時輪の記 第4話「幻影の条約改正」
@Shinji2025
第4話
城山の丘を包んだ夕焼けは、まるでゆっくり燃える炭みたいだった。
土煙の向こうで、西郷さんの最後の背中がゆっくりと沈んだとき、胸の奥がきゅっと痛んだ。次の瞬間、足元がふわりと軽くなる。
耳のすぐそばで、カチリ、と小さな歯車の音。ポケットの中で、古びた懐中時計とAIスマホが同時に光をはなつ。
光が視界を塗りつぶし、まぶたの裏の赤が白に溶け、空気の味が一変した。
目を開けると、そこは石畳の街角。ガス灯の火がやわらかくゆれ、赤レンガの建物が規則正しく並んでいる。洋装の紳士、羽織の若者、人力車。どこかで聞こえる異国のことば。
吐く息が白くはない。ここは冬の終わりか、春の手前か。
「……ここは、どこだ」
背中側から軽い声が落ちてくる。少し皮肉っぽい、けど嫌みではない調子だ。
「おや、兄さん。見ない顔だな」
振り返ると、二十代半ばほどの青年が立っていた。背は高くないが、目がやたら生きている。片手に小さな手帳、もう片手に鉛筆。コートの裾はすり切れて、靴には細かい泥がついていた。
「宮崎ってんだ。新聞書いてる。あんた、条約改正のネタを追ってる口か?」
「条約改正……?」僕はとぼけてみせる。
宮崎は、僕の顔色を見て、勝手に話しだした。
「今の日本はさ、不平等条約ってやつのせいで、外国人が日本で罪を犯しても、日本の裁判所じゃ裁けない。治外法権って言う。しかも関税も自分の思うように決められない。…で、外務がそれを直そうと必死なんだが、向こうは『お前らの国の裁判はまだまだだろ』って鼻で笑う。これが現実」
鼻先に、冷たい風が入りこむ。僕はポケットの中でAIスマホをそっと起動した。
——1889年、憲法発布。1890年、帝国議会。条約改正は長期戦。憲法で国際信用を底上げ。
指先がほんの少し震える。
「鍵は、憲法か」僕はほとんど無意識に呟いた。
「ん?」宮崎の眉が動く。
「いや、ちょっとね。…面白い筋がある」僕は笑ってごまかした。
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鹿鳴館の灯
数日後、宮崎が息を切らして駆け込んできた。
「おい、用意しろ。井上馨に会える。外務卿だ。鹿鳴館だぞ」
鹿鳴館——正面の階段は広く、両側に白い柱が立ち、窓からこぼれる光はやわらかい。ドレスの裾が波のように動き、燕尾服が黒い稲穂みたいに揺れる。管弦の音が遠くでひびいている。
レモンの香りと煙草の匂い、ワインの甘い匂い、床に擦れる靴底の音。
僕らは会場の奥の小部屋に通された。
「君が宮崎君の連れか」
低い声。椅子からすっと立ちあがった男の目は、鋭いが、少し疲れている。
井上馨。
「条約改正は難航している。外では舞踏だが、中身は泥んこだ。国内からは『西洋かぶれ』と罵られ、外からは『未熟』と言われる。…我ながら、笑えてくる」
「笑えません」僕は椅子に座らず、そのままテーブルの横に立った。
AIスマホの画面に指を滑らせ、未来の外交資料の要点を日本語でまとめる。
国ごとの関心、譲歩ライン、相手が飲む条件、国内向けの説明の作法。図にして並べ、色分けする。
「これを見てください。どの国が何を条件に動くか、どこが絶対に譲らないか。『司法の独立』『裁判の手続き』『法の文言』の三点を一つずつクリアにすれば、向こうは席に戻ります」
井上はめがねもかけていないのに、目を細めて画面に近づいた。
「……これは、どこから?」
「遠いところの通信網です」僕は曖昧に答える。
宮崎が横で息を飲んだ。
「こいつ、時々わけのわからんことを言うが、嘘はつかない」
井上は短く笑った。「なら信じよう。…だが、外の席だけじゃない。内の火も消して回らねばならない」
「わかっています」僕は言う。
「だからこそ、『形』を先に作って見せる。憲法です。これが一番の札(ふだ)になります」
井上は、テーブルの上で指を二度、軽く鳴らした。
「伊藤に、もう一押しが要る」
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反発の熱
夜の鹿鳴館の前は、昼とは違う色でざわついていた。
正面の階段下に男たちが集まり、紙の提灯が炎のように揺れる。
「鹿鳴館遊びはやめろ!」
「外に媚びるな!日本の誇りを返せ!」
張りのある声、すり切れた声、酒の匂い。
壮士と呼ばれる男たちが、腕を組み、肩をぶつけ合いながら叫んでいた。
宮崎が耳の横に口を寄せた。
「今日は多いな。政府よりの新聞の連中も来てる。火花が散るぞ」
僕らが横に回り込むと、政府寄りの記者が声を張った。
「条約改正を妨げるのは誰だ!中で交渉してる人間を、外で泥投げて邪魔してるのは誰だ!」
壮士の一人が前へ出る。額に青筋。
「国の誇りを売るほうが邪魔だ! 洋舞のステップ踏んで、何が交渉だ!」
空気が硬くなる。
宮崎が間に入った。「おい、言葉でやろう。手を出したら負けだ」
記者が鼻で笑う。「手? 出すなら出してみろよ。明日の紙面は大見出しだ」
その一言で、前の列がにじり寄る。肩がぶつかり、胸が当たり、誰かの足が石畳で滑った。
「やめろ!」宮崎が叫ぶより早く、壮士が記者の襟元をつかんだ。
周りの空気が一気に沸騰する。
僕は身をねじ込み、襟をつかんだ手首を外側にひねり、相手の力を抜く。
「離せ!」
「離すから、深呼吸しよう。…誰がここで怪我したら、一番喜ぶ?」
僕の言葉に、壮士の男が一瞬だけ目を泳がせた。
「……向こうの国だ」
「そう。今日は『相手の土俵』で負けようとしてる。ここは『日本の土俵』だろ」
男は歯を食いしばり、手を離した。
記者は喉を押さえ、荒い呼吸をしたあと、絞り出すように言う。
「…中へ伝えろ。外は煮えたぎっている、ってな」
僕は小さくうなずき、宮崎と目を合わせた。
「これ、記事にしろよ。『手は出さない。言葉で争う』って」
宮崎はニヤリと笑い、手帳に走り書きした。
「いただき」
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伊藤との小部屋
別の日。霞がかった午後、官庁街の一角。
伊藤博文に通された小部屋は、驚くほど質素だった。机一つ、椅子二つ。窓の外を人力車が通る音が低く響く。
「君が、あの資料の出所か」
伊藤の声は低く、乾いたユーモアが少しにじむ。
「おかげで、頭の中の輪郭がはっきりした。…だが、憲法は国の『器』だ。器を作っても、入れる『中身』が育ってなければ、器は割れる」
「だからこそ、器の形を先に見せる。中身は、それに合わせて育つ。…僕はそう思います」
伊藤は口角をわずかに上げた。
「言うではないか」
僕はAIスマホで、法文の雛形を開く。
「これをそのまま使うわけにはいきません。時代も事情も違う。…でも、『誰が何を決めるか』『どうやって決めるか』の線だけは、はっきり書ける」
伊藤は身を乗り出し、画面をのぞく。
「…この『互いに止める仕組み』は要る。権力は、持てば増やしたくなるからな」
「はい。だから『止める』と『動かす』を同じくらい強く書く。片方だけ強いと、国が転ぶ」
伊藤は笑った。
「君の言い回しは、刀のようでいて、粘土のようでもあるな」
「曲げられる部分は曲げて、折れたら困る部分は固く、です」
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机の上の火花
数週間後、ロンドンから来た紳士と、机を挟んで向き合う日が来た。
鹿鳴館の奥。舞踏の音は壁の向こうで遠く揺れている。
紳士は金のふちのめがねを指で直し、笑う。
「まずは友好を祝いたい。互いに良き未来を」
陸奥は頷く。「では、文を」
机上に草案。紙の白とインクの黒。
僕は一文ずつ英語を日本語にひらく。
「…『段階的に』という言葉が出てきますが、これは『撤廃する』のか『見直す』のかで意味が変わります」
紳士は、肩をすくめる仕草がきれいだった。
「急ぎすぎる列車は脱線する、という比喩をご存じかな」
「線路が曲がっていれば、まっすぐにするだけです」僕は返す。
陸奥が横で、小さく息を吐いた。「ここは『撤廃』で」
「期限を」僕も続ける。「曖昧にすると百年後に困ります」
紳士の笑みが、ほんの一秒だけ薄くなる。
「通訳のあなたは、なかなかよく見ている」
「誤訳が習慣になると、国が傾きます」
空気の向きが、すこしこちらへ傾いた。
僕はAIスマホの画面に、音声を文字に起こす機能を走らせた。会話のログが、時刻つきで並ぶ。
「話の『尾びれ』をあとから付け足されないように、記録します」
紳士は肩を竦めた。「慎重だね」
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鏡、そして影
休けいのあいだ、僕は壁ぎわの鏡に立った。
鏡は会場を丸ごと映している。けれど、奥の角だけ、文字がぼやけて見えた。
(またか)
耳元で、風のような声。
「見えるか」密使だ。
「文の向きが、鏡の中でねじられる」
「どう止める」
「三つ、数えろ」
懐中時計のふたを開く。秒針を見つめる。
一つ、二つ、三つ——音が遠のき、人の動きが水の中みたいにゆっくりになる。
鏡の向こうに、黒い影。封筒をすり替えようとしている。
僕は鏡面に手を当て、一歩、冷たい膜を切るように中へ入った。
薄い灯りの部屋。机の上に写し。影の手。
「待て」
影が弾かれたように振り向く。ひたいまで布でおおい、目だけが笑っている。
窓へ走る。僕も飛ぶ。
鉄の非常階段が凍った魚の骨みたいに冷たい。靴が鳴る。
影は向かいの倉庫へ、細い橋を渡って、黒い馬車に飛び乗る。
僕は角を曲がり、息を吸い込む。
(今だ)
秒針が三つ刻む。
車輪の回転がわずかにゆるむ。僕は幌のへりをつかみ、反動で封筒を胸に引き寄せる。
「返せ!」
「返した」
体が石畳に落ち、肺の中の空気がはじけた。
手の中に封筒。破れていない。
(間に合った)
戻ると、陸奥は封蝋を確かめ、短く笑った。
「よくやった」
紳士は肩をすくめ、「あなた方は勇敢だ」と言った。
「遊びじゃないので」僕はひとこと返す。
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言葉の在りか
国内の空気は、少しずつ変わっていった。
鹿鳴館前でのあの夜、宮崎は記事に「手を出さず、言葉で争う」と大きく書いた。
それを読んだ商家の主人が僕に言った。
「言葉で勝てるなら、そのほうがいい。うちは茶だ。茶碗は割りたくない」
別の日、路上で立ち止まった壮士が、僕にぶっきらぼうに言った。
「あんたの言い方はねちっこい。でも、刀より怖いときがある」
僕は笑った。「ねちっこいのは、数字と文の仕事です」
AIスマホでは、内務や司法の動きを時々チェックした。
裁判の手続き、法文の整え方、裁判官の身分の守り方——
それらを図にして、宮崎経由で各所へ匿名で流した。
夜の屋台で、汁の湯気の向こう側で、見知らぬ書記官が「この図、わかりやすい」と言ってくれたのを、僕は偶然耳にした。
胸の内で、何かがふっと温かくなる。
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1889年、そして熱
二月。空が高く澄み、空気の冷たさは顔の皮を薄くする。
皇居前は人の波だった。旗。軍楽。礼砲。
「これが憲法か」「国の約束の紙だ」
屋台の湯気が白く揺れ、子どもが肩車の上で目をまるくする。
僕は群衆の端で、胸の懐中時計に指を置いた。
(器ができた。このあと、中身を育て続けられるかは、人次第だ)
人波の向こうに、井上の姿がちらりと見えた。
あとで鹿鳴館の一室で再会すると、彼は初めて肩の力を抜いた笑顔を見せた。
「君の情報がなければ、ここまで腹を決められなかったかもしれん」
「僕は外から火を見せただけです。薪をくべて、煙の向きをよくしたのは、こちらの人たちです」
「謙遜はよいが、事実は事実だ」井上はグラスを軽く傾けた。
宮崎は手帳を閉じ、「次は条約改正そのものだな」と目を光らせる。
「国内の裁判を固めて、向こうの机で『同じ土俵』に立つ。…ここからが本番だ」
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小さな衝突、大きな波
発布当日の夜。鹿鳴館前は祝賀と反発が混ざり合っていた。
喜ぶ声、怒る声、歌う声。
「これで日本も一人前だ!」
「いや、天皇を前にした芝居だ!」
人波の中で、壮士と政府寄りの記者が再びやり合った。
「お前らは筆で国を売る!」
「お前らは拳で国を壊す!」
言葉が刺さり、肩が当たって、紙提灯がはじけ、油が地面に散る。
火の匂いが一瞬強くなった。
「水だ!」
誰かが叫び、桶がわたされる。
僕は提灯の残り火を靴で踏み、宮崎は少年から桶を受け取って、上からざばっとかけた。
炎はすぐに消えた。
濡れた紙が、ぺたりと石畳に貼りつく。
「…手は出すな、って言っただろ」宮崎が息を切らして言う。
壮士が舌打ちしたあと、紙切れを拾い上げ、小さく呟いた。
「…今日は引く」
「ありがとう」僕は言った。
「国を叩くのは、もっと先の、机の上にしてくれ」
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1890年、その先へ
帝国議会がひらかれる年。
議事堂へ向かう群衆の足音は、昨日より少し落ち着いている。
新しい器に、少しずつ水が満ちていく音がする。
入口の近くで、見知った背中があった。
「おう」
板垣退助。
「これからが本当の戦いだ。民の声を、形にしていく」
「その声を、文にしてください」
板垣は笑って、議場へ消えた。
---
任務完了、のはずが
夜、鹿鳴館の裏手の路地は、風がくると紙片が舞った。
「今夜くらい、歩いて帰るか」宮崎が大きく伸びをする。
「酔っぱらいに絡まれないように」僕が笑う。
「絡まれたら、お前がねちっこい言葉で丸めろ」
「任せて」
そのときだ。
表通りから、甲高い悲鳴と金属のきしむ音が重なってやって来た。
「……止まらない! どけ!」
角を曲がった人力車が、荷を落としたまま暴走し、その後ろを御者を振り落とした馬車がよろけながら追ってくる。
人々が雪崩れるように横へ散る。
「右へ!」僕は宮崎の肩を引いた。
ところが、足元に転がってきた木箱に足を取られ、僕の体は前につんのめった。
視界の端で、車輪の鉄の輪が巨大な口を開けて迫ってくる。
耳の中の音が、急に遠くなった。
僕は反射的に胸に手を当てる。
懐中時計のふたが、指に触れた。
次の瞬間、時計が心臓の鼓動みたいに光を脈打ち、世界がスローモーションになる。
人の叫びが細い紐のようにのび、馬のいななきが深い谷の底から聞こえる。
車輪の影が、紙の切り絵みたいにゆっくりと回る。
「おい、新仁!」宮崎の声が紐の先で震える。
僕は、彼の指先がこちらへ伸びてくるのを見た。
届く、と思った。
でも、次の瞬間、僕は光の中に沈み込んでいった。
風が、塩の匂いを運んでくる。
冷たくて、まっすぐな匂い。
波の音。鉄のきしむ低い音。遠くにラッパの短い合図。
(まだ続く。僕は、まだ続ける)
懐中時計の針は、止まらない。
僕は目を閉じ、次に開く場所を、静かに受け入れた。
——第5話へつづく。
時輪の記 第4話「幻影の条約改正」 @Shinji2025
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