真珠と血 ― Les Pions de la Cage

@muzinamori_yu

第1話

石畳の街路に、焦げた木の匂いが漂っていた。

馬車の衝突で通りは塞がれ、私は足止めを食らった。

立ち往生していても仕方ない。そう思い、馬車を降りる。

人混みを抜け、気の向くまま歩いた先。

くすんだ木扉に鉄の飾りをつけた、古びた建物。看板すら見ずに扉を押すと、薄暗く湿った空気が肌にまとわりついた。

そこは奴隷商だった。

奥から引き立てられてきたのは、小柄な犬獣人の少女。

垂れた耳が肩に沿い、 白い肌は細身ながらも柔らかい起伏を描き、恥部を覆うのは小さなリボンだけだった。

「最終教育の仕上げに向かうところでして」

 奴隷商は笑う。

少女は足を止め、私を見上げた。

碧眼を真っすぐに映すその瞳には、媚びと訓練された甘えが混じっている。

小首を傾げる声は、まるで甘い香りを伴うよ

「おや、気に入られたみたいですね」

奥の帳場から現れたのは、この手の商売では珍しい女商人だった。

腰まで届く黒髪をひとつに束ね、胸元が大きく開いた深紅のドレス。

大胆な衣装を着こなす自信は、長年この商売で身につけたものだろう。

歩み寄るたびに揺れる裾が、薄暗い室内に艶やかな影を落とす。

「この子はね、表の孤児院で育ったとお客には言いますが……」

商人は唇の端を上げ、耳元まで近づく。

「――本当は、甘えることと従うことしか知らないように育ててあります」

少女は女商人の言葉に合わせるように、足元で尾をゆらりと振った。

まるで見せつけるような仕草。

私の視線を感じ取ったのか、彼女は静かに笑みを浮かべた。

「これから夜伽の教育課程でしたが……どうです? 初物ですよ?」

女商人の長い爪が、犬獣人の胸の側面をゆっくりと撫で上げる。

その瞬間、少女は小さく肩を震わせ、伏せた耳がぴくりと動いた。

頬はうっすらと赤く染まり、視線は床の一点を見つめたまま。

それでも尾はわずかに揺れ、隠しきれない反応が見て取れる。

「教育前に手を付けられることなんて、まずありません」

商人はわたくしの表情を探るように、ゆるく笑みを浮かべる。

「今なら……その反応も、すべて“素”のものですよ」

少女は息を呑み、小さな声がもれる。

「可哀そうなこの子に――ノブレス・オブリージュ、どうです?」

女商人は、まるで私の胸の奥を覗き込むかのように視線を絡めてきた。

軽い冗談めいた口ぶりだが、その瞳には値踏みする冷ややかさと、確信にも似た色が同居している。

犬獣人の少女は、意味がわからないのか、ただ不安そうに目を瞬かせる。

揺れる垂れ耳の先が、かすかに震えていた。

「生まれから運命まで……全部、貴方の手で変えられるんですよ?」

女商人は少女の顎を指先で持ち上げ、私の方へと向けさせた。

その瞳――怯えと、期待がないまぜになった色。

私を映すその視線は、なぜか逃せなかった。

私は女商人の意図を探るように、少女の顎へ指をかけ、軽く口を開かせた。

上顎も下顎も、前歯だけで無く、犬歯までもが整然と抜かれている。

代わりに舌だけが、健康的な薄紅色で小刻みに震えていた。

「……これは」

私の視線を読み取ったのか、女商人は肩をすくめ、にやりと笑う。

「ええ、”それ用”ですとも。噛みつく心配もなければ、傷も残さない――極上品ですよ」

言葉の端々に、あくまで商品としての自信と誇りが滲む。

私は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐにその表情を打ち消した。

少女はただ、じっとこちらを見つめている。

何も知らぬ振りをしているのか、本当に理解していないのか。

その垂れ耳が、わずかに揺れた。

女商人は涼しげな笑みを崩さぬまま、指先で犬獣人の顎を軽く持ち上げた。

唇の間から覗く舌先を、まるで品定めするように眺める。

「……舌も長く、感度も申し分ありません。

 良ければ奥歯も――」

そこでわざと息をひとつ吐き、視線をわたくしにだけ向ける。

「――お抜きしましょうか? それとも……お客様自身の手で?

 どうなさいます?」

犬獣人の少女は小首をかしげ、状況を測るように私を見上げる。

垂れた耳がかすかに揺れ、その仕草すらも計算された可愛らしさだ。

……既に決まっている未来だ。

私は心の中でそう呟きながらも、視線は犬の獣人から離さない。

女商人はそんな反応を見逃さず、唇の端を上げた。

「そうだと……商売が上がったりですが――」

わざと肩をすくめ、軽く腰をひねる。

「――もし良ければ、他の商品も見ていかれますか?」

その言葉には、単なる営業以上の含みがあった。

奥の帳場からは、淡い香の匂いとともに、微かな鎖の擦れる音が聞こえてくる。

犬の獣人の少女は、わたくしの袖口を小さくつまみ、首だけでこちらを見上げる。

その仕草は「行かないで」と訴えるようでもあり、

「連れて行って」と誘うようでもあった。

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