第11話 新しい力

 今の俺なら、もしかしたら。

 その思考が、一度芽生えてしまうと、もう無視することはできなかった。


 戦力的、そして経済的な「余裕」。その二つが、昨日までの俺ならあり得なかったはずの選択肢を、目の前に突きつけている。


 路地裏の少女。

 絶望の縁にありながら、決して光を失わなかった、あの強い瞳。


 行くべきか、行かざるべきか。


 理性が、警鐘を鳴らす。関わるな、と。お前の目的はただ一つ、故郷へ帰ることだろう。余計なリスクを背負い込むのは愚策の極みだ。


 だが、心の奥底で、もう一人の俺が叫んでいた。見捨てるのか、と。父親として、教師として、そして一人の人間として、目の前の小さな命を見過ごすのか、と。


 答えは、出ない。


 二つの正論が、頭の中で激しく衝突し、思考を麻痺させる。

 俺は、この葛藤から逃れるように、かぶりを振った。


 ダメだ。今の俺は、まだ弱い。


 誰かを助けるなどという大それたことを考える前に、まず自分が生き残るための、絶対的な力が必要だ。


 そうだ、まだ足りない。もっと、強くならなければ。


 俺は、まるで自分に言い聞かせるようにそう結論付けると、答えを出すことを保留し、踵を返した。


 足が向かう先は、もう決まっている。

 あの薄暗く、死の匂いが満ちる場所。


 三度、俺は迷宮の入り口に立っていた。

 迷宮の中は、いつもと変わらぬ静寂に包まれていた。


 だが、俺の心は凪いではいなかった。

 一体、また一体と、ゴブリンを機械的に処理していく。


 もはや、そこに思考の介在する余地はない。「観察」「仮説」「検証」のサイクルは、完全に身体に染み付き、無意識レベルで実行可能な「作業」と化していた。


 剣を振るう。血飛沫が舞い黒い霧になる。魔石が転がる。

 その反復作業の合間に、ふと、あの少女の顔がちらついて、剣筋がわずかに鈍る。


 いかん、集中しろ。


 俺は、一度立ち止まって呼吸を整えた。

 雑念は、死に直結する。


 気分を切り替えるように、俺はギルドカードを取り出し、自身のステータスを確認した。レベルや身体能力に変化はない。


 次に、スキル欄に視線を落とす。


【スキル】

 ・剣術 Lv.1 (98/100)

 ・スラッシュ Lv.1 (15/100)


『剣術』の熟練度が、100まであとわずかに迫っていた。

 これがMAXになった時、何が起こるのか。単純にレベルが上がるだけなのか、それとも。


 わずかな期待が、胸をよぎる。


『スラッシュ』の方も、意識して使ってはいないが、戦闘の中でわずかに熟練度が上昇しているようだ。


 あと少し。

 あと少しで、何かが変わるかもしれない。


 その予感が、俺の足を再び前へと突き動かした。

 油断、だったのかもしれない。


 あるいは、心の隅に残った葛藤が、俺の判断力を鈍らせていたのか。

 通路の角を曲がった瞬間、俺は三体のゴブリンに同時に発見された。


 しまった、と思ったが、もう遅い。

 一体は正面から、残りの二体は左右から、俺を包囲するようにじりじりと距離を詰めてくる。


 退路はない。

 やるしかない。


 俺は剣を握り直し、腰を低く落とした。

 まず、最も厄介な正面の個体から潰す。


 突進してきたゴブリンの棍棒を半身でかわし、カウンターでその首を刎ねた。

 だが、その一瞬の隙が、命取りだった。


 左右から迫っていた二体のゴブリンが、同時に襲いかかってきたのだ。

 右からの棍棒を、剣の腹でかろうじて受け止める。衝撃で腕が痺れ、体勢が大きく崩れた。


 まずい。


 がら空きになった左の脇腹に、もう一体のゴブリンが、錆びた短剣を突き出してくるのが、スローモーションのように見えた。


 避けられない。

 死を、覚悟した。


 その、瞬間だった。


 ――キィン、という硬質な音と共に、脳内にあの無機質な声が響き渡った。


《『剣術』スキルの熟練度が規定値に到達しました。スキルレベルがLv.2に上昇します》


 声と同時に、全身を電流のようなものが駆け巡る。


 それは、レベルアップの時のような温かい光ではない。もっと鋭く、もっと直接的に、身体の奥深く、神経の一本一本にまで浸透してくるような、鮮烈な感覚だった。

 俺の脳裏に、膨大な情報が濁流のように流れ込んでくる。


 剣の握り方、足の運び、重心の移動、呼吸法。


 今まで我流で積み上げてきた「技術」が、より洗練され、最適化された「体系」へと、強制的に再構築されていく。


 そして、その情報の奔流の中に、一つの新しい「単語」が、ひときわ強く輝いて見えた。


 ――パリィ。


 意味を理解するより先に、身体が動いていた。


 左脇腹に突き立てられようとしていた短剣。その切っ先が、皮膚に触れる寸前。

 俺は、体勢が崩れたまま、最小限の動きで剣の柄頭を突き出した。


 ごん、という鈍い音。

 短剣は、俺の身体に届くことなく、あらぬ方向へと弾き飛ばされていた。


 敵の一撃を受け流す、防御技術。

 これが、『パリィ』。


 俺は、驚愕に目を見開くゴブリンの心臓に、返す刀で剣を突き立てた。

 残りは、一体。


 俺は、痺れの残る右腕で、棍棒を構え直すゴブリンと対峙した。

 もはや、恐怖はない。


 新しく生まれ変わったかのような、全能感にも似た感覚が、俺の身体を支配していた。


 ゴブリンが、最後の力を振り絞って棍棒を振り下ろしてくる。

 俺は、それを避けない。


 ただ一歩、踏み出す。

 そして、振り下ろされる棍棒の軌道に合わせるように、剣の側面を滑らせた。


 火花が散り、甲高い金属音が響く。

 棍棒の一撃は、俺の頭上を空しく通り過ぎ、ゴブリンはがら空きの胴体を無防備に晒した。


 俺は、その胴を、水平に薙いだ。


 静寂が、戻った。

 俺は、剣先から滴り落ちる黒い血を眺めながら、荒い呼吸を整えた。


 ギルドカードを確認する。


【スキル】

 ・剣術 Lv.2 (0/200)

 ・スラッシュ Lv.1 (15/100)

 ・パリィLv.1 (1/100)


 新しい力が、確かにそこにあった。

 それは、ただ敵を殺すための力ではない。


 敵の攻撃を受け流し、身を「守る」ための力だ。

 俺は、手の中にある剣を、改めて見つめた。


 この剣は、今まで生きるために、ただ敵を殺すためだけの道具だった。


 だが、今は違う。


 この剣で、誰かを守ることができるかもしれない。

 路地裏で、雨に打たれていた小さな背中が、脳裏をよぎる。


 これなら、もう迷う必要はないかもしれない。

 俺は、静かにそう呟くと、迷宮の出口へと、確かな足取りで歩き出した。

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