冷房の神様
九十九 弥生
冷房の神様
今年の夏は、どうやら地獄から直輸入されたらしい。
アスファルトは朝から焼け石みたいに白く光り、昼を過ぎる頃にはスニーカーのゴム底を溶かす寸前の熱を孕んでいた。風なんてものは吹かない。吹いたところで、干からびたドライヤーの息と変わらない。
駅前のベンチに腰を下ろす老人は、まるで串刺しにされた肉のようにじっと汗を滴らせ、通りを行くサラリーマンたちは皆、顔を天日干しされた魚みたいに乾ききっている。
彼が住んでいるのは築四十年の木造アパート。ワンルーム六畳、畳は日に焼けて薄茶け、壁紙はすでに剥がれかけている。夏になればゴキブリが堂々と廊下を闊歩し、冬には隙間風が布団の中まで忍び込んでくる。それでも敦はここを選んだ。理由は単純明快、「大学から近い」から。家賃が安いのも、もちろん大きかった。便利さと安さ、この二つの餌に釣られて、彼はこのボロ屋に自分の青春を預けたのだ。
彼自身もそれを分かっている。つまり自分が大したことのない人間で、大したことのない部屋に住み、大したことのない日々を積み重ねている、という事実を。
敦のアパートの階段は、鉄製の手すりが昼のうちに焼けてしまい、夜になってもまだ熱を抱えていた。指で触れば、やけどするほどではないにしろ、「生ぬるい皮膚の残り湯」に触ったみたいにじっとりしていて気味が悪い。
蝉はもう発狂したように鳴いている。まるで「今年こそ人類を仕留める」と決意した殺し屋の軍団みたいに、街路樹を震わせていた。
――そして部屋に入った瞬間、蒸し風呂の空気が肺にまとわりつく。
息を吸うだけで体の奥に熱が沈殿し、胃袋まで煮えたぎっていくようだった。もし文明が発明した冷房というものが存在しなければ、人間はただのニチレイの冷凍ハンバーグの解凍途中、あるいはコンビニ弁当のレンジ加熱を待つ肉団子でしかない――敦はそう痛感させられた。
迷わずリモコンに手を伸ばし、電源ボタンを押す。エアコンが動き出した。がたがたと情けない音を出しながら、冷たい空気を出す。敦は冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、今日は涼もうと思った。
しかし、急に電源がきれた。
さっきまで咳をするみたいに「カタッ、カタタッ」と息をしていたのに、次の瞬間には沈黙。まるで自販機に百円玉を入れた瞬間、がこんと釣銭口にそのまま戻ってきた時みたいに、拍子抜けするほどあっけなく力尽きた。
敦はリモコンを二度三度と押したが、返ってくるのは沈黙だけ。画面には無表情な「22℃」の文字。テレビの通販番組ならここで「最新機種なら瞬間的に超冷風が!」と主婦が歓声をあげる場面だろう。だが敦の六畳間は、真夏の地獄の再放送を延々と流しているだけだった。
敦は慌ててリモコンの裏を開け、百円ショップで買った単四電池を新品に入れ替えた。指先にまだパッケージのビニール片がくっついていたが、そんなことはどうでもいい。問題は、冷気が戻るかどうかだ。
――だが、戻らない。
「リモコンが死んでいても、本体から直接いけるだろ」
そう悪態をつきながら、壁に取り付けられたエアコンのパネルを押す。メーカーのロゴの下にある、小さな灰色のゴムのスイッチ。誰もが「最後の切り札」と信じている場所だ。
それでも――うんともすんとも言わなかった。
エアコンが、死んだ。
その事実を受け入れたくはなかった。だが、現実は無情にそう告げていた。文明の守護神は、二十畳分の部屋を冷やすことなく、たった六畳の安アパートの片隅で息絶えたのだ。
仕方なく窓を開けた。
だが入ってきたのは風ではなく、むっとした熱気と騒音だけだった。向かいの部屋からアニメの主題歌が流れ込み、テレビの中の声優たちが「夢をつかめ!」と絶叫している。
けれど敦の部屋に現実に届いたのは、汗と湿気と安アパート特有の埃の匂いだけだった。
外からの空気はまるで映画『マッドマックス』の荒野みたいに熱く乾いていて、「おまえはもう蒸し焼きだ」と囁いているように思えた。
エアコンが死んだのは機械の故障かもしれない。だがその夜、敦は思った。あれはきっと神の裁きだ、と。
文明の利器を失った現代人ほど滑稽な生き物はいない、と敦は思った。
エアコンが沈黙した瞬間から、自分はまるで原始時代に放り出されたみたいにオロオロしている。火打ち石も持たず、毛皮もまとわず、ただTシャツと短パンで六畳の洞窟を汗だくで歩き回るだけ。
外に出ればコンビニの冷蔵庫があって、缶チューハイやアイスが並んでいる。それなのに、この部屋一つが冷えないだけで人間らしさが剥ぎ取られるのだ。
「文明がなきゃ、俺なんて動物園のゴリラ以下かもしれん」
独り言が口をついて出る。少なくともゴリラはエアコンに頼らずに夏を越しているのだから。
人間の誇りだの知性だのは、壁にぶら下がった有名メーカーの四角い箱一つに命綱を握られている。そう考えると、馬鹿らしくて笑えてきた。笑いながら、汗が首筋を伝い落ちるのを感じて、ますます惨めになった。
午前二時を過ぎたころ、敦はベッドの上で天井を睨んでいた。汗でシャツが背中に張りつき、シーツは海水浴場の濡れタオルみたいにじめついている。
そのとき――死んだはずのエアコンが、ふっと息を吐いた。電源ランプは灯っていない。だが送風口からは冷気が流れ出していた。
冷気、と言うにはあまりに妙だ。それは冷風ではなく、湿った吐息だった。しかもそこには、声が混じっていた。
――いま夜を救うものは、ここにしかありません。
――電気代は不要です。心を差し出してくださればいい。
――あなたの肉体を清め、汗を祓い、永遠に冷やしましょう。
その囁きは、壊れたラジオのノイズに聖歌を混ぜたような調子だった。熱気にやられた脳には、まるで街角でチラシを配る新興宗教の勧誘と同じ響きに聞こえた。安らぎと恐怖を一緒くたにした、ねっとりとした声。
敦は身を起こし、エアコンを睨んだ。壁にぶら下がった白い箱は、もはや家電というより、説法台に立つ伝道師の顔に見えた。
吐息は強くなり、ささやきは熱心さを増していく。
――あなたの部屋を冷やすのは義務ではありません。これは祝福です。
――文明が見放しても、われらは見放しません。
――さあ、扉を開いて。魂を冷房の神に預けなさい。
押しつけがましく、うさんくさい。だが同時に、熱にうなされた脳にはそれが妙に理屈に合って聞こえる。なにしろ現実のほうがもっと地獄なのだから。
敦は枕元に転がっていた空のペットボトルを見やった。中身はとうに飲み干しており、残っているのはぬるま湯の匂いだけ。セブンのアイスコーヒーも、コンビニの冷凍うどんも、この六畳間ではみんな地獄の鍋に放り込まれたように溶けていく。
「……わかったよ、魂なんてくれてやる」
唇から漏れた声は、冗談半分であり、本音半分でもあった。魂なんて安物だ。日雇いバイトで時給千円にもならない俺の存在証明が、そんなに価値あるわけがない。もしそれで、この地獄のサウナから逃げられるなら、安い取引だ、と。
敦は、まぶたを閉じた。まるで賃貸契約書に判子を押すように、魂の印鑑を押す気分だった。
その瞬間、風が強くなった。エアコンは電源の入っていないはずの送風口から、猛烈な吐息を吹きつけてきた。ベッドのシーツがぐっしょりと濡れ、冷たさが骨まで染み込む。汗ではない。これは結露のはずだ、と敦は必死に思い込もうとしたが、体にまとわりつく冷気は、どう考えても水滴より指先に近かった。
送風口の闇から、黒い腕が伸びてきた。一本、二本……やがて十本、二十本と数えきれなくなり、それらが敦を包み込んだ。
「おいおい、俺はステーキじゃないぞ……」
思わず口から出た。だが状況は冗談抜きで真空パックそのものだった。スーパーの精肉コーナーでラップに閉じ込められた牛肉。それも賞味期限ギリギリで、値引きシールを貼られる寸前の哀れな切り身。その肉と今の自分に違いがあるとすれば、牛肉はまだ冷凍保存されている分だけ恵まれているということだ。
逃げ出そうと体をよじってみるが、動かない。いや、動けない。体温が急激に奪われているのだ。腕も足も、自分のものではないように痺れ、重く沈んでいく。
頭の中にふと『タイタニック』のラストシーンが浮かんだ。冷たい海に沈むディカプリオ。だが自分にはケイト・ウィンスレットは現れないし、浮かぶドアすらない。あるのは六畳一間のベッドと、壁に取り付けられた冷房の神様だけだ。
――あなたを冷やすこと、それが祝福です。
囁きはますます熱を帯びていた。まるで熱心な牧師がマイクを握りしめ、信徒を救済に導く瞬間のように。
敦は笑いながら震えていた。自分が最後に笑うネタが、こんな馬鹿げたエアコンの故障だなんて。これじゃホラー映画でもなく、安っぽい深夜バラエティだ。だが観客はどこにもいない。
次の瞬間、祝福は暴力に変わった。
敦は逃げ出そうとベッドから身を起こそうとしたが、体は鉛のように重く、動かない。いや、違う。体温が急激に奪われ、筋肉が氷水に沈められた肉のように固まっていた。
部屋全体が冷蔵庫へと変貌していく。壁一面に霜が広がり、六畳間の薄い壁紙が白く凍りついていく。畳には霜柱が伸び、天井からはゆっくりと氷柱が垂れ下がった。まるで安アパートが丸ごと業務用冷凍庫になったようだ。
呼吸をするたび、肺の中まで氷が張りつく。敦の意識は朦朧とし、目の前のエアコンを冷房の神様と錯覚し始めていた。壁に据えつけられた白い箱は、もはや家電ではなく祭壇であり、祈りを捧げる対象だった。
――契約完了。
――永久保証。
――あなたの肉体を冷やし、魂を保存します。
囁きは、耳元に直接氷を押し当てられるように鋭く、冷たく響いた。
敦は笑おうとしたが、唇は凍りついて動かない。かすかな意識の中で思った。
――「俺はついに、ジャパネットたかたじゃなくてフリーザーたかたと契約したんだな」
最後に浮かんだそのくだらない冗談が、彼の冷たい笑い声となって、凍りついた部屋の中に微かに響いた。
翌朝、アパートの廊下にスリッパの擦れる音が響いた。
大家が古びた鍵を回し、ドアを押し開ける。中からは、真夏のはずなのに吐く息が白くなるほどの冷気が漏れ出した。
エアコンはもうそこにはなかった。壁から無理やり引き剝がされた跡が残り、その奥には古い塞がれた窓が露出していた。コンクリートのひび割れが、ちょうど墓石の筋のように見えた。
「またか……」
大家は鼻をすすり、さして驚いた様子もなく笑った。
「前の住人も同じこと言ってたよ。夜中に勝手に冷えるってな。まあ、電気代ゼロで涼めるなら得だろ」
ベッドの上には、人の形に凍りついたシーツが残されていた。肩の丸み、足の曲がりまでが、まるで氷の彫刻のように浮かび上がっている。
だがそこに氷室敦はいなかった。あるのはただ、真夏の六畳間に不釣り合いな冬の亡骸だけ。
大家はしばらくそれを眺めたあと、鼻で笑い、窓を閉めた。
外では蝉が、まるで何事もなかったかのように鳴き続けていた。
冷房の神様 九十九 弥生 @no_quarter_73
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