第12話 越えられない壁
これなら、もう迷う必要はないかもしれない。
俺は、静かにそう呟くと、迷宮の出口へと、確かな足取りで歩き出した。
手にした剣が、今までとはまるで違うものに感じられた。
ただ敵を屠り、自らが生き残るためだけの凶器ではない。敵の攻撃を受け流し、身を「守る」ための盾ともなる、新たな可能性を秘めた存在へ。
この『パリィ』という力は、俺に物理的な防御技術以上のものを与えてくれた。それは、他者を守れるかもしれないという、希望。そして、それを行使するに足る自分であるという、自信だった。
高揚していた。自分の力が、世界に通用するという確かな手応え。そして、その力をもってすれば、あの路地裏で雨に打たれていた小さな命を救えるかもしれないという、強い期待。
だが、感情だけで動くのは愚策だ。
あの少女を助ける。その決意は、もう揺るがない。
だが、そのためには盤石な基盤が必要だ。一時的な施しでは、根本的な解決にはならない。彼女がこの先生きていくための、安定した衣食住。それを確保するためには、金がいる。
そして、彼女をあらゆる脅威から守り抜くためには、今以上の、圧倒的な力が必要だ。
結論は、出ていた。
より多くの報酬。より強い敵。より速い成長。
それら全てが、この迷宮のさらに下に眠っている。
今まで、危険を冒すことを避けて、同じ階層をただ周回するだけの、安全な狩りに終始してきた。だが、もうその必要はない。
今の俺には、『パリィ』がある。
俺は、迷宮の入り口で踵を返すと、今まで足を踏み入れたことのない、下の階層へと続く階段を、迷いなく下りていった。
階層を一つ下っただけで、空気は一変した。
今までいた場所が、ただの洞窟だったとすれば、ここは深海の底だ。
じっとりと肌に纏わりつくような、濃密な湿気。鼻腔の奥を刺す、濃いカビの臭い。そして、なによりも奇妙なのは、その静寂だった。
ゴブリンの立てる物音も、奇声も、一切聞こえない。まるで、この空間だけが、時間の流れから切り離されてしまったかのような、不気味なほどの静けさ。
高揚していた気分は、急速に冷却されていった。代わりに、全身の神経が研ぎ澄まされていくのを感じる。
ここは、今までの場所とは「格」が違う。
俺は、剣を握る手に力を込め、慎重に一歩、また一歩と足を進めた。
どれくらい歩いただろうか。
開けた空間に出た、その時だった。
通路の奥に、ゆらり、と揺らめく人影のようなものが見えた。
俺は、反射的に足を止め、身を隠せる岩陰へと滑り込んだ。息を殺し、その影を観察する。
人影は、ぼろ布をまとった老人のようにも見えたが、その輪郭は絶えず揺らめき、まるで陽炎のようだ。身体は半透明で、向こう側の壁が透けて見える。
実体がないのか?
その異様な姿に、俺は得体の知れない悪寒を覚えた。
影は、こちらに気づいているのかいないのか、ゆっくりとした動きで空間を漂っている。
どうする。
一度退き、情報を集めるべきか。いや、それではここへ来た意味がない。
俺は、自分の新しい力を試したいという、抑えがたい衝動に駆られていた。
大丈夫だ。たとえどんな攻撃が来ようと、『パリィ』で受け流せばいい。
俺は、覚悟を決めると、岩陰から飛び出した。
「レイス」
俺の脳裏に、ギルドの依頼書で見たことがある、その名が浮かんだ。霊体系モンスター。
俺は、セオリー通り、まずは通常攻撃で様子を見ることにした。床を蹴り、一気に間合いを詰める。
そして、渾身の力を込めて、レイスの胴体目掛けて剣を横薙ぎに振るった。
――手応えが、なかった。
剣は、何の抵抗もなく、レイスの半透明な身体を通り抜けた。まるで、濃い霧を斬りつけたかのような、虚しい感触だけが腕に残る。
レイスは、斬られたはずの身体を何事もなかったかのように揺らめかせ、ゆっくりとこちらに顔を向けた。フードの奥の闇が、まるで嘲笑っているかのように見えた。
まずい。物理攻撃が、効かない。
焦りが、思考を鈍らせる。
「――スラッシュ!」
俺は、咄嗟にスキルを放っていた。魔力で形成された斬撃ならば、あるいは。
だが、その淡い期待は、無残に打ち砕かれた。
青白い光の刃は、レイスの身体に吸い込まれるようにして霧散し、何のダメージも与えられない。
その時、レイスが、ふわりと腕のようなものを上げた。
攻撃が来る。
俺は、即座に剣を構え、『パリィ』の体勢を取った。
だが、レイスは何もしてこない。殴りかかってくるわけでも、何かを放ってくるわけでもない。
ただ、そこにいるだけ。
それなのに。
ぞわり、と全身の毛が逆立った。
体温が、急速に奪われていく。まるで、真冬の氷水に突き落とされたかのような、芯から凍えるほどの冷気。それは、物理的な寒さではない。生命力そのものを、じわじわと吸い取られていくような、根源的な恐怖だった。
これが、こいつの攻撃か。
実体のない、精神への直接攻撃。
『パリィ』は、物理的な攻撃を受け流すための技だ。この、触れることすらできない攻撃の前には、何の意味もなさない。
剣も、スキルも、覚醒したばかりの防御技さえも。
俺が培ってきた全ての力が、この敵の前では、完全に無力だった。
手も、足も出ない。
その言葉が、これほどまでに絶望的な響きを持つことを、俺は初めて知った。
じり、じりとMPと、それ以上に精神力が削られていく。思考が、凍てついていく。このままここにいれば、確実に死ぬ。
俺は、生まれて初めて、戦いを放棄するという決断を下した。
プライドも、自信も、全てをかなぐり捨てる。
俺は、レイスに背を向けると、ただ無我夢中で、来た道を引き返した。
背後から、追ってくる気配はない。それが、かえって屈辱的だった。まるで、取るに足らない獲物として、見逃されたかのように。
命からがら、上の階層へと続く階段を駆け上がり、地上へと戻った時、俺は壁に手をつき、その場に崩れ落ちた。
は、は、と荒い息が漏れる。心臓が、警鐘のように激しく脈打っていた。
粉々に砕かれた自信。圧倒的なまでの、無力感。
だが、ただ打ちひしがれているだけでは、何も変わらない。
俺の脳は、教師としての冷静さを、まだ失ってはいなかった。
なぜだ。なぜ、物理攻撃が効かない? あの冷気は、魔法の一種なのか? ならば、対抗策はあるはずだ。弱点はないのか。
そうだ。
解けない問題に直面した時、闇雲に挑み続けても、時間を浪費するだけだ。
まず、やるべきことがある。
それは、問題そのものを、正確に知ることだ。情報を集め、原因を分析し、そして、有効な解法を導き出す。
俺がすべきことは、戦うことではない。
まず、知ることだ。
絶望の淵で、俺は次なる行動を、はっきりと見据えていた。
その目に、再び理性の光が宿るのを感じながら。
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