第十三話 数多なる「乗り越えるべき壁」
「ほぅ……これはなかなか」
アンディが答案を見返して眉を上げる。
私は応接室のテーブルに広げられた本を前に、唇を嚙み締めた。
抜き打ちテスト……。しかも、高等部レベルの基礎問題を出され、それを解けと言われたのだ。このくらいならさほど問題ないのだけど……私、馬鹿だと思われてるんだな。
「そんな顔をなさらないでください、オリヴィア様。決して馬鹿にしているわけでは」
「わかってます。ルナール公爵様はさぞや心配なさっているのでしょうね。わざわざアンディ様を派遣したのですもの」
ただの侍女だもの。公爵令嬢に化けようなんて、普通に考えて有り得ない。私が、読み書きや計算ができるってことだって知らなかっただろうし。
「優秀ですよ、オリヴィア様」
くすくすと笑いながら私を見下ろすアンディは、楽しそうですらあった。
「独学でこれを?」
「そうですね。読み書きは両親に教わりましたが、そこから先は本を読んでの独学です。それに、真面目に学んだわけではないので、偏りもあると思います」
部屋にはアンディと二人きり。そうして欲しいと言い出したのはアンディだ。他人には聞かせられない話も出てくるだろうから仕方がないのだけど、私としては、なんだか気まずい。
「これじゃ虐め甲斐がないなぁ。なにもできない
キモッ。性格、悪っ。やっぱ嫌いっ。
露骨に嫌な顔をする私に、アンディは上から下まで嘗め回すような視線を絡ませてくる。
「な、なんですかっ」
身じろぐと、
「いや、化けるもんだなと思ってね。君、屋敷にいた時はパッとしない侍女だったよね?」
言い方ぁぁぁ!
「……そうですね」
ムスッと答えると、ストンと私の隣に腰を下ろし、顔を近付けてくる。
「こんなに変わるんだねぇ」
うへぇ、ムリムリムリ! 私はサッと立ち上がるとアンディを見下ろす。
「私だってやりたくてこんな格好をしているわけではっ」
「あ~、わかってるって。ルナール卿にも散々言われてるんだ。ボロを出すような真似はしないように、って」
両手を上げ、降参のポーズをとる。
「けどさ、笑っちゃうよね、駆け落ちなんて」
フンッと鼻で笑い、頬杖を突くと、続けた。
「爵位どころか、家を捨てて出て行ったんだろ? いつまで持つかなぁ~? あ、ねぇもしかして本物が戻ってきたら、また入れ替わるの? そしたらさ、俺のとこに来なよ。ちょっと君、面白いよね」
すっと手を伸ばし、私の手に触れる。とっさに振り払うと、全身に鳥肌が立った。
「ちょ、やめてくださいそういうのっ」
「あはは、反応可愛い~」
うがぁぁぁ、本当に気持ち悪いっ。
「……さて、勉強の方は思ったほど大変じゃなさそうだね。問題は、ダンス……かな?」
ギクッ、と私は肩を揺らした。気付かれたか……。
「あ、図星? 踊れないんでしょ? だよね~。侍女はダンスなんかしないもんね」
へらへらと笑みを浮かべるこの男を、私は心底嫌いになった。
「じゃ、踊ろうか」
おもむろに立ち上がると、私の手をサッと握り引き寄せる。
「わっ」
腰に手を当てられ、触れそうなほど近くに顔を寄せてくるアンディ。
「大丈夫。ちゃんと手取り足取り教えるから……ね?」
囁くようにそう言うと、いきなりステップを踏み出す。待って! 私基礎も何も知らないんだからっ!
「ひゃっ」
案の定、足がもつれ転びそうになる。そんな私を、アンディは面白がって抱き寄せる。密着が過ぎる! 踊ってるっていうより、抱きしめられてるだけじゃんこんなのっ。
「ああ、いい香りがする。これって香油かな? それとも君の匂い?」
首筋に鼻を押し当てられ、私は……切れた。
「いい加減にしらっせこの変態男がーっ!」
思い切り突き飛ばすと、早口で捲し立てる。
「まったく、どこの世界もみんな同じけ? ああん? 女は男の言うこと聞いてりゃいいって思ってんかこのでれすけっ! いたいた、そういう頭の悪いやり〇ん、田舎に行くとそこら中にいんだわっ。下半身じゃなく上半身で物事考えられないなんてサル以下だかんねっ?」
尻もちをついたままのアンディは、驚いた顔で切れ散らかす私を見上げている。
「なにを言われてどういうつもりで来てんかしんないけど、あんっまり馬鹿な発言ばっかしてたっけ、こっちだって黙ってないかんねっ? はぁぁっ?」
肩で息をする私。
へたり込んで呆けているアンディ。
バタンとドアが開くと、そこに立っていたのは……
「ステファン様……?」
私は慌てて向き直り呼吸を整える。帰ってくるの早くない? まだそんな時間じゃなくない? は? なんでいるのっ?
「……客人が来ていると聞いて、早めに戻ったんだ。なんだか大きな声が聞こえたので驚いて、ノックもせず開けてしまったのだが……どうした?」
見たままを表現するなら、拳を握り締めた私が、尻もちをつくアンディに大きな声で怒鳴っているというおかしな修羅場。我儘令嬢が教育係にケチつけてる風に見える? やべぇやつじゃん、私!
「あ、えっと……その」
言い淀む私の横で、アンディがすっくと立ちあがる。サッと身なりを直すと、ステファンの前に歩み寄り、言った。
「ステファン・マクミリア様、お久しぶりでございます」
……ん? 知り合い?
チラとアンディを見れば、えっ? なにその顔っ? 目がきらっきらに輝いているんですけどっ? なんというか……乙女のような視線。
「いや、すまない……どこかで?」
ステファンは覚えていない様子。
「ちょうど一年ほど前、とある伯爵家で行われたパーティーに参加した際、助けていただいた者です!」
……鶴なの?
「助けて?」
「あの日は体調が優れず、私は壁に凭れ掛かり時が過ぎるのを待っていました。しかし、上司の誘いで参加したパーティー。ただ黙って立っているだけというわけにもいかず、勧められるまま酒を飲み、あちこちに挨拶をし、耐えられず庭で座り込んでしまったのです。それをたまたまステファン様が見つけ、介抱してくださった!」
「……ああ、あの時の」
「このご恩は一生忘れないと、あのとき私は胸に誓ったのです!」
拳を突き上げ力説するアンディ。まさかそんな繋がりがあったとはね。
「大袈裟だな」
と答えるステファンに、アンディは食らいつく。
「とんでもない! 以前よりステファン様のことは存じ上げておりました。聡明で見目麗しく、女性からの人気も高いというのに、それを鼻にかけることもなく淡々としていらっしゃるそのお姿に、どれだけ憧れたか!」
へぇ。憧れてたんだ。その割に自分、最低キャラじゃん。
「そんなステファン様に、幼馴染でもあるオリヴィア嬢が婚約者として選ばれたと聞いたときは、非常にくっ……」
く?
「く?」
私とステファンが首を捻る。
「く……くぉれはしゅごぉい、と!」
絶対違うじゃない。悔しいって言おうとしてたよね? アンディってもしかして……と途中まで考えたところで思考を停止する。そっか、そんな思いでいたのに、オリヴィアが婚約者になるどころかいつの間にか入れ替わって、ただの侍女である私がステファンの隣にいるわけだ。そりゃ気に入らないよねぇ。嫌がらせもしたくなるわけか。
「聞けば、オリヴィアの教育係だということだが、今更なにを?」
訝しむステファンに、アンディはどう答えるのかっ?
「ああ、それはあくまでも建前の話ですよ。オリヴィア様は学力の面で問題になるようなことはないと思われます」
「では……?」
「実は、オリヴィア様は幼いころから、少し体が弱く、運動があまり得意ではありません。ですがこれから先、ステファン様の婚約者として立ち振る舞わねばならなくなった時、ダンスは必須でしょうから」
「では、オリヴィアのダンス講師に?」
「それに、一緒に同行していた侍女がいなくなったと聞きました。私とオリヴィア様は幼馴染。気兼ねなく話ができる友人も必要かと思いまして」
出まかせ言わせたら世界一かもしれないな、アンディ。
ステファンは腕を組み、じっと私を見つめた。そして小さく頷くと、
「言い争うほどに仲がいい、というやつか。なるほど」
と、納得の顔。いつも思うけど、ステファンってものすごく単純よね? そんなになんでも信じちゃって、今まで騙されたりしなかったのかな?
「そんなわけですので、しばらくの間、お屋敷にご厄介になります」
アンディがニッコリとほほ笑んだ。ひとつ屋根の下で暮らすのは本当に嫌だけど、私にはどうすることもできないもんな……。一刻も早く、ダンスを覚えよう。
私は私で、拳を天に突き上げそう誓ったのだった。
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