隣の席にいた未来から

武村ひかり

プロローグ

 暗闇が古びたアパートを包む。藤原未来は冷えたドアノブをゆっくりと回した。隣人は少しくらいの騒音で非難してくるような性格でもない。至って穏やかな好々爺だが、最近はどうやら体調不良らしい。時々、食べ切れないからと収穫した野菜を分けてくれる隣人のために、ちょっとの負担でも取り除いてやりたいのだ。ガチャリと、硬い音を立ててドアは開く。三和土には通勤用のスニーカーとサンダル、パンプスが並ぶ。下駄箱の中にはレインブーツと屋外用の掃除セットを置いていた。使い古された物達の中で、真新しいパンプスだけがやけに浮いている。先週末に近所のショッピングセンターで購入したそれも、役目を終えた後はすぐに下駄箱行きだ。未来の日常には不似合いのそれは、友人の結婚式に参加するために買い求めたもの。ドレスはレンタル出来るが靴は用意した方が良いと、職場の先輩のアドバイスに素直に従ったのだ。

 照明の紐を引っ張れば、途端に部屋は明るくなる。リモコンの電源ボタンを押せば、最近よくみかけるタレント達が俄かに騒ぎ出した。無音だった部屋が笑い声で満たされる。今朝そのままにしていた食器を丸テーブルから持ち上げて、流し台へと置いて。コンビニ弁当をレンジに入れて、つまみを捻る。音を立てて、回転が始まった瞬間。未来はようやく壁に吊るされたドレスを見た。

 落ち着いたデザインの、紺色のドレス。まるで中学生時代に着ていたセーラー服の色のようだ。久しぶりに思い出した記憶は、レンジの呼び出し音にかき消されていく。思い出に浸るよりも、今は空腹を満たすのが先だ。現実を優先するように、取り出した弁当の蓋を開けた。

 月末に参列する結婚式の友人とは、高校時代からの仲だ。とはいえ、直接会うのはかれこれ五年以上になる。数少ない友人でもある彼女は、『結婚式には必ず呼ぶね』といった約束を律儀にも覚えていてくれたのだ。多分、未来も同じように返したのだと思う。しかし、その約束は果たされそうにもない。

 テレビには有名な男性俳優が映る。未来が学生時代の頃にデビューした俳優は当時アイドル的な人気を博しており、未来のクラスメイトにもファンが複数いた。しかし、今や彼女達もすっかり落ち着いている。早い人では今度小学生に上がる子どもがいるらしい。昔とは変わらない美貌、否、また違った味のある顔立ちになった俳優はやはり変わらずに幾多の人を虜にしていた。

 変わらないもの。変えていくもの。

 そのどちらにも、自分はなれずにいる。足踏みする現実を噛み砕いて、未来は胃袋へと流し込んだ。引っかかってしまう喉元が妙に痛くて、目尻が少しだけ濡れてしまう。

 テレビに出るくらいの芸能人ならいざ知らず、ごくごく普通の、ありふれた一般人ならば年齢と共に容姿が衰えていくのは当たり前だ。結婚だって、未来くらいの年齢だったら、していない女性もまだまだ多い。だから、冴えない地味な顔で、一度も彼氏すら出来ず、日曜日の予定も空白がデフォルトだって気にしなくていいんだ。そう、思いたい。思い込んでいたい。普段よりしょっぱく感じたハンバーグ弁当をどうにか完食すると、容器を片付けるために未来は立ち上がった。明日は休み。やっぱり予定はないが、遅く起きてしまったとしても掃除くらいはしよう。夜更かしを決めた未来の手にはブラックコーヒーを注いだマグカップがあった。番組表を確認しようとしてリモコンに伸ばした手は、しかし、空中で止まった。


「何、これ……?」

 

 弁当を広げていたテーブルの中央で、静かに鎮座するそれ。突如現れた不審物は、まるでずっと最初からそこにあったかのように未来を見上げていた。


「これ、ボタン?」


 金色に輝く、学ランのボタン。至近距離でこんなにまじまじと観察した事は初めてだったが、それがボタンなのは一目で分かった。未来が通った中学の学ランのボタンもこんな感じだった気がする。標準的なデザインなのだろう、桜模様の真ん中には『中』のレリーフがあった。

 ついさっきまではなかったはずの、学ランのボタン。ここで弁当を食べていた時は確かになかった。それに、未来は学ランのボタンなんて元々持っていない。男兄弟もいなければ、学ランを着るような年頃の男子の親戚もいない。同じアパートに住む男子中学生のものか、職場仲間の息子のものが未来のカバンにうっかり入ってしまったのか。何だか偶然すぎるが、ありえなくもないだろう。週明けにでも皆に訊いてみよう。カバンに入れるため、未来はボタンを摘まんだ。メタリックな色合いのわりに、それは軽かった。目の高さに合わせてみると、細かい傷があちこちに付いている。思ったより古そうだ。校章が刻まれているわけではないから想像でしかないが、本当に未来の母校のものかもしれない。不意によぎった確信は、巻き起こった轟音で潰された。

 ぐらりと、頭が下へ落ちていく。摘まんでいたボタンがほのかに温かくて、未来は思わず握り締めた。したたかに打ったはずなのに、けれども痛みはやって来ない。床にラグマットは敷いていたが、使い古されたそれが衝撃を吸収しきるわけがないのだ。何より、未だに落下する感覚がある。先程より目を閉じていた未来の瞼は、次第に重さで開けなくなっていく。ぼんやりとしていく、意識。どうにか抵抗していたが、生温く纏わりつく空気が未来の体を弛緩させていく。


「待ってるから、」


 あらかじめ知っていたような、懐かしい声。幾重にも連なる声が未来の鼓膜を叩いた。そういえば、遠い昔に聞いた事があった気がする。たとえば、中学生の、あの頃に。きらきらした海面を背景に、あの教室で。


「ずっと、君を待ってる」


 最後に聞こえた言葉が耳に届いて、未来の意識は完全に途切れた。



 

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