第16話 - ティーカップと視線と小さな火花と
雨上がりの午後、俺の家のリビングは、まだ少し湿気を含んだ空気に包まれていた。
天城と来理は、それぞれタオルを肩に掛けたままソファに腰を下ろしている。
その距離は、ほんのわずかに俺を挟んで左右。まるで見えない境界線を張っているみたいだ。
「……とりあえず、お茶でも入れるか」
俺はキッチンへ向かい、二人分のカップに紅茶を注いだ。
砂糖とミルクはテーブルに置いて、それぞれが好みに合わせて準備できるようにする。
「ありがと、佐伯」
天城は素早くミルクを注ぎ、スプーンで軽くかき混ぜる。
その視線はカップの中ではなく、ほんの一瞬だけ来理の方へ向けられていた。
「ありがとうございます、佐伯先輩」
来理はゆっくりと砂糖を二杯入れ、ふわっと笑う。
──が、その笑みは天城にもはっきり見える角度。
微妙な沈黙。
目に見えない火花が、俺の両隣でパチパチと弾けているような気がする。
⸻
「そういえば莉音さん、さっきの服……」
来理が口を開いた瞬間、天城のスプーンがカップの縁にカチンと当たる音が響いた。
「……あれは却下。ふしだらすぎる」
「ええー、でも佐伯先輩は似合うって」
「佐伯は優しいから、そう言うだけよ」
二人の会話が、だんだん俺に矛先を向けてくる。
「ちょっと待て、俺は何も……」
言い訳しかけたが、二人同時にこちらをじっと見てきて、言葉を飲み込んだ。
⸻
お茶をすする音だけがしばらく響く。
けれど、二人の視線はときどき交差し、そのたびに俺の肩や腕にほんの少し力が入る。
天城は俺のマグカップに気づき、何気なく言った。
「ねえ、それひと口ちょうだい」
「あ、じゃあ私も……」
「来理は自分の飲みなさい」
「莉音さんだけズルいです」
気づけば、俺のマグカップが右へ左へと行き来している。
そのたびに二人の指先が俺の手に触れそうになって、心臓に悪い。
⸻
紅茶がなくなる頃、ようやく空気が落ち着いた……かと思ったら、天城が小さく笑った。
「ねえ佐伯、今度は私だけ誘ってね」
「じゃあ私もです」
二人の声が重なり、また火花が散る。
俺は天井を仰いで、小さくため息をついた。
──この二人の距離感は、まだまだ縮まるどころか、これからもっと複雑になりそうだ。
紅茶を飲み終えたあとも、天城と来理の間には見えない線が漂っていた。
笑顔を交わしているようで、その実どちらも譲る気がない。
俺はソファの真ん中で、まるで火薬庫に座っているような心境だ。
「……そうだ、二人とも」
沈黙を破るように俺は話を切り出した。
「来週、文化祭の準備始まるだろ? お前らのクラスは何やるんだ?」
天城が先に答える。
「うちはカフェ。制服の上にエプロン着けて接客するんだって」
その口調は軽いが、目の端で来理を意識しているのがわかる。
来理も負けじと笑った。
「私たちも喫茶店です。ちょっとレトロ風の衣装を着る予定です」
──衣装、と聞いた瞬間、天城の眉がピクリと動く。
「レトロって……ああ、また露出高いやつ?」
「そんなことないですよ。ちゃんと上品です」
「上品、ねぇ……」
火花再び。
俺はこの空気を和らげようと、話題をすり替える。
「じゃあ、準備のときはどっちも手伝えないな。俺は──」
「手伝ってくれますよね?」
天城と来理、同時に振り返る。
二人の視線が重なり、その中央に俺。
逃げ場なし。
⸻
翌日。
放課後の廊下で、文化祭の準備メンバーがそれぞれ集まりはじめていた。
天城は教室前で同級生と笑っていたが、俺を見つけると真っ直ぐ歩いてくる。
「ねえ佐伯、準備手伝える日、ちゃんと空けてよ」
「いや、俺も自分のクラスあるから──」
「分かってるけど、休憩時間だけでもいいから」
そこへ来理も現れる。
「先輩、うちのクラスにもぜひ。ポスター描くの手伝ってほしいです」
「あ、いや、その……」
二人の声が交互に、時に重なって耳に飛び込んでくる。
それぞれのクラスの廊下を往復させられ、気づけば俺は両方の文化祭実行ノートを抱えていた。
⸻
帰り道、夕焼けの下で三人一緒になる。
天城が歩きながらふと笑った。
「佐伯、文化祭で倒れないようにね」
来理も隣で微笑む。
「でも……両方手伝ってくれるの、嬉しいです」
同じ「嬉しい」でも、そこに含まれる意味はまるで違う気がする。
二人の間に流れる見えないやり取りを感じながら、俺はただ前を向いた。
──文化祭。
準備が始まれば、この距離感はもっと複雑になっていく。
それだけは、間違いなかった。
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