第7話 冒険者、ケイ・アキヤマ

 武器屋を出た俺は、再び冒険者ギルドの受付カウンターの前に立っていた。先ほどと同じ、栗色の髪の女性職員が、俺の姿を認めると、わずかに目を見開いた。その視線は、俺が手にした粗末な剣と盾に向けられている。まさか、本当になる気があるとは思わなかった、とでも言いたげな表情だった。


 俺は何も言わず、無言でカウンターに剣と盾を購入し残った銅貨を数枚置いた。ギルドカードの発行手数料だ。彼女は諦めたように小さく息を吐くと、事務的な手続きを始めた。


「では、こちらの水晶に、指を」


 言われるがまま、人差し指を突き出すと、彼女は小さなナイフでその指先をほんの少しだけ傷つけた。ぷくりと浮かんだ血の玉を、カウンターに置かれた透明な水晶玉に押し当てる。水晶が、一瞬だけ淡い光を放った。


「……はい、終わりです。すぐにできますので、少々お待ちを」


 彼女は奥の部屋へと消え、やがて一枚の金属製の板を持って戻ってきた。大きさは、クレジットカードを一回り大きくしたくらいだろうか。表面には、複雑な紋様が刻まれている。


「これが、あなたのギルドカードです。紛失しないように。意識を集中させるとギルドカードが光り、あなたのステータスやスキルが見えるようになります」


 手渡されたカードは、ずしりと冷たい。早速、意識を集中させてみる。するとその表面に、俺は見慣れない文字が浮かんでいるのを見つけた。|蚯蚓≪みみず≫がのたくったような、奇妙な形状の文字。だが、俺の脳は、それを何の問題もなく「読解」していた。


【名前】ケイ・アキヤマ

【レベル】1

【HP】15/15

【MP】8/8

【EXP】0 / 100

【筋力】3

【耐久力】2

【敏捷性】1

【知力】5

【精神力】4

【スキル】

 ・なし

【ユニークスキル】

 ・言語理解

 ・????


 ケイ・アキヤマ。俺の名前だ。日本語とは似ても似つかないその文字が、確かに俺自身の名前を示している。


「言語理解」と「????」という二つのユニークスキルが目に入る。「言語理解」の効果だろうか、この不思議な能力は、会話だけでなく、文字の読み書きにまで及んでいる。この力は、ここで生き抜く上で、間違いなく大きな助けとなるだろう。


「????」はよくわからない。何か意味はあるのだろうか。


 だが、それ以上に、俺はこの『ケイ・アキヤマ』という文字列から、目が離せなかった。


 俺は、秋山慧だ。生徒を導き、言葉を教える国語教師。しかし、このカードに刻まれた名は、もはやその男ではない。これは、思い出を売り払い、鉄の塊を手に、これから魔物の血で糧を得ようとしている、一人の冒険者の名だ。


 過去の自分は、あの万年筆と共に、銅貨30枚で売り払ってしまった。もう、引き返すことはできない。


 俺はカードをしまい、無言で踵を返した。背中に、女性職員の同情するような視線を感じたが、振り返らなかった。


 ギルドを出て、迷宮へと続く道筋を、宿の主人に教えてもらった方角へと歩き出す。街は、相変わらず活気に満ちていた。露店商の威勢のいい声。子供たちのはしゃぐ声。恋人たちの楽しげな笑い声。


 その全てが、まるで別世界の出来事のように聞こえる。俺はもう、彼らのような平穏な日常の住人ではない。自ら、その輪から外れることを選んだのだ。


 なぜ、こんなことになったのか。職員室での人間関係に疲弊し、家庭では孤立し、ただ時間に追われるだけの、色のない日々。あの日常から逃げ出したいと、心のどこかで願っていたのだろうか。


 だとしても、こんな形は望んでいなかった。


 会いたい。美千花に。冷たい態度をとられても、会話がなくても、それでも、ただ顔が見たい。あの子が、無事に暮らしているのか、それだけが知りたい。理恵とも、もう一度、ちゃんと話をしたい。あの万年筆をもらった頃のように、同じ未来を見つめて、笑い合いたい。


 そのためには、帰らなければならない。

 どんなに無様でも、どんなに泥にまみれても、生き延びて、必ず。


 左手に持った盾の、硬い感触を確かめる。右手に握った剣の、冷たい重みを感じる。これは、俺の新しい日常だ。教師・秋山慧が捨てた過去の重みと、冒険者ケイ・アキヤマが背負う未来への覚悟の重み。


 やがて、街の喧騒が少しずつ遠のき、前方に巨大な岩壁が姿を現した。その中央に、まるで巨人が口を開けたかのように、ぽっかりと黒い穴が空いている。


 あれが、迷宮の入り口か。


 入り口の前まで来ると、街のざわめきが嘘のように途絶えた。代わりに、洞窟の奥から吹き付けてくる、ひやりと冷たい風が頬を撫でる。その風は、カビと湿った土の匂い、そして、微かな腐臭を運んできた。


 生者の世界と、死者の世界の境界線が、ここにある。


 俺は一度だけ、背後を振り返った。遠くに見えるアークライトの街並みは、夕陽に照らされ、黄金色に輝いていた。あたたかな、俺がもう帰ることのできない世界の光。


 もう、迷いはない。

 俺は、迷宮の暗闇へと、最初の一歩を踏み出した。


 中は、想像以上に暗く、そして静かだった。入り口から差し込む光も、数メートルも進めばほとんど届かなくなる。目が慣れるまで、壁に手をつきながら、慎重に歩を進めた。


 ごつごつとした、冷たい岩肌の感触。

 ぽつり、ぽつり、と天井から滴り落ちる水滴の音。


 自分の足音だけが、不気味なほど大きく反響する。


 神経を、極限まで研ぎ澄ませる。剣道の試合で、相手と対峙した時の集中力とは比較にならない。あれはルールに守られた競技だ。だが、ここは違う。一瞬の油断が、即、死に繋がる。


 壁を伝い、ゆっくりと通路を進んでいく。しばらく歩くと、道が直角に折れ曲がっていた。角の向こうは、完全な闇に包まれている。


 何かが、いるかもしれない。


 俺は壁に背を預け、息を殺した。心臓が、早鐘のように鳴っている。盾を構え、剣を握る手に、じっとりと汗が滲む。


 数秒か、あるいは数分か。永遠にも感じられる静寂の後、俺は意を決し、ゆっくりと角の向こうを覗き込んだ。


 そして、目が合った。


 通路の少し先。薄暗がりの中、緑色の肌をした、ずんぐりとした人型の何かが、こちらを向いて立っていた。その濁った瞳には、明確な敵意と飢えの色が浮かんでいる。


 目の前に現れたのは、一匹のゴブリン。


 死の匂いがした。

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