[はやボク] 1-15.すべて忘れてしまう前に

 校舎の屋上に続く無機質な階段を上った先で待っていたのは教務部長先生だった。

 いつもの無表情なその顔はまるでこの空気の重さにすら無関心のようだった。

 気持ちの悪い強い風が、今のボクの気持ちを見透かしてるようにも感じる。

「――理由は、分かっていますね」

 淡々とした口調に、感情はひとかけらも宿っていない。

「あなたは、他者に干渉しすぎました。ユン・ソラの潜在因子は既に世界にノイズを与えています。よって、対象者:あなた、そして調整のための触媒であるユン・ソラ、双方を再調整――リセットをします。これはI.W.A.N.の決定です」

 静かさが逆に風の音を騒がしく感じさせた。

《お前がソラをボクに干渉させたんじゃないか!》

 そんなイラつきもあったが、教務部長先生の言葉は理解できた。納得もしている……、つもりだった。

「……分かりました」

 ボクの声も、教務部長先生と同じように無機質だった。

 そう。

 こうなることは、どこかで分かっていた。ソラに踏み込みすぎた。それは確かだ。

 でも――それでも。

 ドカドカドカ! バタンッ!!

「ちょいちょいちょい、ちょっと待ってよ!!」

 扉を蹴破って屋上にソラが駆け込んできた。

「それって何!? なんで他人の人生を勝手に決めるの?! 私とキミの問題でしょ?! I.W.A.N.とか、関係ないじゃん!!」

「ユン・ソラ。感情的な反応は再調整の妨げになりますよ」

「うっさいわ! こっちは本気なんだよ!」

「……ソラ」

 教務部長先生に食って掛かるソラに、ボクはなだめる言葉を思い浮かべることができなかった。

「ソラ、もういいよ。ボクは別に消えても構わない」

「え……? なに……言ってんの?」

「ソラが幸せに生きられるならボクはそれでいい。ボクなんかがいてソラの足を引っ張るくらいなら――」

「何それ? それじゃ今までのことは何だったの?!」

 ひっくり返ったソラの声が風に負けないくらい強くなった。

「ゲーセンも、パンケーキも、カラオケも……おそろのネコミミのキャスケットも…… それも全部リセットされるんだよ? 全部忘れちゃうんだよ?! キミはそれでいいの?!」

 声を詰まらせてポロポロと涙が溢れ出すソラ。

「そんなの寂し過ぎるよ……」

「そうだね、寂しいね。でも、ボクなんかがソラの邪魔になるくらいなら……」

「《ボクなんか》って何!? キミはバカなの!? それで私が幸せになれるわけないじゃん!!」

「私は好きなものを忘れて幸せになんてなれないよ……」

 いつも明るく元気なソラの声はか細く、今にも線香花火が落ちて消えそうな、弱々しいものになっていた。


 そのときソラの中で何かが弾けたように見えた。


「……いや、違う」

「そうだ、違うんだ。バカなのは私の方だ」

 さっきまで怒りに我を忘れていたソラの表情が、今は別人のように見えた。

「夢をあきらめることで安心したフリをして《自分なんてどうせ》って顔をして《好き》って気持ちを無かったことにして……」

「でも、やっぱりそれって違うよ。うん、絶対に違う!」

 ソラはキリリとした表情で振り返ると、教務部長先生をまっすぐに見据えた。

「私、リセットなんか受けない。夢も、記憶も、気持ちも――全部、私のものだよ。私、ピアニストになる。どんなに怖くても逃げずに向き合ってみせる!」

 最初に出会ったときからずっと無表情だった教務部長先生の口元がわずかに緩んだ、気がした。


「――二人とも、合格です」


 ソラが豆鉄砲を食らった鳩のような顔で言葉を漏らした。

「……え?」

「それこそが、I.W.A.N.の意図する《調整》です。人は他者と関わることでしか相手のことも、自分の本心すらも知ることは出来ません。それはどんなに正確に客観的な観察・分析をしても、です」

「そして、ユン・ソラ。選択とは個々の自由意志によって初めて価値を持つものです。自らの意思で選びとったその答えに対し誰も介入することはできません。私にも、I.W.A.N.にも」

 そう応えた教務部長先生の無機質な足音は、階段の奥へと消えていった。

「……なんだ。そういうことだったのか」

 つまり、こうだ。

 そもそもI.W.A.N.の調整対象はボクたけではなくソラ《も》だったんだ。すっかり噛ませ犬の役を演じさせられてしまった気分だよ。

 そう一人で納得したボクの顔を見てソラは混乱していた。

「え? え? なにそれ? どういうこと?」

「……いや、やっぱり分かんないや。でも、言わせて」

「ボクはピアノを弾いているときのソラが大好きだよ。……本当に」

 ソラは少し照れくさそうに笑った。

 それから二人で声を上げて泣いた。

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