無限塔の針を越えて
にゃんまげ
第一話 時守の門
目を開けたとき、世界は鉄の匂いで満ちていた。
頭上の天井は見えない。代わりに、どこまでも高く積み上がった歯車と鎖が、街路樹の枝のように交差している。足元は格子状の鉄板で、その隙間からは暗い奈落が口を開けていた。冷たい風が下から吹き上がり、頬を刺す。
ここはどこだ──そう思考を組み立てようとすると、記憶はすぐに崩れた。断片が浮かんでは沈み、手のひらの水のように掴めない。名は、タクミ。十七歳。それだけが確かだった。
世界のどこかで、低い振動音が響いている。規則正しく、しかし、わずかに拍が乱れている。鉄と油の匂いの向こうで、その音は生き物の鼓動のように塔全体へ浸み渡っていた。
壁に目をやると、人の形をした暗い染みが幾つも貼りついているのが見えた。影だ。けれど照明はない。誰の影が、どこからそこへ写っているのか、説明のつかない異物感だけが残る。
タクミは膝をつき、深く息を吐いた。手に豆の硬い感触がある。工具を持った手の痕だ。腰には擦り切れた革袋がぶら下がっており、中にはスパナ、ドライバー、オイル小瓶、古びた針金が入っていた。身体は軽くない。むしろ、全身が微かな倦怠で重い。だが足は動く。動くなら、生き延びる術はある。
鉄板の端から端へ視線を滑らせる。対岸へ渡る細い鉄の橋が一本、鎖で吊られていた。橋はかろうじて形を保っているが、錆が進んでいる。踏み出した瞬間、軋んだ。
そこで、異変が起こった。
水滴がひとつ、橋の奥から飛んできた。光を帯びて、ゆっくりとこちらへ漂ってくる。遅い、と思った。次の瞬間、すべてが一拍遅れた。足音も、振動音も、風の流れさえも、ひと呼吸ぶんだけ後ろへずれる。世界が咳き込んだようだった。
「……時震だ」
誰に教わったのか分からないが、その言葉だけは確かに思い出せた。
時震が収まると同時に、橋の反対側から金属の悲鳴が響いた。赤い光点が二つ、暗闇に灯る。四足だ。機械の獣──歯車警備機構。関節の一つひとつが露出し、動くたびに歯が噛み合う火花を散らす。目にあたるレンズは、血走ったように赤く光っていた。
逃げるか、隠れるか。隠れる場所はない。ならば、通り抜けるしかない。
タクミは橋の鎖に目を凝らす。赤錆で脆くなった連結部が二箇所。そこを越えるたびに橋は大きく揺れる。揺れが最大になるタイミングと、機構が跳躍に移るタイミングを合わせれば、一度だけ視界の死角が生まれるはずだ。
息を吸い、吐く。胸の内側にある何かが、世界の鼓動と同期する。彼は一歩、二歩──三歩目で意図的に足を滑らせ、橋の揺れを大きくした。機構が反応し、前肢を持ち上げる。今だ。
走る。鉄板が鳴く。赤い光点がこちらへ跳ぶ。橋の中央でタクミは身を低くし、スパナで鎖の継ぎ目を打った。弾けた火花が夜目の中で白く跳ね、同時に橋が大きく沈む。機構の爪が空を掴み、軌道がわずかに逸れた。肩口を冷たいものが掠め、皮膚が切れた感覚だけが遅れて届く。
彼は対岸へ転がり込んだ。膝が床を打ち、息が肺からこぼれる。
振り返ると、橋の向こうに人影が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。痩せた男で、灰色の作業服を着ている。顔に皺は深いが、目は若い。男はタクミを一瞥し、笑った。歯が見えない笑いだった。
「行け」
男は橋の留め具へ走り、素手で鎖を押さえ込む。歯車警備機構が再度跳ぶ。橋が悲鳴を上げ、鎖が裂ける。次の瞬間、男の身体は機構とともに闇に吸い込まれた。
時間が、また一拍遅れた。タクミはその遅れの中で、落ちていく人影を見た。届かない距離。伸ばした手は空を掴むだけだ。
橋は落ちた。残った鉄骨が床に叩きつけられ、塔全体へ鈍い響きが走った。
喉が焼ける。胃の底がひっくり返る感覚に、タクミは膝をついた。さっきまで知らなかった男だ。名前も、声の高さも、何も知らない。それでも、助けられた事実は重い。重さに押し潰されそうになりながら、自分の胸の内を掴む。生きている。生きてしまった。
「……すまない」
誰に向けたのか分からない謝罪が、鉄の通路に消えていった。
長くは立ち止まれない。塔は待ってくれない。タクミは立ち上がり、壁際の保守扉を探した。古い記憶の残滓が、こういう場所では非常排気の近くに手動の扉があると囁く。薄い板金の合わせ目をスパナでこじると、内部の錠が軋んだ。油小瓶をひと滴、蝶番へ垂らす。扉はやっとのことで開いた。
内側の通路には、白い霧が低く漂っていた。酸の匂いが鼻を刺す。タクミは革袋から薄布を取り出し、口元に当てる。偶然拾っていたその布には、うっすらと銀の刺繍が施されており、霧に触れた部分が微かに青く光った。霧が布に吸い込まれるように弱まる。普通の布ではない──どこかの儀式で使われたものだろうか。
足元の排水溝には、逆さに流れる水があった。滴が落ちる前に天井へ戻っていく。世界がまた咳き込む。鉄板に刻まれた古い紋様が、呼吸に合わせて脈打つ。誰かの囁きが耳に触れたが、言葉の形を持たなかった。ただ、音の高さと低さだけがある。音階で編まれた祈り。
通路の突き当たりに、黒い鉄の扉があった。扉一面に刻まれた紋章は、星図のようでもあり、時計の内部のようでもある。中央には二本の長い針が交差し、今にも動き出しそうに見えた。扉はわずかに開いている。隙間から吹き出す風は冷たいのに、どこか甘い匂いがした。腐敗と花の匂いが混じった、錯覚するほどの甘さだ。
タクミは無意識に手を伸ばした。指先が扉の縁に触れた瞬間、胸の鼓動が変わった。逆拍。自分の心臓が、外の鼓動に遅れて打つ。扉の奥と、自分の中のどこかがつながってしまったように感じた。
足元で、何かが光った。小さな欠片だ。歯車の歯のような形をしているが、骨の質感に似ている。拾い上げると、ぬるい温度が指先に伝わる。体温ではない。塔の体温。欠片は弱く脈を打ち、耳を澄ませば、遠くの鐘の音と同じ速さで震えていた。
「戻れ」
声がした。男の声でも女の声でもない。金属が擦れる音と、羊皮紙をめくる音の中間のような声。どこから聞こえているのか分からない。欠片が震え、扉の針がわずかに動いた。
タクミは目を閉じた。生き延びるために必要なことは何か。いま開くべきか、退くべきか。頭の中で、見知らぬ男の顔が浮かぶ。笑っていた。歯の見えない笑いだ。行け、と彼は言った。行け。ひとり残ったのは自分だ。
「……すぐには越えない」
タクミは欠片を革袋にしまい、扉から一歩退いた。ここが終わりではない。扉の名が何であれ、越えるために必要なものがあるはずだ。武器でも、魔法でもない。仕組みを知ること。塔の息継ぎの間隔、歯車の重み、針の止まる位置。自分にできるのは、見て、計って、合わせることだ。
振り返ると、遠くの通路に赤い光点がまた灯っていた。橋を落としても、別の道からやってくるのだ。世界の鼓動が速まる。逆拍は元に戻らない。扉の奥で、見えない何かがまばたきをした気配がした。
タクミは短く息を吐き、再び歩き出した。ここに来た理由は分からない。けれど、この塔が生きているのなら、呼吸の合間を縫って生き延びる方法はある。ほんの紙一重でも、次の一歩へ続く足場は作れるはずだ。
鉄の回廊を渡りながら、彼はひとつだけ名を与えることにした。あの扉に。
時守の門──塔の時間を守る者の門。あるいは、時間を守る誰かを選ぶ門。
世界はまた、ひと拍遅れた。
塔の奥で、遠い鐘が鳴った。
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