第2章

第8話 異常な成長

 ひやりとした石の感触が、意識を覚醒させた。


 全身を殴打されたかのような痛みが走り、思わず呻き声が漏れる。ゆっくりとまぶたをこじ開けると、そこには見慣れた宿の天井ではなく、湿った岩肌が広がっていた。


 死んだはずだ。そう思った。


 だが、この確かな痛みと、カビ臭い迷宮の空気が、俺がまだ生きているという厳然たる事実を突きつけてくる。


 夢ではなかったのか。


 脳裏に響いた、あの無機質な声。死の間際に聞こえた『剣術』と『スラッシュ』という言葉を反芻する。


 震える手で懐を探り、一枚の金属板――ギルドカードを取り出した。意識を集中すると、淡い光と共に俺の情報が表面に浮かび上がる。


【名前】ケイ・アキヤマ

【レベル】1

【HP】15/15

【MP】8/8

【EXP】45 / 100

【筋力】3

【耐久力】2

【敏捷性】1

【知力】5

【精神力】4

【スキル】

 ・剣術 Lv.1(6/100)

 ・スラッシュ Lv.1(3/100)

【ユニークスキル】

 ・言語理解

 ・????


 そこには、紛れもなく二つのスキルが刻まれていた。

 あれは現実だったのだ。


 安堵よりも先に、得体の知れない現象への畏怖が背筋を駆け上る。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。


 壁に手をつき、軋む身体を無理やり起こす。傍らに転がっていた粗末な剣を、強く、強く握りしめた。


 恐怖はある。しかし、それ以上に「帰る」という目的が、俺の足を前へと動かした。

 一体目のゴブリンと遭遇した時、俺は以前のような無謀な突撃はしなかった。


 距離を取り、息を殺して対象を観察する。


 二十年間、教壇で様々な経験をしてきた俺の目が、目の前の醜悪な化物を、攻略すべき「教材」として捉えていた。


 まず、観察だ。


 ゴブリンの行動パターンを分析する。知性は低いと見える。こちらを発見するや、奇声を上げながら一直線に突進してくるだけ。武器の振りも、力任せの大振りで単調だ。


 弱点は首や心臓部だろうが、動き回る相手のそこを的確に突くのは、今の俺の技術では難しい。


 ならばどうするか。動きを止めればいい。

 俺は、授業研究で指導案を練り上げる時のように、思考を巡らせた。


 次に、仮説を立てる。


 仮説1:大振りの一撃を誘い、その動作の隙を突いて足の腱を狙えば、機動力を奪えるのではないか。


 仮説2:体勢を崩し、動きの止まった相手にならば、確実に首などの急所を狙えるのではないか。


 仮説3:スキル『スラッシュ』は多用できない。MPの消費が激しいからだ。通常攻撃のみで敵を無力化する手順を確立する必要がある。ただし、熟練度の表記があることから、適度の使用して強化していく必要がある。


 仮説は、検証して初めて意味を持つ。

 俺は壁際まで後退し、ゴブリンを誘い込んだ。予測通り、ゴブリンは頭上から棍棒を振り下ろしてくる。


 その予備動作を見切り、半身で回避。がら空きになった膝裏へ、渾身の力で剣を横薙ぎに振るった。


 手応えは浅い。だが、確かに肉を裂き、腱を断つ感触があった。

 ゴブリンが奇妙な悲鳴を上げて前のめりに倒れ込む。


 成功だ。


 俺は躊躇なくその背に乗り、無防備に晒された首筋へ、全体重を乗せて剣を突き立てた。


 生々しい絶命の感触が、柄を通して腕に伝わる。胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくるのを、奥歯を噛み締めてこらえた。


 これは、生きるための「作業」だ。そう自分に言い聞かせなければ、正気を保てそうになかった。


 俺はこの一連の流れを、頭の中で反復し、最適化していく。

「誘引」から「回避」、「カウンター」としての「足への攻撃」、そして「追撃」。


 まるで剣道の打ち込み稽古のように、あるいは新しい単元の授業計画を練り上げるように、俺は淡々とゴブリンの討伐手順を体系化していった。


 一体、また一体。

 戦闘は、やがて知的な作業へと変貌していた。


 ゴブリンの個体差を見極め、回避のタイミングをコンマ数秒単位で調整する。剣を振るう角度を数ミリ単位で修正し、より少ない力で腱を断つ方法を模索する。


 それは、俺の授業のやり方そのものだった。生徒一人ひとりの個性に合わせ、最も効果的な指導法を探る、あの果てしない試行錯誤に酷似していた。


 疲労は蓄積していくが、精神は妙に冴え渡っていた。


 そして、何体目かのゴブリンを仕留め、その身体が黒い霧となって消え去った、まさにその瞬間。


 異変は起きた。

 俺の身体が、淡い光の粒子にふわりと包まれたのだ。


 なんだ、これは。


 驚きに身を固くする俺の意思とは無関係に、その光は皮膚を透過し、身体の隅々まで染み渡っていく。


 それは、信じがたいほどに心地よい感覚だった。


 蓄積していた疲労が、まるで嘘のように霧散していく。酷使した筋肉の痛みも、強張っていた関節も、春の雪解け水のように溶けて消えていく。


 それだけではなかった。


 身体の芯から、今まで感じたことのない力が、静かに、しかし力強く湧き上がってくる。一本一本の筋繊維が、より強靭なものへと再構築されていくような、確かな脈動を感じた。


 やがて光が収まった時、俺の身体は嘘のように軽くなっていた。


 これが、レベルアップか。

 ギルドの掲示板で読んだ知識が、現実の体験として脳に焼き付く。


 ごくりと喉が鳴った。

 震える手で、再びギルドカードを取り出す。何かが変わっているはずだ。


 緊張でこわばる指先に意識を集中させ、魔力を流し込む。カードの表面に、更新された情報がゆっくりと浮かび上がってきた。


【名前】ケイ・アキヤマ

【レベル】1 → 2

【HP】25/25 (+10)

【MP】18/18 (+10)

【EXP】0 / 200

【筋力】8 (+5)

【耐久力】7 (+5)

【敏捷性】6 (+5)

【知力】10 (+5)

【精神力】9 (+5)

【スキル】

 ・剣術 Lv.1(38/100)

 ・スラッシュ Lv.1(7/100)

【ユニークスキル】

 ・言語理解

 ・????


 自分の目を、疑った。

 レベルが1から2へ。それはいい。


 HPとMPの上昇値も、素人目には多いのか少ないのか判断がつかない。

 問題は、その下の項目だ。


 筋力、耐久力、敏捷、知力、精神力。その全てのステータスが、「+5」増加という異常な数値を示していた。


 ギルドで耳にした、冒険者たちの会話が脳裏をよぎる。


『今回は当たりだぜ、筋力が2も上がった』

『ちっ、俺なんて耐久が1上がっただけだぞ。やってられるか。まあ、0よりかはましだけどな』


 そうだ、この世界の常識では、レベルアップによるステータスの上昇値は、良くて1か2のはずだった。


 それなのに、なんだ、この数字は。

 一律で、プラス5?


 まるで桁が違う。常識から、あまりにも逸脱している。

 薄暗い迷宮の中、俺はただ呆然と、手の中のギルドカードを見つめることしかできなかった。


 これは、異常だ。

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