中学生時代

 黒板には白線の正方形が描かれていた。山岸先生の手でランダムに数字が振られていく。それらと手元の紙の数字を見比べて、私は緊張していた。クラス発表を終えたばかりの教室は賑やかだ。外は良い天気なのに、私の心は全く晴れない。数少ない友人達とは離れてしまい、新しいクラスの中で独りぼっち。教室の中で寄る辺のない私は、改めて目だけで周囲を見渡した。先生が書く数字に、あちこちから喜びの声や大袈裟な嘆きが上がっていく。特に大きな反応をしている、一軍のグループの華やかな人達。この人達が今後、クラス内のあれこれを仕切っていくのだろう。あからさまに嫌味を言ってくるような人達ではなさそうだが、それでも大声で笑う雰囲気は馴染めそうにない。あの人達の中の誰かと隣同士にはなりたくない。せめて、女子であって欲しい。

 しかし、私の願いは叶わなかった。


「あ、隣なんだ」


「あ、はい……」


「何でそんなに固くなるの? 俺達、クラスメイトでしょ」


 私の隣になったのは、野球部のエースで副キャプテンの高瀬悠斗くんだ。日焼けした肌と笑顔が眩しい。私とは正反対の人種が隣に来てしまった。


「い、いや、高瀬くん相手にそういうわけには、」


「『悠斗』で良いよ。うちのクラス、早瀬もいるから聞き間違えやすそうなんだよね。だから、名前で呼んで」


「じゃ、じゃあ、『悠斗くん』って呼ぶね……」


 へらりとした笑顔なのに、圧がある。これが一軍パワーというやつか。屈した私は、大人しくそれに従うことにした。


「うん、そっちでお願い」


「わ、分かった」


 笑顔と共に差し出されたその手に、私はおそるおそる指だけ伸ばす。怯える私の手を見過ごして、悠斗くんは強引に握ると。ぶんぶんと上下に振った。


「一学期の間、よろしく!」


「こちらこそ、よろしくお願いします……」


 一軍男子、恐るべし。私が悠斗くんに持った感想はそんな感じだった。



 中学三年の二学期中間テスト。高校受験が本格化する直前の結果発表は、皆気合が入っていた。答案用紙は、ただならぬ緊張感の中で出席番号順に返却される。どうやら私は、自己最高点を更新できたようだ。点数を見て安心した隙に、いつの間にか悠斗くんは私の答案用紙を覗き込んでいた。


「未来、98点だったんだ」


「ゆ、悠斗くん!?  え、見たの?」


 今さら答案用紙を隠す私に、肘を付いた悠斗くんの指は自身の答案用紙を指す。そこにある数字は悪くはないものの、私よりは低い数字だった。


「やっぱ、国語だけは敵わないなぁ~、どうせ未来がまた学年トップだろ」


「悠斗くんだって数学得意だから、そっちの方が羨ましいよ。私なんて、いつも平均点ギリギリだよ」


「でもそれ以外はちゃんと平均点は余裕で越えてるだろ。他が出来るなら、数学の点数だって上がるって」


 心配していた隣の席の悠斗くんとの関係は、思ったより穏やかなものだった。集団の中にいる彼はちょっと近付き辛いけど、こうやって隣同士でいる時の悠斗くんは案外気安い。


「そうかな…、自信ないなぁ…。受験も近いのに、どうしよう…」


「そんなに気にするような成績でもなさそうだけど」


「でも、石央高校が第一志望だと、ちょっと微妙なんだよね…」


 前の時間に返却された数学の答案は、お世辞でも大丈夫なんて言えるような点数ではなかった。かろうじて、平均点は取れたが、地元トップの進学校を志望するには心もとない点数だったのだ。


「そんなに心配なら、俺が教えるけど」


「良いの? でも、迷惑じゃないかな?」


 悠斗くんからの提案に、私は目を見開く。私には得しかない話だが、悠斗くんには損しかないじゃないか。言おうとした言葉は、悠斗くんのそれで遮られた。


「俺から言い出したんだから気にするなって。もし、気になるなら、国語教えてよ。文法とか苦手なんだ」


 クラスの真ん中で注目を集めている人から、面倒見の良い隣の席の人へ。悠斗くんの印象は、ここ数ヶ月ですっかり変わってしまった。黙っているとちょっと怖いけど、くしゃりとした顔は人懐っこくて良いと思う。


「…じゃあ、お願いしてもいい?」


「任せろ! 一緒に勉強して、一緒に石央高校、合格しような!」


 親指を突き立てる仕草が力強くて、二人で顔を見合わせて吹き出してしまう。その後、おしゃべりするなと、先生に注意されて。二人同時に頭を下げて、謝ったのも良い思い出になった。



 正月気分が抜け切らない教室の壁には、誰かが作ったカレンダーが提げられていた。卒業式までの残り少ない日数が書かれたそれはカラフルで。その騒々しさが目に痛くて、私は顔を伏せた。


『すまない、こんなタイミングでリストラされるなんて』『未来の大事な時期に、本当にすまない』


 仕方ないよ、お父さんは悪くない。だから、謝らないでよ。


『だって、未来は高校受験で、これからお金が、』『隣町の私立に行かせるお金なんて、どこにも』


 こんなタイミングでごめんね、お母さん。そんなお金、どこにもないよね。


『椿ヶ丘女子なら、藤原の成績でも』『それにバイトも可能、』


 たくさん調べてくれてありがとう、先生。大変、でしたよね。他にも生徒はいるのに。

 でも、どうして。どうして、こんな事になっちゃったんだろう? こんな思いをしないといけないんだろう? 私が何かしたのかな?

 降り出した雪が、グラウンドの土に染み込んでいく。冷え切った教室はがらんどうで、私は動けずにいた。思ったより、ずっと時間は過ぎていたらしい。もうすぐで、最終下校時刻だ。人の声はなく、時計の針の音がやけに耳についた。

 冬休みに入る直前、父親がリストラされたのだ。急に決まったそれは、私の進路すらも揺るがすものだった。

 万が一、石央高校に落ちてしまったら、隣町の私立高校へ行くしかなくなる。でも、その高校の入学金は二十万円。学費は年間五十万越え。他にも色々と経費がかかるらしい。

 私の成績がもっと上なら、数学がもっと出来ていれば、こんな事に悩まなくて済んだのに。


『未来の成績が石央高校の、合格圏内だったら、』


 ―そうか、私が悪いんだ。全部、全部私が悪かったんだ。


「悠斗くんには、迷惑かけちゃったな」


 こんな私に、悠斗くんは根気強く教えてくれた。小テストで一点でも上がれば、一緒に喜んでくれた。折角、いっぱい教えてくれたのに。ようやく、テストの点数にも反映されるようになって来たのに。一緒に石央高校へ合格しようって言ったのに。でも、全部が全部、遅すぎた。


「もっと早くから、数学を頑張れば良かったなぁ、」


 石央高校合格のボーダーライン上にいる私に、山岸先生が薦めてきたのは椿ヶ丘女子高校の推薦入試だった。そこなら、私でも学費全額免除の可能性がある。それに、バイトだって出来る。内申点は既にクリアしてるし、面接と作文の試験だから、石央高校のみに絞るよりは安全だろう。山岸先生からの優しくて残酷な提案に、私は頷くしかなかった。

 雪が降る。この雪が積もって、やがて溶ける頃。私はどこに行くんだろう。どこに、行ってしまうんだろう。



 吹きすさぶ海風が連れて来たのは、皆より少し早い合格通知と悠斗くんへの罪悪感だった。バケツに手を入れると、水はまだ冷たい。もうすぐ三月なのに、未だ寒さの方が勝っていた。


「そういえば、昨日、野球部の先輩に会ってさ。『高校の近くにおいしい大判焼き屋があるから、絶対食べろ』って。未来、甘いもの好きだよな。飴とかくれるし」


 窓を拭く手を止めて、悠斗くんは突然私に話しかけてきた。教室には他にも人がいる。クラスの人気者と三軍女子が話しているなんて、変な組み合わせだ。なのに、そんなものはお構いなく振る舞える性格が少しだけ羨ましい。


「うん、好きだよ」


 私の返事のどこがそんなに嬉しいのか、俄に悠斗くんは破顔した。


「じゃあ、一緒にその大判焼き屋に行かない?」


 ごめんね、悠斗くん。その約束は果たせそうにないや。喉で止まった言葉を、私は無理やり飲み込んだ。


「いいね、行ってみたい」


 どうにか答えると、悠斗くんはますます笑みを深くする。そうやって笑う悠斗くんが、今の私には苦しい。悠斗くんの優しさが眩しすぎて、私が潰されてしまいそうになる。


「約束な」


 約束を破る事しか出来ない自分が悔しい。そして、悲しい。


「大判焼き屋に行くためにも、お互い受験頑張ろうぜ」


「…うん」


 悠斗くんが語る未来に、小さい声で答えた私はいない。そして、いつか遠い日の思い出になってしまうんだ。悠斗くんも、私も。

 拭き掃除を再開した背中がぼやけて見えて、私は俯くしかなかった。



 教室で最後のホームルームが行われる。すすり泣く声が響く中、私は隣の悠斗くんの様子だけが気になっていた。この時間が終われば、完全にフリーとなる。下駄箱から校門までのルートを在校生が花道として並ぶまでの間、卒業生は教室待機となるのだ。


「では、これで私からの話は以上だ。皆、頑張れよ」


 山岸先生からの餞が終わる。学級委員の号令で立ち上がると、全員で礼をした。途端、緊張感はぷつりと切れ、教室は騒ぎ出した。


「未来、」


 あちこちで卒業文集に寄せ書きを始めたり、写真を撮り合う姿がある。しかし、それらに混じる事なく、悠斗くんは私だけを見つめていた。


「…どうしたの?」


「あの、」


 言い淀む姿には、いつもの明るさはない。きっと、訊きたいんだろう。どうして、受験日に石央高校にいなかったんだ、とか。いつ、進路先を変えたんだ、とか。


「ごめん、急いでるから」


 何も言えなくて、ごめんね、悠斗くん。本当に、ごめん。

 まっすぐな視線が受け止めきれなくて、私は先を急いだ。引き止めるように、悠斗くんの右手が私の左手を掴もうとする。しかし、すんでのところですり抜けた左手は、空中に弧を描いた。


「さよなら、悠斗くん」


 言い残して、私は教室を出た。背中の向こうで私の名前を呼ぶ悠斗くんの声が聞こえた気がしたけど。もう、私に届く事はなかった。

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