているような気がする。

 

 こうして息子の東京暮らしが始まった。

 毎日やり取りしていたメールは、だんだん返事が来なくなり、来ても「はい」や「了解」など簡単な内容になっていった。

 それでも、生きていることだけは確認できるのでしつこく長文メールを送り続けた。

 息子にしたら、親元を離れているところ、家庭臭プンプンの親の話につき合わされるのは迷惑に違いない。

 しかし私はメールを続けた。

 それは、風船が風で飛び去らないように、細い糸をしっかり握っているかのようだった。


 大学の3年間はあっという間に過ぎた。

 相変わらず息子はノンタイトルのままだった。

 何かに合格するでもなく、誰かに見出されるでもなく、どこかへ行くでもなく、ただただ音大生として生活していた。

 親を安心させるため、ときどき学生のオーケストラや室内楽のコンサートなどに出演した。

 また、学校が推奨するのか、地元のアマチュア音楽家のコンサートなどにも顔を出した。

 私は、息子の音を聴くたびに少し不安を感じるようになった。

 演奏者としては確かに上手い。正確で、気持ちの良い音を奏でる。

 でも、この先どうするのか。

 何を目指し、何になるつもりなのか。

 今のところ、普通の人より少し音楽に詳しくて、クラリネットが上手い人でしかない。

 このままじゃ仕事に結び付くことはないだろう。

 息子が「ピアノやりたい」と言った頃、夫と話した悪い方のパターンにはまりつつあるような気がした。

 どうすれば良いのか?

 これまでに判明したことは、音楽の世界は人脈に依るところが大きいということだ。

 上手いか、下手かを人が判定する世界だから当然と言えば当然だ。

 だから、ここからプロの楽団に入るには、相当な人脈、つまりコネが無くては無理ということだ。

 私たちにはそれが無い。

 もちろん息子にも無い。


 4年生になり、私たちも息子も、この先の進路について真剣に考えるようになった。

 大学側も進学や留学、就職について、生徒たちへの説明、面談などをやり始めた。

 息子は、大学が運営するオーケストラに入って音楽を続けるつもりだったようだが、そのオーディションには落ちた。

 結果、大学側が提案して来たのは自衛隊だった。

 親としては安心感はあったが、息子は拒否した。

 確実に音楽隊に入れるという保障もなく、しかも入隊訓練などもあるということを聞き、腰が引けたのだろう。

 さらに、入るには入隊試験はあるから、仮に落ちでもしたら自分の立場が危うくなる。

「あの防衛本能の強さは自衛隊向きだ」などと、私たちは冗談を言って笑った。


 結果、想定通りというか、案の定というか、息子は何にも成らなかった。

 通常、そういう場合は大学院や研究科へ進学するか、海外の音楽院に留学するのが一般的だが、夫の定年を1年後に控え、さすがの息子も言い出せなかったのだろう。

 息子が、裏で偉い先生に頼み込んで「是非、フランス留学を」とか言って来たらどうしようと、私たちは秘かに心配していたが、それも無かった。

 息子は自分で考え、今のバイトを続けながら、コンクールやオーディションを受けるという道を選んだ。

 自分では恰好つけて「フリーランス」と言っていたが、私に言わせれば「無職」と同じだ。

「いつまで?」と聞くと、「当分」と言う。

「当分って、いつまで?」と聞き返すと「うーん、2、3年」と言う。

 つまり適当だ。考えてない。

 私としては「3年間やってダメだったら就職する」などときっぱりと言って欲しかったが、まあこれが現実だろう。

 夫は、少年少女オーケストラのオーディションの頃を思い出し、

「あんな子がひたすら音楽を続けて音大に行き、卒業するまでになったのだから、ここが目的地ということで良いだろう」

 と分かったようなことを言うが、私としては納得できない。

 音楽には卒業も無いし、加齢による引退もない。

 しかも、息子はまだ終わってない。終わろうにも、まだ何にも始まってない。

 それよりも何よりも、このままでは私たちが費やした努力や時間、金額と採算が合わない。

こうなったら、行くところまで行って、なにがしかのモノになってもらうしかない。

 

 そして、息子は音大を卒業し、アルバイト先の飲食店で準社員として雇用してもらい、独り暮らしを始めた。

 元ミュージシャンの店長の好意で、仕事が終わったあと店の個室で練習をさせてもらえることになった。

 高校時代の講師も、また大学の頃の講師も、ときどきレッスンを見てくれることになった。

 もう、大学がお膳立てする演奏会には出られないが、時間だけはあるから、友人や地元が主催する音楽会には気軽に呼ばれた。

 こんな息子でもいろいろな人達が応援してくれている。

 決して速効性のある人脈ではないが、貧乏でひたむきな若手音楽家を見捨てないという、人間味のある良い人達だ。

 息子はまだにはなれていないが、にはなれたのかもしれない。

 

 2年後、息子は、大学時代からバイトをしていた飲食店で働きながら、楽団のオーディションを受けたり、演奏会に参加したりしていた。

 ところが、やがて世の中はコロナ禍に陥った。

 演奏会はおろか、楽団の存続すら危ぶまれる状況となり、息子が勤めていた飲食店の経営も立ち行かなくなった。

 そのため、彼はその飲食店を退職し、ハローワークで就職活動を始めた。

 それを聞いた時には「やっぱりそうなるか」と落ち込んだものだが、世の中全体が大混乱していた時期だったので、「まあ、今はしょうがないか」と自分に言い聞かせた。

 息子は、リモートで何社も面接や試験を受けたようだが、なかなか決まらず、数か月後にやっと現在の会社にたどり着いた。

「何の会社?」と聞くと、これこれこういう会社だと説明するが、私にはさっぱり分からない。

 とりあえず、正社員で社会保険の適用があり、音楽に関する事業を幅広く展開している会社らしいが、何よりも息子自身が楽しいと言っているので、「まあ、良いか」と納得した。


                ― 了 ―


【追記】 

 2025年、愚息ぐそくは今でも、5年前にハローワークで見つけた会社に勤めています。

 仕事としては、音楽イベント・音楽レーベルの運営、楽曲・ミュージシャンのプロデュース等々ですが、同レーベルのクリエーターとしても楽曲を世に送り出しています(売れてはいませんが)。

 また、クラリネットやピアノ演奏の方も、近場の演奏会や楽曲制作の場に顔を出し、演奏家としての活動も続けているようです。 

 収入はそこそこのようですが、まがいなりにも音楽家の1人として楽しそうに生きていることには、音大で学んだことはもとより、幼少期の頃よりお世話になった数々の皆様方のお陰と感謝しております。


 なお、この物語は2010年代の話であり、記述されている受験制度や金額等は、その多くが現代とは異なっているはずです。くれぐれもご注意の程よろしくお願いいたします。




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音大という選択肢 市原たすき @ichihara-tasuki

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