第二話 影の記録者
塔の通路はいつ終わるとも知れなかった。
灰色の鉄板と格子床が続き、天井は影の層に溶けて見えない。どこからともなく白煙が湧き、すぐに消える。塔が呼吸している──そのことを忘れまいとして、タクミは歩幅を一定に保った。呼吸と歩調を合わせれば、鼓動の乱れに飲まれにくい。
背後の角の向こうに、赤い光点が二つ、時折ちらつく。歯車警備機構。あれは塔の「白血球」だと直感した。侵入者を見つけ、ひたすらに排除する。武器を振るう腕は自分にはない。あるのは工具と、時おり訪れる世界の一拍の遅れ──時震。それだけだ。
曲がり角を抜けると、壁一面に巨大な鏡が埋め込まれていた。
錆びとひびで表面は荒れ、映る像は裂け、滲んでいる。タクミが近づくと、鏡はじわりと明度を増した。そこに現れたのは、自分……ではない。幼い子供。七つか八つ。濡れた前髪が額に貼りつき、薄い布の服は血に染まっていた。子供は鏡の中でこちらを見て、唇だけを動かす。
声は聞こえない。ただ、言葉の形は読めた。
――おまえは だれだ。
思わず一歩退く。心臓が強く打ち、世界の鼓動と合わなくなる。逆拍だ。タクミは自分の名を心の奥で繰り返した。タクミ、タクミ、タクミ。名は杭だ。杭を打て。揺れる足場に、仮初めでも杭を打ち続ける。
その刹那、床格子が沈んだ。鋭い悲鳴のような音とともに、足元の鉄が抜け落ちる。反射で鉄骨を掴む。手が滑る。下は奈落。暗闇の底から無数の腕が伸びてきた。灰色の皮膚、骨ばった指。指先に爪はない。代わりに、時計の針のような金属片が突き出ている。タクミの靴底を掠めた針が革を裂き、冷気が足の甲へ刺さった。
落ちる。落ちるはずだった。
腰の袋から針金を引き出す。鉄骨に二周巻き、手早く結ぶ。片端を手首にかける。結び目は確実でなければならない。もやい結び。指が覚えていた。もう片方の手で格子の縁を掴み直し、体を振って勢いを作る。揺動。腕の針が空を切る。歯先が皮膚を舐める感覚が遅れて来る。わずかな空隙に身をねじ込み、肩をぶつけながら這い上がった。肺が燃え、視界の端で星が弾ける。
息を整え鏡に目をやると、子供の姿は消えていた。代わりに、自分の像が映る──はずだった。だがそこに浮かぶのは、タクミより少し年上の青年の横顔。見知らぬ傷跡が頬に走っている。目の焦点が合った瞬間、鏡面にひびが広がり、像は粉砂糖のように崩れた。
塔が何かを見せている。塔が、何かを記録している。
背後で乾いた靴音がした。振り向くと、黒い外套の人物が立っていた。顔の下半分を布で覆い、目は乳白に濁っている。光を反射しない目。人間のそれとは思えない。
「記録を残せ」
女の声だった。布の向こうからこぼれ落ちるような、かすれ声。
「おまえが歩いた痕跡は、塔に喰われる。名の杭だけでは足りない。行為を書き付けよ」
タクミが息を呑む間に、女は自分の袖を裂き、小さな布片を手渡した。布には銀糸で細い線が縫い込まれている。文字か、符号か、楽譜か。高い線と低い線が交互に走り、ところどころで結び目のように交差している。
「読めない」
つい口からこぼれた言葉に、女は首を振った。
「読めば消える。なぞれば残る」
それだけ言うと、女の輪郭はふっと薄くなり、影の水へ沈むように床へ吸い込まれていった。残ったのは布片と、かすかな油の匂いだけ。
塔が低く咳き込んだ。時震だ。世界が一拍遅れ、次の瞬間には元に戻る。戻ったはずだった。振り返ると、たったいま通ってきたはずの通路の壁が別のものに置き換わっている。記憶と形がずれている。女の言葉が背筋を冷やした。痕跡は喰われる。通ったという事実を、塔が上書きする。
ならば、残していけ。残す手段は、まだある。
タクミは布片を指先でなぞり、そこに刻まれた線の高低を心の中で音に置き換えた。たとえば「高・高・低・低・高」。短く、小さく、息を漏らすように口笛を吹く。壁に油を薄く塗り、布片を押し当てる。銀糸がわずかに光り、布地の裏から同じ線が壁へ移った。縫い目の位置に合わせて小さく指で叩く。コン……コン、コン。高低のリズム。
数呼吸待つ。線は消えない。むしろ明度が上がり、細い光が滲んだ。塔の呼吸が、その「記録」を異物と認めず、体内に取り込むように包み込んだのが分かった。
遠くで金属が擦れる音がした。赤い光点が近づく。時間がない。タクミは油と灰で壁へ印を続け、角ごとに布片の線を移した。印は簡素だが周期を持つ。塔のリズムに寄り添う小さな祈り。刻んだ先から消えていくなら、刻む速度で上回るしかない。
小さな保守室を見つけた。扉は半開きで、中には工具の屑箱が残っている。そこに短いチョークの欠片が転がっていた。手に取ると、指に粉が移り、懐かしい感覚が胸を刺す。学校。教室。黒板。記憶の輪郭が揺れて、すぐに霧散した。
机の裏に、簡単な記録を書いた。
――名:タクミ。時震、三回。格子崩落。鏡像(子供/青年)。黒外套の女より布片受領。記録の必要。
書きながら、声に出して自分の名を繰り返した。名は杭。記録は縄。杭に縄を結べば、吹き飛ばされにくい。
保守室の外で、爪が床を引っかく音がした。機構が追い付いた。ここで立ち止まれば終わる。タクミは部屋の配管へ目を走らせる。圧抜きの弁。表示は消えているが、構造は古い工式に似ている。彼は迷わず布片の別の線をなぞった。低・高・低。指で配管を叩く。コン、コン……コン。弁がカチリと鳴き、室外へ高温の蒸気が漏れ出した。
赤い光点が蒸気を通り、レンズ面が曇る。機構の動きが鈍った一瞬に、タクミはドアを開け放ち、狭い隙間をすり抜けた。爪が背に迫る。振り返らない。次の角までの距離を脳内で刻み、布片のリズムで足を運ぶ。
角を二つ曲がった先、通路は突き当たりだった。終わり。そう思った瞬間、目の端で壁面の歪みが動いた。歪みは扉の形をとり、縁から甘い腐臭が漏れ始める。塔の生気が滲む匂い。タクミは手を伸ばしかけ、引っ込めた。あの甘さは門の匂いに似ている。今は越えない。情報が足りない。
代わりに、壁の低い位置に薄い金属板を見つけた。板は指で押すと沈み、内部で錘が落ちる音がした。保守用の落下扉だ。タクミは床の境目に油を塗り、布片の高低で短い合図を打つ。コン・コン……コン。通路の先で鉄が悲鳴を上げ、格子扉が落ちた。追ってきた機構がそれにぶつかり、金属の雨を撒き散らす。レンズが割れ、赤光が片方だけになった。
ほんの数秒。だが十分だ。
タクミは壁に新たな印を残し、通路の脇に隠れる狭い隙間へ身を滑らせた。そこは配線束の影で、人ひとりがやっと入れる空洞だった。息を殺し、名を心の中で唱える。タクミ。タクミ。塔の鼓動は遅れ、追いつき、また遅れる。逆拍が戻らない。
やがて、足音は遠ざかった。
体の強張りがほどけた途端、疲労の波が押し寄せた。指が震える。布片を取り落としそうになる。タクミは慎重にそれを胸元へ収めた。布の縁は、体温とは別の温もりを持っている。塔の体温。耳を澄ますと、銀糸の縫い目が微かに鳴っていた。高・高・低・低・高──最初に移したリズム。塔がこちらを見ている。
隙間の奥には小さな梯子があった。上へ続く。梯子の一段一段に、古い刻印が彫られている。読めない。だが、どれも針と星を模しているのは分かる。タクミは手のひらで祈るようにその刻印をなぞり、上へ向かった。
梯子の先は踊り場になっていた。そこには、異物が置かれている。鉄ではない、木製の机。机の上には分厚い本。表紙は革。金の箔押しで、見慣れない記号が散らしてある。
ページは、風もないのに開いた。
そこに記されているのは、名前と日付、場所の名。筆致は均一で、書き手の気配がまるでない。機械が書いたような、冷たい文字列。
――タクミ 死亡 第三階層 赤の間にて。
喉が音を失う。腕の毛が逆立ち、指先から血が引く。赤の間。知らないはずの言葉なのに、胃の底が冷たくなる。未来の記録。これは真か、虚か。
塔が震え、階下で鉄が裂ける音がした。歯車警備機構が格子を破った。時間がない。タクミは咄嗟にページの一部を破り、革袋へ滑り込ませた。未来を盗むように。罪悪感はあった。だが、それが唯一の抵抗に思えた。
机の下にチョークで短い線を書き付ける。名。さっきの印の延長。ここにいたという、わずかな重量。
踊り場の向こうに扉が一枚あった。鉄ではない、木の扉。塔に似つかわしくない異物。取っ手は冷たいのに、触れた指先に脈打つ感触が伝わる。塔の鼓動が、ここに集められている。扉の向こうから、どこかで聞いた子守唄のような音列が漏れてきた。高低の規則。布片の縫字と同じ構造。
赤い光が階段の踊り場に滲んだ。追手が来る。扉を開けるか、退くか。
タクミは自分の名を心で唱え、足を半歩、前へ出した。
門はまだ越えない。だが、扉は開ける。
次の一歩を作るために、記録を残しながら。
取っ手が回り、木が息を吸う音がした。
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