この小説は、8月5日に「原子力爆弾の発明には20年かかる」と言われた翌朝にその事件が起こったことの、たった数時間ばかりの奇妙な夏の、生々しいタイムスライスです。
終戦記念日が夏の季語になるくらい、八月と戦争は我が国で一体です。けれど当時を知らない我らにとって、戦争と八月が空気感を伴って結びつかずにもいます。
以前、呉港にいったとき大きなタンカーのようなものが造船されていて、大和が停泊していたらあんな感じだったのかなと思いました。
この小説の冒頭では、坊ノ岬沖海戦で「大和さえあれば」のすがるような幻想が崩れ去ったあとの海であり、大和がいない海という意味では、今日の呉の海と変わらないのですが、ほんの数ヶ月前までは大和があったという言葉が、実際に見た現代の呉の記憶から、1945年8月5日の呉をタイムスリップして見通せるような感覚になるのです。
そう、結局この小説は、8月5日と本日を通じさせるのがとても巧みです。
線香花火という今日と変わらない夏がそこにある。なのにB29が飛んでいる。
過去の夏と今日の夏が滲むように境界線を失って重なるから、この小説を読むと、打ち上げ花火の射撃音や炸裂音がとりわけ怖ろしく聞こえるかも知れない。あるいは太陽のように膨らむ線香花火も、別のものに見える気がする。
逢魔が時のような感覚をもたらすのがこの小説ですが、同じ「火薬と夏」であるのに、今日の8月に笑顔が溢れている不思議さに、平和の安堵を感じられるのです。
線香花火を灯すだけ。ただそれだけのことを究極的に尊く感じられる、歴史小説であり、まさしくどこか現代ドラマです。