6・裏切りの讃歌

 ——実体の拡張。外界に「神」として君臨していたその体が、偶発的な膨張を加速させる。

「チッ……、想定外が多すぎる。あと少しなんだ。それまで堪えてくれよ」

 プレセツク——ロシア軍用の射場まで難を逃れたアドナイのすぐ側にも、神は躙り寄っていた。

 ロケットは目と鼻の先。アドナイは小型機を降りるが早いか、低姿勢を保ち、クリアリング、そして射撃を開始。彼は今、闘争と逃走を両立して発狂している。視界狭窄トンネルビジョンの中で残された兵士を殺戮し、リロード。可能な限り迅速かつ沈着に、彼は目的地を目指す。ふぅっ、ふっ——。息を切らして、走り続ける。背負っていたセカンダリ武器を放り捨て、ロケットはあと十メートル——その時。

 ロケットが点火した。ゲオルギーリボンの塗られたロケットが、轟音と共に地を離れる。

「お、おいっ………………、おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおいいいいい!」

 絶望だった。自分以外の総てを捨ててまで、生きることの可能性に賭けた彼は、死と命運を共にする顛末をここで悟った。

「ああ、あああ、ああぁ…………」

 彼が跪く間もロケットは飛び続けた。そして神に弾かれ、空中で花火を散らすように爆ぜた。デコピンのように、神の纏う強風に煽られ、四散する粉塵が繊細な科学を破壊した。爆散を遂げたロケットの破片が竜巻に呑まれて、それから遠く、遠い蒼穹へと飛んでいく。どう足掻いても、彼の結末は変わらなかった。

 彼は小銃を手に取り、銃口を口腔に押し込んで、震える指を引鉄トリガーへと運ぶ。自分の終わりがこんなにも無様なものだと、彼は想像できたろうか。受け入れることができたろうか。涙は出なかった。涙が乾くほどの、渇望の枯渇生への諦めだった。

 小さな銃声は神の鳴き声に掻き消され、彼の死は、虚妄と共に無へと帰着した。


 ——神の実体は、善し悪しの区別を一切つけずに大陸を呑み込んでいった。大きさは計り知れず、ユーラシアの喪失に時間はそうとかからなかった。神は自身と私を乗せて、この世を烏有に帰させんと試みる。

 私は怒りの杯神の怒りを鎮めるべく、必死に考えた。頭が煮えて破裂してしまいそうに、考えた。死んでもやめられない中毒ジャンキーになるくらい、考えた。

「ねぇっ——!」

 それでも、解かどうかは分からなかった。だから、とにかく叫ぶ。大きな声で、頭痛がするくらいの、大声で。

「ねぇっ! かみさま——っ!」

 瞳孔の開いた神が、侮蔑を含んだ目線を送る。怪物の擬態のようなものが有象無象と徘徊し、おぞましい。

 狼狽えるな。私の解を、言ってやれ。

「負を思った……。負は、正じゃないかな!」

 鳴き声が、僅かに静けさへと還る。

「私は自分のことを、過去を、後悔を語るのが好きじゃないから、言えないけれど……。ただ! 私の解は、間違いなく私の『生きたこと経験値』が語ってる。原罪の主体である私たちが、反省も知らずに、何度も争いを繰り返す。反省しないから、平和が難しいものであるとわかって、それが実現への行動に繋がるんじゃ、ないかな!」

 ただの憶測に過ぎない。そんなことは分かりきっている。神の言う通り、熟考というのは、そう簡単に概念ことばにはできない。

「『安寧、医療、生』という頂点は、『争い、疫病、死』という基盤の上にある。基盤があるから、頂点が確立される。正を妄信するんじゃなく、正を疑い、負を忌避するんじゃなく、負を注視する。『考える』って、その過程プロセスなんじゃない?」

 もちろん、これが私の解——本当に言いたいことの総てではないんだろう。私の胸中にある渦は、きっと昇華しきれるものではないから。

「もしそうなら、あなただって、人間私たちがその存在を知るから、あなたあなたあなたであることをたらしめることができる。それは秤に乗った『概念』で、その概念が秤を逸脱しない限り、私たちは人間にしか、そしてあなたは神にしかなれない。だけれど、互いのどちらかがその秤から零れた理性を失った時、もう片方に傾いた重しは、片方の概念をも崩壊させる。あなた人間もたかだか『知性』。知性なくして、概念は成立しない。だから、神が人間を排斥のぞくことも、人間が神を厭むことも同義に変わりなくて、それらが罪深い行為であることは明らかなんだよ!」

 肺にある空気がなくなるくらい。ジェット機にも劣らない声量は、酸欠を起こして頭痛を誘発した。今、私は何を言ったんだろう? 自分でも判然理解できない。

「……自己が、非自己とな」

 だけれど、必死の愁訴は、神の心に響いた。その感触を判然と感じたし、私の渦が安定する感じがした。

 怒り任せに浮遊していた神が、ひび割れた地面にゆっくりと着地する。

「貴女の感じたは、それか?」

 そうだね……。

 声帯が枯れてしまったみたいに、声が掠れて喉に詰まる。足の力が抜けて、手が勢いよく地面に着くから、擦り傷が増えてしまった。ヒリヒリと、地味な痛みが、ヒリヒリと。

 ——神の白皙の両手が、私の頬をそっとすさぶ。四つん這いに突っ伏した私は驚きに躊躇わず、面を上げた。

「もう一度言おう。私が未完成である証明は、貴女によって成された」

 私はこの時、懺悔をする人の気持ちがよく分かった。見えるものが晴れやかになって、聞こえるものがすっきりして、総てが洗われたみたいに、覚悟が決まる。


 ッツパアァァアン——。


 やりきった。

 私は、私の解を見つけた。

 撃鉄ハンマーを倒し、無駄な動きは一切なし。俄かに一秒足らず。私は神の胸のちょうど中央を、華麗なまでに撃ち抜いた——華麗にやった自信はないけれど。乾ききった銃声は、私の覚悟の代弁だった。

 自分の握る趣味の悪い金色の銃が、これほどまでに正しさを顕現したことを、私は夢想の錯覚に感じた。

 そして、神の驚く姿は、私の勝利への合図フレアだった。

「どういうロジックかは分からない。知る由もない。ただ、言ったでしょう。あなたも人間私たちと同じ。に嵌ってたんだよ」

 神は目を大きく見開いたまま、何も言わず——なにも、言えないよね。

 擦り傷も、大事な人を喪った傷も、私にはもう、心地の良いもの。

 私の、神に贈る裏切りの讃歌は完結した。

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