5・遭逢、相対して
「——座って?」
華美で、横長で、純白のテーブルがある。その脇にバロック様式の背の高い椅子が二つ。そのうち一つが、自我を持っているかのように自ら下がり、私はその可笑しな状況を、なんの低徊踟蹰もなく受け入れた。今までに何度もその光景を見ていたかのように、ただ、すんなりと。
一歩々々が大きく反響する。コツ、コツ。
それから椅子に腰を落としたら、椅子は優しくテーブルへと躙り寄った。
テーブルに置かれたティーカップには、今までに見たことのない色の液体で満たされている。なんだろう。
周囲は静寂。何も、ない。何もない、白一色の地平が延々悠久。何もなくて、何も聞こえない。耳の感覚が麻痺して、柔い耳鳴りを覚える。それでも、取り乱すことはなかった。冷静に、ティーカップを満たす液体を覗く。風もないのに、ゆらゆらと。
「いかでか、貴女だった」
対面にあったもう一つの椅子が、またひとりでに動く。それから元の位置に戻った時、話し相手が現れた。幾つもの粒子が重なったみたいに、「生命」のスキーマが顕れたのだ。
「私が未完成である証明は、貴女によって成された」
神の真核。華奢な少女のようで、しかし全身はニケの偶像みたく真っ白だった。人間とは思えないほどの、白だ。
「服なんて着ているほうが恥」と言わんばかりに、裸体であることをごく普遍的に捉えているのか、彼女はどうにも隠せない、裸だった。小さなちいさな、裸だ。それはどちらかというと芸術的で、けれど、彼女の姿はゴッホでも、モネでも、ダ・ヴィンチでも、きっと写せないものだろう。その美貌には敬愛、羨望、憎悪、喪失——ありとあらゆる形容が含まれ、それらが想起されては、私の脳裡は鉄を打ったようにぐっと熱くなった。
白い肌、白い髪、白い眸、白い乳房、白い足。その総てが完璧なパーツで、どう見ても完璧で、愛おしくて、そしてなにより怖かった。なぜ怖い? 彼女の胸中だけが、底知れぬ黒だったから。ヴァンタよりも、洞窟の深淵よりも、シェイクスピアの
瓢々、凛として座るその人——私はそれを、「神」と確信した。
「初めまして」
「はじめまして」
互いが挨拶を交わす。それは二人が間合いをはかって抜刀するための、準備ともいえた。この場合の抜刀とは、言葉の鍔迫り合いと見る。
「『フロー状態』なんて言ったものか……。銃捌きと驚異的な身体能力。驚いたよ」
「あ、ありがとう……?」
「ここまで来たのだもの。敵意は非ずして」
神は目を瞑り、手前にあるティーカップの取っ手を摘み、すっと液体を啜る。私は一連の言動を、明確に「敵意」と認識した。
「……どうして?」
「うん?」
数瞬、神は考え込むように黙っていたが、やがて片目を開けて、私を
まるで物体としての質量を帯びているかのように、向けられた視線は重く、逃げようがなかった。
「そうさな——。負を、どう思う?」
「負、を……?」
「少し、難しいやもしれぬ。
暫しの沈黙。言葉の響きで呼応するなら、私の返答は「悪」になる。ただ、そう単純な問いではないのだろう。コノテーションが、
「分からない」
私には、その波紋を汲み取れない。きっと、私が出せる
「うん、解は一つではない。貴女は、それを言葉に寄せられぬだけ。その渦が、あなたの解だ」
「どういう、こと?」
「言葉は『概念』だ。概念とは型だ。人間の創った型で、自然の理、核心は言い表せぬ。そも、百年持つか持たぬかの肉体に、この問いは重すぎるやもしれぬな」
「なら、どうして訊くの?」
「考え、だよ。解を知らずとも、考えることはできるだろう? 人間の讃美に値する価値の一つは『知性』だ」
これも一見、納得のいくものであるけれど、私はそこに疑義の渦を湧かせた。
「考えるから、人は争うし、殺めるし、憎むし、厭むんじゃ?」
「……素晴らしいよ。貴女は、人間の讃美に値する価値を、充分に持っている。真っ当、考えるから、考えられるから、人は争い、殺め、憎み、嘲笑うのだ。『知性』は私が与えたものではないが、同じ知性を持つ者として、それを愚行のための資源とすることを、私は甚だ嫌う」
神は静かに目を閉じた。至って柔らかな面持ちであったけれど、神の怒りが相当であることは自明であった。胸中にある黒が、大きく波を立てている。
「私とて、これが心底にある意思の想起でないことは理解している。けれども、型に当て嵌めて伝えるのなら、これが最適解に近いものなのだ」
ふぅん、と頷く。神の意見は、反撃の隙を与えた。
「なら、あなたも人間と同じ。型に嵌っているよ」
神は再び目を開け、ティーカップを丁重にソーサーへ置いた。神の凝視は私を緊張させるけれど、それがどうにも心地良い。きっと、イドが崩壊してしまっているんだろう。
「あなたがここに干渉したのは、私たちが『負』であるからでしょう?」
神はこくりと頷いて、私を制止した。
「その通りだ。けれども、私が貴女たちと違う点が、一つある」
「なに?」
「『反省』だよ」
「反省?」
「一番直感に触れる譬えを出そう。貴女は、過去に人間が起こした二度の大戦を知っているだろう?」
内心で判然とした答えを思う。紛れもなく、第一次・第二次世界大戦だ。アクション系の映画や小説なら必ず引き合いに出てくる、悲惨なノンフィクション。
「第二次に関しては、八千万人が死んだと推定されている。八千万だ。……それから、人間はどう学んだ?」
「平和への尊重を、学んだ」
「合っているやもしれぬ。けれども、戦争は起きなかったか?」
私が起こした戦争ではないけれど、神の問いに、私は口を堅く噤んだ。苦い感情が、脳裡の熱さを全身へ加速させる。
「たったの五年だ。五年後に、人間は朝鮮で戦争を起こした。その時がまだ、『平和への過渡期』とでもいうのなら、挙げてやろう」
ベトナム、中東、イライラ、湾岸。コソボ、イラク、シリア、イエメン、ウクライナ——。
「皆——人間は愚かであるが故に、喉元を過ぎた熱さを忘れた。未だ喉に熱さを抱えたままで」
もう一度、小さな口に液体を運んでは、神は冷静に言った。
「是非、飲んでおくれ」
そう促され、まだ手のつけていないティーカップを、もうひとたび瞥見する。相も変わらず、液体の正体は分からない。——分からないけれど、意を決して取っ手を摘まんだ。
「あっつっ!」
途轍もない熱さを口内いっぱいに感じた後、ほんのりとした優しい甘い香りが、傷を撫でるように味覚を支配する。苺のような甘さを放ち、薔薇のような棘を持つ。紅茶かな……。
神は笑うこともせず、ただ、静かに佇んでいた。私の一人芝居は、ウケなかったみたい。
「そして、喉元の熱さを感じたことのない者は、のうのうと戦争を軽視した。人間は、反省しないのだよ。『争う』ということが遺伝的、本能的に必要で、またそれを一つの欲求として認知しているからだ」
「いや、でも……」
「まだ納得がいかないかい? ならば、もう一つ。貴女は『ヒトラー』と聞いて、何を思った?」
ヒトラー。ある意味では聞き慣れた名前で、正直な答えは、明確だ。史上最大の悪で、愚者で、罪の深い者。
「歴とした既成事実、彼は非常に可哀想で、残念な人間だ。貴女たちはその名を聞いて、彼に付随したスキーマを連想する。『大罪人』とか、『戦争の首謀者』とか、『ホロコースト』とか」
「それが間違いなの?」
少しばかり、反抗的な態度に出る。冗長した会話には結論が見えないし、手玉に取られて舌が痛い。
神は私が想像していたよりも人間味があって、面倒くさくて、煩わしかった。
「間違いではないだろう。ただ、やはり欠けている。貴女はヒトラーを『人間』として見たか?」
「人間だよ。彼も」
神の口調に明確な怒りが表れた。白に沈む黒が、少しずつ、荒波を立てて主張を強めている。
「人間だと分かっていて、彼の『心理』と見ようと、考えようと、理解しようとしたか?
正体の知り得ぬ空間が、私と神を境に、きっぱりと割れたように二極化する。目視で理解できるものではなかったけれど、自分の直感が、確かな危機を受信した。
私は、神の逆鱗に触れてしまったのかもしれない。周囲の温度が異常な上昇を始める。全身の肌を、毛を、感覚を、ぶわりと舐るような暑さ……。
「その点、私には『反省』が利く。はて、この思考の帰結を『反省』と定義していいのかは、分かり得ぬことであるが」
神が音を立てて椅子を立つ。そのまま、慣性は椅子を後ろへと追いやった。神の小柄な体躯に、ラニアケアよりも大きな恐怖、憎悪、衝動が宿っている。
「私は反省した。反省し、その結果、ここを破壊すると決めた。貴女のように、解に近い存在を喪うのは少し……残念だけれど」
人間の創ったどんな奇妙なサイレンより、気味の悪くて不快な音。音源を間近にして、私の耳は完全にやられた。
頬が痙攣、顔を顰める。頭がジンジン、ズキズキと。梵鐘が頭の中で鳴り響くみたいで、圧し潰されそうな音圧と音波。急転直下の展開。私も急いで席を立つ。地面が揺れて、亀裂が電撃のように迸る。体性感覚の麻痺。苦しい……っ。
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